祈りの果て
「市井さん!」
とつぜん消えた聖を探して、つゆと朝葉が崩れた校舎を駆け回る。
「だめ、こっちにもいないよ……!」
「どこに行ったのかしら……。玉城さんも、いないわ」
「みんなと一緒に、逃げたんじゃないかな……。校門の方も、探してみようよ」
「そうね……」
二人はひと気の消えた廊下をあとにし、校舎を出る。地響きは少し遠のいたものの、いまだ断続的に足元を揺らしている。
校門のそばに出ると、学生や街の住民たちが、通りを逃げ惑っているのが見えた。民家の窓からは、ぽかんと口を開けた人々が、みな一様に遠くの空を眺めている。
「いないわ……。一体、どこに行ってしまったの」
「ねえ、姫……」
「やっぱり、まだ学校の中じゃないかしら」
「姫」
「もう一度、戻って探しましょう」
つゆが呼びかけた時、校門の横に立った朝葉は、両手を強く握りしめ、今にも崩れ落ちそうな表情で、つゆを見ていた。
「どうしたの……?」
「姫、ごめん……」
「何……?」
見つめ返すつゆの視線を振り切って、ふいに朝葉は身を翻し、駆け出した。
「ちょっと、どこ行くの……!」
朝葉は校門を出て、振り返りもせずバス通りを登っていく。
「高羽さん……!」
つゆは去りゆく朝葉と背後に残した校舎を代わる代わる見ながら、このまま朝葉を追うべきか、逡巡していた。
「何よ……どういうことよ……」
学校には、聖が残っているかもしれない。その可能性が、つゆの決断をためらわせた。
朝葉は坂の上へと消えていく。
「もう! 何なのよ……、意味がわからないわ! どうしたらいいっていうの!」
つゆはしばらく焦燥を振り撒いたあと、やがて決心したように校舎に向かって歩き出した。
ついさっき、聖を見失った廊下に、うずくまる一人の後ろ姿があった。
その背中は、崩れた天井から零れ落ちる光の下で、今にもかき消えてしまいそうに、はかなげに見えた。
「市井さん……?」
つゆが駆け寄ると、聖は少し遅れて顔を上げた。
「ああ、つゆ……」
「どうしたの? どこにいたの?」
聖はつゆと目を合わせることもなく、ぼんやりと前を見つめている。
「思い出に、浸ってたよ」
「どういうこと……玉城さんはどうしたの?」
「タマは……どっか行っちまった。先に、逃げたんじゃねえのか」
聖を見つけた安堵も束の間に、ただならぬ雰囲気が、つゆを緊張させる。
「……何があったの?」
聖はしばらく無言のままだったが、ようやく振り返ると、一人で立ち尽くすつゆを見て言った。
「……朝葉は、どうした?」
つゆは少し口ごもってから、とつぜん学校を出て行った朝葉の様子を伝えた。聖はいつもの顔色を取り戻し、ゆっくりと立ち上がる。
「大丈夫?」
手を差し出したつゆに構わず、聖は頭を押さえてふうっと一息ついた。
「なんか、変だったよな、今日のあいつ……」
「いつもより大人しかったわ」
「どこ行ったんだ?」
「わからない……バス通りを上がっていったけど……」
「バス通り……」
聖は、ふと思いついたように校門の方角を見遣った。
「まさか、あいつ……」
「何、どうしたの」
「つゆ、行くぞ」
「ちょっと、待って……!」
急に駆け出した聖を、つゆが慌てて追いかける。
校門を出ると、依然として通りには騒がしく逃げ惑う人々が行き交っていた。バス停のあった場所は変わらず巨大な穴がぽっかりと口を開けていたが、不思議と気に掛ける者はいない。
「市井さん、どこに行くの……?」
聖は無言で坂を登っていく。
「ねえ、さっきはどこに行ってたの?」
黙々と歩みを進める聖に、つゆが質問を変えて尋ねる。
「タマの心に入ってたよ」
「玉城さんの……」
プールサイドで朝葉から聞きそびれた聖の怪我の理由と、まぶたの裏に焼きついた数分前の後ろ姿が、つゆにそれ以上の詮索をためらわせた。
「すまん、今はこのくらいにしといてくれ」
「ええ……。話す相手が欲しくなったら……いつでも言って」
しばらく無言で歩いていくと、歩道の真ん中が再び黒々と陥落していた。車道を挟んだ向かいにはバス停と小さなベンチが見える。
「やっぱりな……」
「これ……またバス停がなくなってるの……?」
「ああ」
聖がつゆを振り返る。その力強い視線に、つゆははっとした。きつく見開かれた瞳の奥に、その強さとは裏腹な、触れるだけで崩れてしまいそうな脆さが透けて見えた気がした。そのせいか、重い鎧のような表情が、かえって慌てて取り繕っただけの張りぼてにも見え、つゆの心を締めつけた。
きっと何かすごく大事なものが、姿の見えなかった短い間に、この瞳の奥で変わってしまったのだ。つゆはそう感じながらも、支えることすらできない自らの無力に打ちのめされていた。
しかしその場違いな煩悶は、続く聖の言葉によってかき消された。
「朝葉は、ここを通ったはずだ」
「どういう意味?」
「つゆ」
聖は瞬きもせず言葉を継ぐ。
「あたしたちは、今、朝葉の心の中にいる」
思わぬ言葉に、つゆが息を呑む。
「高羽さんの……? 数学の授業の……続きってこと?」
「そうじゃない。さっき、二限目の終わりに校門を出た時からだ」
「でも、怪獣も、手嶋さんも、高羽さんは関係ないわ」
「混ざってるんだよ、いろんなやつの考えてる景色が」
「なんで……そう思うの? これが、高羽さんの心の中だって……」
聖は、視線だけでバス停の穴を指す。
「あたしらは、どっかの誰かがバス停を消したと思ってた。けど、違ったんだ」
聖の考えを、つゆも瞬時に読み取る。
「嘘……」
「バス停を消したのは、朝葉だ」
つゆの脳裏に、つい半時前に自らが発した言葉がよみがえる。
『誰かがわたしたちをこの世界にとどめようとしてるのかしら』
朝葉が、三人をこの世界にとどめようとした理由。いや、三人ではない。自分が、残らなければならなかったのだ。ごく私的な、だが、朝葉にとって、何よりも大事な理由によって。
「まさか、高羽さん……」
「あいつは、この坂を登っていった。バスに乗ったら終わりだって思いが、バス停を一つずつ消しながら」
「バスに乗ったら、この世界から出てしまう……」
「ああ。あいつには、まだやらなきゃいけないことがあるんだ」
「けど、そんな……」
坂の上に目を凝らしても、朝葉の姿は見えない。
「だって、もうずっと昔に、事故で……」
聖が唇を噛みしめて、吐き捨てるように言う。
「あいつにとっちゃ、昔じゃねえんだ。ちゃんとした別れも言えないまま、急にいなくなったんだ。あいつはきっと、いつも昨日のことみたいに思い出してる」
つゆの頭に、ほんの数十分前、校門の横に立ち尽くしていた朝葉の顔が浮かぶ。あの表情に秘められたもの。罪悪感、焦燥、葛藤、そして……。
「お母さんに、会いに……」
「つゆ、行こう」
聖はまた歩き出す。つゆも追いかける。
「けど、もし本当にお母さんに会えるのなら、わたしたちがそれを邪魔する権利が、あるのかしら……」
「ちょっとぐらいなら、あいつの好きにさせたらいい。けど、どんなに居心地がよくても、ここは、あたしらのいるべき世界じゃない。あたしらは、あいつの友達なんだ。ほっとくわけにはいかない」
つゆは聖の横顔を見る。
どんな悲しみも、どんな怒りも、恨みも、受け入れるつもりで向かっている。聖にとって、朝葉とは、そういう存在なのだ。表立ってその仕草を見せなくても、つゆには、それが痛いほどよくわかっていた。
つゆはその横顔から目を逸らし、ぐっと奥歯を噛みしめる。
「高羽さん……、山の上まで、歩いていく気なのかしら」
「無理だろ。バスで一時間近い道だ。歩いて行ける距離じゃない」
「じゃあ、どうする気……」
「さっきまであたしらといた時は、まだ気持ちに歯止めがかかってたんだろう。けど、今、それがなくなった」
「気持ちが、抑えられなくなる……」
「どっかで、破裂する。そこに、朝葉の心の中にあるものが、現れるはずだ」
二人は、黙々と歩き続けた。
いくつかのバス停らしき穴を過ぎ、やがて山手地域にも差し掛かろうという時、二人は同時に、風景の違和感に気づいた。
目の前にあるはずの住宅街の景色が、急に開けている。青々と繁るブルーベリーの果樹が一面に立ち並んだ向こうに、霞をまとった木良山の頂が見えた。
「山の……上だわ……」
「ああ。朝葉んちのそばだ」
つゆが振り返ると、いつのまにか市街地の街並みは消えていた。背後にはブルーベリーの畑越しに美しく広がる黄水市のパノラマがあった。
「行こう」
緩やかな時間が流れる山あいの風景に、ひらひらと白い花びらが舞い動くように、二つの人影が山道を登っていく。両脇を過ぎていく果樹は、既に花を落とし、薄紫色の果実を膨らませている。
坂の向こうから、一群れの人家が見えてきた。どの家も広い敷地を持て余すように、何もない庭の奥に控えめな家屋をぽつりと浮かべている。その中で場違いなほど小さな敷地の、低い生垣で囲われた一軒の家が、朝葉の自宅だった。
二人はその入口に立ち、中をのぞき込む。簡素な鉄扉は雑に開け放たれていた。奥を見ると、玄関の引き戸がわずかに隙間を開けている。中は見えないが、人の気配もまるで感じないほどひっそりとしていた。
聖が引き戸に手を掛ける。音もなく、二人を迎え入れるように、戸はゆっくりと開いた。
静かだった。
乱れた呼吸を落ち着かせてから、冷たい土間に踏み込む。
年月が深く染み込んだ板張りの廊下を、二人は息を殺して進んだ。
静けさが、緊張した心を、ぽたぽたと浸していく。家の中は、そこだけ時間が止まったかのように、果てしなく、静かだった。
細かい装飾が型押しされた古いガラス戸が、ちょうど人ひとりが通れるほど開いていた。聖とつゆは、その前に並び立ち、室内をのぞき見た。
ひとつの人影があった。
すぐにそれは、ふたつの人影が重なったものだと気づいた。
手前のひとつは、朝葉だった。のぞき見る二人を背にして、もうひとつの影と抱き合っていた。
見てはいけないものを見たように、つゆが口元を押さえた。その目は大きく見開かれ、朝葉の肩越しに見えるもう一人の顔に向けられている。聖もまた、眉間に皺を寄せ、こわばった表情でその一点を見つめていた。
朝葉と抱き合う人影は、時代遅れの古くさいワンピースを着て、肩に長い黒髪を落としていた。居間を隔てて台所に立ったその人影は、照明の消えた室内で、聖とつゆを戦慄させるのにじゅうぶんな相貌を、暗がりの中にさらしていた。
二人は、声も出せなかった。きつく抱き合う母娘の姿を気遣ったのではない。朝葉を抱きしめた母親の異様な姿を目の当たりにして、言葉を失っていたのだ。
つゆの押さえた口元から、荒い呼吸が漏れる。聖が堪らず顔を背ける。それ以上、二人ともその場に立っていられなかった。
無言でつゆの腕を引き、聖はそのまま玄関を出た。
互いにしばらく声を出すことができなかった。照りつける山上の日差しがじりじりと二人の皮膚を焦がしはじめてから、ようやくつゆが、絞り出すようにつぶやいた。
「あの人……」
鼓膜を破るほどの蝉の大合唱が、つゆの弱々しい声にのしかかる。
「あれが……高羽さんの……お母さん?」
二人が見たもの。
再会の喜びを噛みしめるように、きつく抱き合う母と子の姿。その母親の顔は、きっとあふれ出る母性の温もりに満ちていたに違いない。
そうであるはずだった。
しかし、二人の目にその顔は映らなかった。
朝葉を抱きしめた母親の顔は、生きた人間の顔ではなかった。それは、高速で目まぐるしくシャッフルされる顔写真の束だった。まるで思い出の中から抜け出てきたような古ぼけた洋装に、写真からくり抜いたままの何枚もの色褪せた母親の顔が、次々に入れ替わり続けながら、止まった時間をせわしなく乱していた。
「あいつは……生きてた時の母親の顔も……覚えてねえんだ……」
うつむいた聖の顔が、苦々しく歪む。
「写真の中の姿しか、わからねえんだ……」
「亡くなったのは、小学校に入る前だったはずだわ……」
「くそっ……、あいつは、ずっと……母親に、もう一度会いたいって……それなのに……」
握りしめた聖の拳が、ぎりぎりと震える。
「あんなの……ねえよ……」
裏返った声が、虫の声にかき消える。
夏が、ざわざわと鳴っている。
耳障りなノイズが世界を埋めていく中で、その家だけが、深い水の底にあるように、誰にも触れられぬ静けさに沈んでいた。
聖とつゆは、見知らぬ場所にたった二人で取り残された迷い子のように、炎天の下でただ寄る辺もなく立ち尽くすしかなかった。
どれだけの時間、そうしていただろう。
ふいに、二人の背後で玄関の引き戸が開くかすかな気配がした。
「来て、くれたんだ」
振り返ると、朝葉が立っている。
「ごめんね。何も言わず、勝手に来ちゃって」
「朝葉……」
「せっかく来てくれたし、何か食べてく? 作るよ、わたし。もうすぐお昼でしょ。納豆もあるし」
「高羽さん、お母さんは……」
「いやー、マジで暑いね。夏って、こんなに暑かったっけ。あ、そうだ。川行こうよ。近くに冷たくて入れるとこがあるんだよ」
「朝葉」
「まだあるかな、あそこ。昔よく行ってたんだけど、最近はあんまりこの辺で遊んでないから。ちっちゃい頃は、よく遊んだなー。お父さんと、おばあちゃんと……お母さんと……」
朝葉は穏やかに笑っていた。その目から、大粒の涙がぼろぼろと落ちた。
「すごい蚊がいっぱいいてさ、おばあちゃんが、なんか草むしってきて、こすりつけといたら、虫も来ないとか言って」
零れ落ちた涙の粒が、薄い夏服に透明の染みを広げる。
「それが、すっごい、臭くてさ……。もう虫どころじゃ、ないっていうか……」
朝葉の言葉が終わらぬうちに、聖が一歩踏み出し、長い両腕で朝葉を包んだ。鳶色の頭が、聖の胸の中にうずまった。途端に声は嗚咽に変わる。
朝葉は棒立ちのまま、聖の胸に顔を預け、静かに泣き続けた。
「だって……」
嗚咽に混じって、弱々しい声が漏れる。
「だって、ほんとに……」
うわずった声が、ひきつけのように上下する肩に合わせて、途切れ途切れにこぼれる。
「感じたんだ……。ほんとの、お母さんみたいに、感じたんだ……」
「ああ」
「本物の、わたしの、お母さんみたいだったんだ……」
むせび泣く声が、聖の胸に押しつけられ、くぐもった響きを漏らす。
「あたりまえだろ。おまえの心の中にいるお母さんなんだ。本物に決まってる」
堰を切ったように、大声を上げて泣きはじめた朝葉の頭を、聖の大きな手のひらが包む。
「さよなら……言えた……」
朝葉の白い指が、聖の制服を、ちぎれるほど握りしめる。
「ちゃんと、言えたよ……」
聖の胸の中で、朝葉が叫ぶ。
「お母さん……!」
悲痛な声が、蝉時雨に重なって、いつまでもそこに響き続ける。
朝葉の心が見せた夏の日のまぼろしは、三人をその景色の底に沈めたまま、ぎらぎらと照りつける日差しを浴びて陽炎のようにゆらめいていた。
一台のバスが、低いエンジン音を唸らせながら、家の前を通り過ぎていく。その車体に取り憑いた一匹の奇妙な生き物は、空々しい流し目だけを残して、誰もいない木立の中へと紛れていった。
ン界周覧ブルーベリーバス 細井真蔓 @hosoi_muzzle
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