人間

 にじり寄る獣を前に、聖が身構える。

「手嶋、その熊を、消してくれ」

 獣の背後に隠れた手嶋は、答えようとしない。

「おまえが、考えるのをやめたら、きっと、いなくなる」

 言葉を選びながら、聖が説得を試みる。

 獣はいつでも飛びかかれるように前傾して立ち、突き出した漫画的な口元から、白く濁った唾液をぽたぽたと垂らしている。

「手嶋、だったら、あたしだけ置いて、二人は外に出してくれないか。元はと言えば、あたしが余計なこと言ったのが、おまえの気に障ったんだろ?」

 手嶋も獣も、何の反応も返さない。

 濡れた頬を拭いながら、つゆが口を挟む。

「市井さん、だめよ。原因はわたし……」

「つゆは、下がってろ」

「そういうわけにはいかないわ」

 つゆが獣をにらみながら、震える足を一歩踏み出す。

「つゆ、頼む。狙われてるのは、おまえなんだ」

「だったらなおさら、わたしが囮になってでも……」

「ねえ、二人とも、見て……」

 相変わらず手嶋の姿は獣の影に隠れていたが、その獣が、風船に空気を入れるように、少しずつ膨らんでいた。

「手嶋の感情がたかぶってるんだ。つゆは、黙ってた方がいい」

 聖が小声で囁く。

「でも……」

「姫」

 朝葉にも制止され、つゆは言葉を飲み込む。膨らみ続ける獣は、今にも天井に届きそうだ。見上げる朝葉の顔にも不安の色が濃くなる。

「手嶋さん……、それ以上クマさん大きくしたら、教室に入んなくなっちゃうよ……?」

「手嶋、その熊はおまえの想像かもしれねえけど、あたしらはおまえの想像じゃない。やっちまったら、ほんとに死ぬんだ」

 獣の膨張は止まらない。着ぐるみのような頭部が、天井に触れる。

 三人が少しでも動くと、すぐさま獣の身体が反応する。下手に動けば、獣の狩猟本能を刺激するのは明らかだった。

「意味がわからねえのは、わかってる。けど、ほんとなんだよ。おまえが熊を大人しくさせといてくれたら、あたしらはすぐに出て行く。何もおまえの邪魔はしない」

「邪魔しはじめたのはおまえらだろ……」

 ようやく手嶋が口を開く。しかしその姿は、隠れたままだ。

「悪かった。おまえをどうこうするつもりはなかったんだ。信じてくれ」

 泥に沈み込んだような沈黙の中、三人は手嶋の返答を待つ。

「……そっちのエロ眼鏡は……悪いなんて思ってないんだろ」

「エ……、何よ……最初に突っかかってきたのは、あなたでしょ……?」

「つゆ、黙ってろ」

「……ほらね、やっぱり自分だけは、善人だと思ってる」

「思ってないわよ!」

 つゆが声を荒らげる。

「自分が善人だなんて……、一度だって……思ったことないわ……」

「ねえ、手嶋さん、そのクマさんの顔……」

 重苦しい空気を破ろうと、朝葉が親しげに語りかける。

「そんな優しい顔のクマさんに、暴力は、似合わないよ……」

「……おまえらのせいだろ」

 手嶋が苛立った口調で答える。

「違うよ。先にひどいこと言ったのは、手嶋さんだよ」

 朝葉が一歩前に出る。

「友達をあんな風に言われたら、そりゃあ、誰だって怒るよ」

「……眼鏡はただの友達だと思ってないみたいだけどな」

「勝手なことばっかり言わないで!」

 平常心を失ったつゆが、また大声を上げる。火の点いたままの導火線を代わる代わる手渡していくような緊張が続く。

 聖が、あくまで落ち着いた口調で話題をずらす。

「手嶋、おまえはどうしたいんだ? このまま、あたしらをその熊に食わせたいのか?」

 しばらく間を置いて、手嶋は答えた。

「……ああ、そうだな。そうする」

 握りしめたつゆの拳が震える。

「人を……、人の命を……何だと思ってるの……?」

「つゆ」

「けだものは、どっちよ!」

 つゆが発した怒声の残響を切るように、引きつった笑い声が響く。

「……人を何だと思ってるかって? だったら、おまえらはどうなんだ? 人を無視して、陰でこそこそ笑って、おまえらこそ、人を何だと思ってるんだ……?」

 膨張を続ける獣は、既に天井の高さを超え、窮屈そうに背を曲げている。

「……おまえらが、わたしを、一度でも人として扱ったことがあるのかよ!」

 手嶋の叫びに重なって、獣の背が蛍光灯を割る乾いた音が響く。灯りの消えた手嶋の周囲がなおさら暗くなり、影が縁取りを濃くする。

「何よそれ……。ただの逆恨みじゃない……」

 肥大化する獣の脚の隙間から、手嶋の姿が見えた。しかし逆光に包まれたその影からは、何の表情も読み取れない。

「手嶋、聞いてくれ」

 真っ黒の影を見つめて、聖が言う。

「あたしらは、おまえのことを、友達だとは思っちゃいない」

「ひじりん……?」

 手嶋の影は動かない。

「けど、三人の誰も、おまえのことを嫌ってもいない」

「見えてないのと、同じじゃないかよ……」

 手嶋が動揺した声で答える。

「ああ、そうだな」

「……なんだよ、それ……。結局、人間扱いしてないってことじゃないか……」

「違う。ただおまえのことを、知らないだけだ」

「いっしょじゃねえか!」

 獣の腕が、黒板を叩き割る。風圧で三人の髪が乱れる。顔にかかった金髪をそのままに、聖が話を続ける。

「手嶋、おまえは、友達が欲しいのか?」

「……あ?」

「いや、聞き方が悪かったな。おまえは、友達がいないのか?」

 手嶋が黙り込む。顔のない輪郭が、荒く呼吸するように、肩を動かす。

「そうか。友達が、いないんだな」

 ふいに、その影が、震えた。手嶋の叫びが、教室を振動させる。窓ガラスがびりびりと鳴り、一斉に弾け飛んだ。獣が一気に膨れ上がり、天井を突き破る。崩れた天井に首を挟まれ、獣は両腕をめったやたらに振り回している。

 瓦礫が降り注ぐ中、聖が手嶋に向かって進み出た。巻き上がる粉塵が聖を包み込む。

「来るな!」

 獣が腕を振り回す。しかし、首が挟まった獣は聖を視界に捉えることができない。

 聖は表情を変えず、ただ手嶋だけを見つめて、獣の脚の間をくぐった。真正面から堂々と歩みよる、そのあまりの大胆さに気圧されたのか、手嶋も獣もそれ以上抵抗せず、棒立ちのまま聖に見入っていた。

「やめろ……」

 聖は手嶋の足元から、ぼろぼろになったノートを拾い上げた。破れたページをぱらぱらとめくる。その指が、ふと、止まった。

「鼠に、見えないこともないな」

 割れた窓ガラスから差し込む午前の光に、聖の横顔がまぶしく照らされている。穏やかな笑みを浮かべた口元が、同じくらい穏やかな声で、言った。

「ちゃんと、身体も描いてるじゃねえか」

 二人の頭の上で、獣はだらりと腕を下ろし、手嶋と同期するように荒い呼吸を繰り返している。

「同じクラスつっても、接点もなけりゃ、こんなもんだよな」

 聖はノートに描かれた熊の絵に視線を落としたまま、話し続ける。

「今日まで、おまえのことを、何も知らなかったよ。……けど、今日、一つだけわかった」

 手嶋は動かない。獣の動きも止まったままだ。白く照らされた聖の顔と、黒く縁取られた手嶋の顔が、一枚の肖像の表と裏のように向かい合っている。

「手嶋」

 聖がノートを手嶋に差し出す。

「おまえ、かわいい絵、描くんだな」

 手嶋が拳を握り締める。その手が勢いよく振り下ろされ、ノートを払い落とした。

 だが、もう獣は動かなかった。うつむいた手嶋の顔は、目の前にいる聖からも見えない。けれど、そこから聞こえる弱々しい嗚咽が、騒ぎの結末を何よりも雄弁に語っていた。

 塵と埃にまみれた手嶋の足元に、透明な雫がぽたぽたと落ちる。聖は手嶋の壊れた机にそっと指を置き、言った。

「手嶋、おまえ、下の名前はなんて言うんだ?」

 嗚咽に混じって、手嶋が小さくつぶやく。その声は、聖にしか聞こえない。

「そっか」

 聖が手嶋の肩に触れる。

「……。熊、出してやれよ。苦しそうだぞ」

 獣は既に動きを止め、優しげなぬいぐるみの首を天井につっかえさせて、剥製のように硬直していた。

 聖は手嶋と獣を置いて二人の元に戻ると、「行こう」と促して教室を出た。


 廊下はたった今の騒ぎが嘘のように静けさに包まれていた。教室の中を振り返っても、そこに凶暴な獣の姿はなく、束の間の休息を過ごす生徒たちでにぎわっている。

 手嶋の席を見ると、眠っているのか起きているのかもわからない、机に伏せた少女の姿があった。

「市井さん」

 ためらいがちに、つゆが言う。

「……ごめんなさい。何もできなくて」

「別に、あたしも何もやってないよ」

「でも……すごいわ、あんなに正面から向かっていって」

「熊の首が引っかかったから、いけると思っただけだよ」

 聖が気の抜けた声で答える。

「あの時、逃げようとは思わなかったの?」

「ああ、そうだな……。なんでかな……」

 聖はそこで言葉を切った。

「……忘れたよ。必死だったから」

 休み時間の終わりを告げる鐘が鳴る。生徒たちはそれぞれのクラスに戻っていく。

「でも、手嶋さん、あんな風に怒るんだね……。ちょっと、びっくりしちゃったよ」

「明日から、どう接していいか、気を遣ってしまいそう……」

 つゆはそう言って、口を滑らせたというように、ちらりと聖を見た。ついさきほどの自分の姿が、ありありと脳裏によみがえる。

「あれが、あいつの姿じゃねえだろ。あたしらが、勝手にあいつの心に踏み込んだんだ。心に閉じ込めて口に出さないことなんて、誰にでもあるんじゃねえか」

 自分のことを言われた気がして、つゆはどきりと身を縮める。しかし、再びその話題を蒸し返す勇気は、つゆにはなかった。

「市井さんは、はじめから、わかってたのね。あれが、心の中の声だってこと……」

「なんだ、わかってなかったのか?」

「わたしは……」

 そんなことを考えることもできないくらい、かっとなってしまった、と、つゆは思ったが、声には出さなかった。

「あのさ……」

 朝葉が言葉を挟む。

「心の中に出てくる人は、本物なのかな? それとも、わたしたちだけ例外ってことは、クマさんから逃げてったみんなとか、プールの時の竹崎さんとか、下駄箱にいたちほちゃんとか、みんな、偽物なの?」

「偽物っつうか、誰かの心の中の想像だろうな」

「それは本物じゃないの?」

「本物ではないと思うわ。例えば、その中で誰かが怪我をしたとしても、想像の外では何も異常なく過ごしてるんだと思う」

「偽物ってこと?」

「なんだよ、妙にこだわるな」

「本物か、偽物かで言ったら、偽物でしょうね」

「そっか……」

 朝葉は会話を止めてうつむいた。

「何か気になるの?」

「いや……」

 朝葉が言葉を濁した時、教師の声が会話を遮った。

「おまえら、授業はじまるぞ。教室入れ」

 そう言った教師が扉に消えた瞬間、轟音ととともに校舎全体が揺れ動いた。

 三人が身構える。

 数秒の静寂を数えたあと、再び強烈な破壊音に合わせて、廊下の奥が吹き飛んだ。崩れる校舎に混ざって、目の前を横切った巨大な人影。

 それは、見紛うことなく、遠く市街地の上空から円盤に乗って現れた、銀色の巨人だった。

 

 

 

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