追憶
「見たか……? 今の……」
「うん、あの怪獣と戦ってたやつ……」
土煙の向こうに、青空が透けている。巨人の衝突で、校舎の端がすっぱりと削り取られていた。
「美術室が、なくなっちゃった……」
始業の鐘は鳴っていたが、教室からは生徒も教師も駆け出してきて、みな一様に崩れた瓦礫の前で凍りついたように立ち尽くしている。
「下の階はどうなってるのかしら……」
「みんな、銀色のやつに気づいてないのかも……。早く、逃さなきゃ……」
「待て、落ち着け。これも誰かの頭の中だろ。終わったら全部元に戻るはずだ。逃げなきゃいけないのはあたしらだけだ」
巨人が起き上がろうとしているのか、再び地響きが校舎を揺らす。壁につかまりながら、朝葉が聖に訴える。
「みんなを置いていけないよ……!」
「高羽さん、パニックが起こる前に逃げないと……」
指一本が大人の胴回りほどもある巨大な銀色の手が、風穴の空いた廊下の端をつかんだ。阿鼻叫喚とともに、野次馬が一斉に動き出す。
「逃げるぞ!」
聖の一声とともに、三人は階段めがけて走り出した。慌てふためく生徒たちが、三人を押し退けて階段を駆け降りていく。その中を、一人逆行して進んでくる者の姿があった。
「聖!」
人波をかき分けて階段をのぼってきたのは、玉城千鶴だった。
「タマ、何やってんだ、逃げろ!」
「みんな、どうしたの……? なんか、すごい音したけど……」
「いいから、来い!」
玉城の手を引いて、聖が人の流れに乗る。
「ちょっと……なに、どういうこと……?」
強引に腕をつかまれた玉城が、足をもつれさせ聖のあとを追う。
四人が一階に降りた時、遠くから聞こえる耳鳴りのような甲高い音が、群衆の足を止めた。次第に音量を増すその怪音を追いかけるように、地鳴りがじわじわと大きくなる。
「なんか、来るぞ……!」
鼓膜を破らんばかりの高音が、窓ガラスを細かく振動させる。地響きはいよいよ校舎を底から揺り動かすほど強くなる。
ふと、窓の外が、白くなった。
瞬間、怯えた生徒たちの目の前で、校舎の一部が消しゴムを滑らせたように真っ白になった。強烈な光に目を背ける暇もなく、爆風と轟音が密集した彼女らを襲う。光の近くにいた生徒は将棋倒しに数メートルも吹き飛んだ。光に飲まれた者は、影も残さず掻き消えた。
やや離れた位置にいた四人は、爆風にあおられつつもなんとか立っていた。光の通ったあとには、深くえぐれた地面が焦げ臭い白煙を上げている。
「なにいまの……ビーム……?」
「巻き込まれたわ、何人か……」
朝葉もつゆも、無表情でつぶやく。あまりに一瞬の出来事に、感情も表情も現実に追いついていない。
「今は考えるな。逃げるぞ」
聖が玉城の手首をつかんだまま、校舎の形が残る方へと駆け出した。
「ねえ、聖……! なんなの、これ……?」
「あたしもわかんねえよ……」
どこへ逃げれば正解か、誰もわからないまま、誰もが闇雲に散っていく。
「朝葉、なんか想像してくれ!」
走りながら聖が言う。
「おまえの心の中に……逃げ込むしかねえ!」
「そんな……、どうやったらいいの……?」
「あたしに聞くなよ……」
「わかんないよ……。楽しいこと考えたらいいの……? 無理だよ、こんな時に……」
目の前で校舎を破壊され、級友たちを光線に焼かれ、朝葉も動揺が頂点に達している。
「なんでもいいから、とにかく、このイカれた状況以外のやつを考えてくれ!」
「ねえ、心の中ってどういうこと……? 聖も、朝葉ちゃんも、何を知ってるの……?」
走りながら玉城が声を振り絞る。
「言ってもわかんねえし……、おまえは、何も知らなくていい」
「なんで……?」
「おまえは、何があっても関係ねえんだよ……。あたしら三人の問題だから、心配すんな」
ふいに、玉城が立ち止まる。
「どうした?」
手首をつかんでいた聖もつられて足を止めた。
「早く行くぞ」
「聖……」
玉城は動かない。
「なんで、いつも……」
聖がつかんだ手に力を込める。
「見ただろ、一瞬で何人も消えた。早くしねえとあたしらもヤバいんだ」
「そうじゃない!」
聖の手を、玉城が振り払う。
「……聖。さっき、わたし、また山脇先生のとこに行ってたの」
「あ?」
「先生、まだ気にしてた……。何度も言ってたわ、自分の監督不行き届きだったって」
「今、そんな話してる場合じゃ……」
その時、聖の足に、何かが触れた。
どこから現れたのか、一個のバレーボールが足元に転がっている。聖は玉城の顔を見る。逃げていた時の動転した表情とは違う切羽詰まった顔で、玉城は聖を見つめ返す。
「どうして、みんなの前に、顔を出さないの?」
「何言ってんだ……?」
再び、足に何かが当たる感触。二個目のボールが、音もなく転がった。
聖は異様な空気を感じ取り、警戒して玉城を見つめる。地響きも、悲鳴も、人の気配さえ、いつのまにか消えていた。
「タマ、どうした……?」
「聖は、どう思ってるの?」
三個、四個……次々に転がるボールが、聖の足元を埋めていく。振り返っても、誰もいない。朝葉も、つゆも、どこに隠れたのか、姿が見えない。
玉城はじっと聖を見つめている。
「他のやつらはどこ行った……?」
「他の人って、誰?」
「いや、だから朝葉とか、つゆとか……」
「わたしと、聖の話だよ?」
「何の話だ……」
「ずっと、わたしと、聖の話じゃん」
「何を……」
「あの日から……ううん、ずっと前から」
ボールは聖の足元を埋め尽くすほど増えていた。床に目をやって、再び玉城を見た時、とつぜん、目の前の風景が変わった。
破壊された校舎は、どこにもなかった。二人が立っていたはずの廊下は、光沢のある山吹色のフローリングに変わっていた。それが天井の高い吹き抜けの大空間に敷き詰められている。
白いネットの前に、玉城が立っている。
見覚えのある、体育館だった。
「ここは……」
ひそひそと笑う声がした。
振り返ると、真っ白に開いた出入口の前に、黒いユニフォームを着た女子たちが数人、こちらを見ていた。その一人が、聖に向かって何かを転がした。それは聖の足元に散らばったボールにぶつかり、その中の一つとなった。
「あいつらは……」
「市井、ぼさっとすんな!」
コートの脇から、体格のよい男がボールを打ち込む。聖の目の前をボールがかすめて飛ぶ。
「山脇……」
ボールを受ける小気味よい音が、高い天井に反響する。トスを繋げる乾いた響きが追いかける。
青いユニフォームに身を包んだ玉城が、ネットの前に直立して聖を見つめている。コートの中では同じユニフォームを着た女子たちが、機敏な動きでボールをやり取りする。
「タマ……これは……」
軽薄な笑い声が、また聞こえた。呆然とする聖の足元で、ボールがもう一つ転がる。聖は自分の身体を見る。着慣れた試合用のユニフォームが、脂汗のにじんだ皮膚に張りついている。
「聖、わたし、考えてたの。あの日、何が守られて、何が失われたのか」
コート内に立ち尽くした二人を無視して、チームメイトたちによる激しい練習風景が繰り広げられる。
「わたしが……シメ高の男の子たちに絡まれた時、わたし、すごく、怖かった」
聖は言葉も返さず、話し続ける玉城を見ている。
「急に、身体も触られたんだよ。どうしたらいいか、わからなかった。でも、なんとかしなきゃって、思った」
「市井、ぼさっとすんな!」
聖の目の前を、再びボールが横切る。
「ちゃんと、自分の声で、イヤだって言わなきゃって、思ったんだ。……けど、怖くて、声が出なかった。結局、走って逃げることしか、できなかった」
聖は眼前を飛び交うボールを避けもせず、静かに玉城の声に耳を預けている。
「わたしが悪いんだ。聖に、みんなに、バレちゃったから……。これでも、四月生まれだから、聖より、少しだけ先輩なんだよ? でも、ダメだよね、泣いてしまったから」
聖の背中に、飛んできたボールが勢いよくぶつかった。しかし、聖は動かない。
「あんなに怒った聖を見たのは、中学から、今まで、はじめてだったよ。きっと、怒ると思った。わかってた。だから、そうさせた、わたしが悪いんだ」
「タマ、違う……」
「聖。あの日、失ってしまったものは……」
笑い声。ボールの弾む音。跳ぶ音、着地する音。この光景の中で、何度も繰り返されてきたであろう、その音。聖はそれらすべてを遠くに感じながら、玉城の唇から漏れ出す言葉の一つ一つを、まるで頭の中に生まれる音のように聞いていた。
「あの日、なくなってしまったもの。……これから先の、選手としての、聖の一年間」
言葉と言葉の間を埋めるように、ボールを弾く乾いた音が響く。
「山脇先生の、チームのみんなの、それから、わたしの中にもあった、ぜったいに切れることのないと思ってた、みんなを繋げてた、糸」
「あたしは……」
「だいじょうぶ。言わなくてもわかってる。聖は、ずっと、そうだったから。聖は……すごいよ。二年でレギュラーだし。バレーと関係ないとこでも、弱いわたしを、いつも守ってくれた。泣いてるわたしを見て、何も言わず、体育館を出ていったよね。強い目だった……。その目に、ずっとわたしは助けられてきた。けど……」
ネットの向こうに、男が倒れている。
学生服を着た男たちが数人、その周りを取り囲んで、うろたえるように動いている。倒れた男が立ち上がって何かをわめく。しかし、その声は聞こえない。
そこへ、いつのまにかコートの脇から消えた教師が、横から割り込んでくるのが見える。男子生徒たちは、現れた教師と、そこにいる見えない誰かに向かって、口々に何かをわめき散らして、逃げるように消えていった。
だらりと下ろされた聖の腕に、飛んできたボールが当たった。ボールは聖の足元を跳ねて、たくさんのボールに混じって転がった。
「聖、あの日、何が守られたんだろう? わたしは、聖に守ってもらったのかな。聖が男の子にやり返して、わたしは、救われたのかな」
「あたしは……」
チームメイトの身体が背中からぶつかり、聖は片膝をつく。
「聖、あなたは」
聖は立ち上がろうとしない。片手を床に突き、力なく落とした肩を丸めている。
「あなたは……いつだって強引で、いつだって、正しくて……」
聖の視線が、玉城の足元に落ちる。その目は、すぐそこにある物をすり抜けて、遠くにある何かを見ているようだった。
「いつだって……」
聖の目元が、ふと歪む。
「優しくて……」
その両眼が、きつく閉じられる。
玉城が、きゅっと拳を握りしめる。
「助けてほしいなんて……わたし一度も、言わなかった!」
はかなげに光りながら、回転し続ける回り灯籠のように、二人の周りで、何度も同じ光景を繰り返すチームメイトの姿。飛び交うボール、声、汗の雫。むしむしとふくらむ、初夏の空気。
ゆっくりと、聖は目を開けた。
「ああ。そうだな」
落としたままの視線で、ぽつりとつぶやく。その目は、転がるボールの一つを、ぼんやりと追っていた。
「あたしが、いつも一人で、勝手に……」
視界の隅に、玉城の白いシューズが見える。
「タマ」
顔を上げた聖を、玉城が見つめている。その表情は、ついさっき声を荒らげたとは思えない、聖のよく知っている、なごやかな玉城そのものだった。
聖は何かを言おうとして、言葉を詰まらせる。
それから、しばしの沈黙を数えたあと、
「ありがとうな」
そう言って、聖は力なく笑い、再び目を伏せた。
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