第1話 少女は瑠璃唐草の匂いがした

 神はひとりの少女と出逢った。

 その少女からは、懐かしい匂いがした。


 人間が立ち入ることがない山の奥。そこには小さな洞穴があった。洞穴の入り口は蔦や草が生い茂っており、まるで洞穴の存在を隠しているようだった。硬く閉ざされているように見える洞穴は、神が近寄るとまるで意思があるように開かれた。

 神が足を進めると、そこには1体の石像があった。とても古いもので無数にひびが入っている。石像は少女のようで、膝をつき指と指を交差させ、まるで神に祈りを捧げているように見えた。

 その石像の周りには薄暗い洞穴の中だというのに、瑠璃唐草が咲き誇っていた。

 神が右足を立てて跪き、そっと石像の頬に触れるとぱらり、と石が崩れた。


「清香よ、久しいな」

 から100年は経つのか、と神は昔の記憶を呼び起こしていた。

 その昔、神には花嫁がいた。その花嫁は、凶作を嘆いた人間が神に祈りを捧げるために贈られた。

 透ける黒い瞳に覚悟を宿し、純白の花嫁衣装を身に纏って神の前に現れた。

「花嫁として、私をお受け取りください」

 14歳の幼い娘はそう言って、神の花嫁となったのだ。

 その花嫁からは瑠璃唐草の香りが淡く漂っていた。


「椿と言ったか」

 神は椿の影に最初の花嫁を重ねていた。神の住むこの山には瑠璃唐草がそこら中に生息している。その匂いに当てられたのかもしれない。


「今日出会った椿という娘は君にとてもよく似ていた」

 もしかすると君の子孫かもしれないよ、と穏やかに話す神と沈黙を貫く石像。神は表情は変わらないのに、少しだけ寂しげだ。


 人間と話をしたのは100年ぶりだった。別に、あえて人間との関わりを避けていたわけではない。だが、もう神の姿形、そして声まで捉えることが出来る人間が産まれてこなかったのだ。現在の宮司も、神を視ることは出来ているがぼんやりと光っていることが確認できる程度。

 椿は、本当に稀有な存在だ。

 もしかしたら、椿が最後の神を完全に視ることができる存在かもしれない。


 …つまり、私は、


「清香、また来るとしよう」

 神は独り言のように石像に話しかけ、その場を後にした。



 *



「今日、神様に会ったの」


 陽が沈むのが、だんだんと遅くなって来た4月。月がぼんやりと浮かび始め、静けさが漂ってきた。その静けさを打ち破るかのように、鈴のような少女の声が響く。


 椿は父と母に、今日の出来事を楽しそうに話し出した。

 普通の家庭であれば、子どもの空想の話が始まった。そう、捉えるだろう。

 だが、この少女、椿の家庭は普通ではない。


 神に仕えし巫女の末裔。

 巫女の子孫という、特殊な家柄だった。


「ほう、それは素晴らしいことだ」

 椿の父、鳥居敏久とりいとしひさは遂にこの時が来たか、と胸が躍った。

 だが、それを表情には出さず落ち着いた声で応える。


 この村では毎年春に、巫女を花嫁として神に捧げる風習がある。巫女の家門はいくつかあるが大きく分けて3つある。

 現、宮司を家長とする六角家、今春、花嫁を出した松平家、そしてこの鳥居家だ。

 巫女の家門の子孫は神を視る神力を遺伝しやすく、神を視る力は花嫁の資格とされている。

 とはいえ、もう100年ほど本当に神を視ることができる巫女は産まれていない。そのため、神を視ることが出来ない巫女や一般の娘が花嫁として神に捧げられている。

 最近、花嫁となった松平家の巫女、都も神力はなかったが、14歳ごろの娘が都しかいなかった為に花嫁の資格を得ることができた。

 椿のこの発言も一般的な子どもと同じ、空想の出来事の可能性が高いだろう。


 そう、父は思った。だが、万が一と言うこともある。

 心臓が強く拍動する音が聞こえる。踊る胸を鎮めながら、神を視たと言う者に必ずする質問をした。


 父の問いかけに、椿は目を細め、長い睫を揺らしながら答えた。

「簡単よ!今日はお空が暗かったのに、神様だけ光っていたんだもの」

「!」

 神の姿は教本で言い伝えられている。だが、その姿が発光していることは伏せられていた。なぜなら、神の姿が視えると嘘をつき、花嫁や宮司の資格を得ようとする者が少なからず出るからだ。

 つまり、椿は“ホンモノ”ということだ。


「神様っておじいちゃんかと思っていたけど、お隣の太郎兄ちゃんくらいに見えたわ!でも、お髪は銀色でね、髪の毛だけお年を召したのかしら?」

 ふふふ、と楽しそうに話す椿は、ふと父の顔を見た。

 父は嬉しそうに目を細め、口角は嫌なくらいに上がっている。


「…私が14歳になったら、花嫁に選んで貰えるかしら」

「ああ、椿より神の花嫁に相応しい子はいないさ」

 父はそれはそれは嬉しそうだ。


 母を見ると、ニコニコと微笑みながらまるで使用人のように部屋の入り口付近に控えていた。

 父も、母も酷く笑っている。


 ねえ、お父様。なぜそんなに怖い顔で笑っているの?

 ねえ、お母様。なぜそんなに悲しい顔で笑っているの?


 椿は胸に広がる、黒くてもやもやとした感情を持て余す。父と母は同じ笑顔のはずなのに、なんて対極的な表情なのだろう。その笑顔は椿の心に真っ黒なシミを落とした。


 母は父の様子を伺いながらも恐る恐る椿に近づき、黙って娘を抱き締めた。

 その、母の微かに震える腕を受け入れながら、、と椿に一つの疑問が生まれた。


 だが、椿は抱いた疑問を言葉に出来ず、飲み込んだ。



 *



「いずれ花嫁にいくのだから、神とは仲良くさせていただきなさい」

 朝食に出された鯵の塩焼きを一口食べたところで椿に、父、敏久は上機嫌にそう言った。そんな敏久に若干の薄気味悪さを感じたが、椿はいつものようににこり、と微笑む。

「ええ、そうさせていただくわ!神様も椿の愛らしさにイチコロよ!」

 そうは言ってはみたが、先日の神様の様子を見ると、椿と仲良くする予定はなさそうだ。だが、そんな事実を言えば父を失望させてしまうに違いない。そして、巫女としての教えを説いて(しかも3〜4時間はお説教ね)、男性を(この場合は神様)立てるためのお作法についてもネチネチと説明してくるはずだ。


 …そんなの、まっぴらごめんだわ。

 椿は、大人たちからそういった“巫女としてのあり方”を押し付けられるのがどうも苦手だった。だが、巫女として産まれてきた椿は、それを避けることができない。その結果、道化を演じるようになったのだ。人形のように美しいその外見とは裏腹に、道化のような性格。村人だけでなく、家族までも椿のことを少々、”風変わりな女の子”として扱っていた。


「ははは…。まあ、あまり無礼の無いように」

 椿の言葉に敏久は乾いた笑いを溢した。なお、眼は全く笑ってはいない。どうやら、椿の道化は大根役者のようだ。



 *



「…また来たのか、小娘」

「椿よ!」

 神は今日も御社の裏にある川で釣りをしていた。


 父に言われたからではないが、どうせ花嫁になるなら仲良くした方がきっと楽しい。椿はそう思い、神と出逢ったこの川に来ていた。

「今日は、聞きたいことがあってきたのよ」

「…なんだ」

 神はぶっきらぼうで視線を落としたままだったが、椿の言葉に返答をした。当然のように無視されると思っていた椿は目を丸くした。

「神様って優しいのね」

「…別に、答えるとは言っていない」

 少し、拗ねたように答える神になんだか親近感を覚える椿。にこにこと微笑みながら言葉を続けた。

「実は、都お姉ちゃんのことなんだけど。どうしているかしら?家門は違うけど、姉妹のように仲良くしていただいてたの」

「…知らない」

「え?」

 神は視線を合わせずに、少し考えるように親指と人差し指で顎を撫でた。


「都お姉ちゃんとやらは知らない。…以上だ」

「…」

 自分の花嫁に対して、ちょっと冷たいんじゃないかしら、と椿は思ったが口に出したら罵倒してしまいそうだったので言葉を飲み込むことにした。…やっぱり、神様は優しくない。


 神は相変わらず釣りを続けている。神の少し後ろでお尻を着かずに膝を抱えて座り見ていた。魚が釣れる様子は、ない。

「…釣れないわね」

「…今から釣れるんだ」

 椿は神の横にゆっくり座り直し、着物の裾を膝までたくしあげ、川に脚を差し出した。

 その様子に、神は目を丸くした。

「…何をしている」

「は!」

 威勢のいい掛け声を発した瞬間、ざばっと右腕を川に突っ込んだ。手応えを感じた椿は振り返り、にやりと得意気に笑う。

「釣りはどうやら私のほうが上手みたいよ」

 その手には鮎がしっかり握られていた。

「…女の子が気軽に脚を晒すでない!」

 その上、釣りというより最早狩りだ!と、いつもより気持ち大きな声で抗議する神の耳は、桃色に染まっていた。冷静沈着な印象のあった目の前の神は、意外にも人間臭い一面があるようだ。


「まあ、の脚なんてなんともないわ!…でしょ?それより、はい、どうぞ」

 椿はにこにこと神に取れ立ての鮎を差し出した。どうやら小娘と言われたことを、少々根に持っているようだ。右手でしっかりと尾を握られた鮎は、びちびちと跳ねている。

「…なんだ」

「お供え物よ!」

「は?」

「お供え物をあげるから、椿がお嫁に行ったときは優しくしてね」

 真っ白な歯を見せながら、にかっと笑い、さらに鮎を受け取るようにぐいっと差し出す。

「…恥じらいを覚えてから出直してこい」

 そう言って、神は姿を翻した。


「あーあ」

 都お姉ちゃんの話しも聞けなかったし、やっぱり仲良くしてくれる気もないみたい。と、残念に思った椿の左手からは、鮎はすっかり消えていた。

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