けだもの
穴をのぞき込んだ聖が、二人に向かって首を振る。
「底も見えねえし、バス停なんて影も形もない」
「誰かがわたしたちをこの世界にとどめようとしてるのかしら」
散らばっていた石畳の破片を、聖が穴の中へ蹴り入れる。いつまで経っても、底に当たる音は返ってこなかった。
「朝葉、バス停呼び戻せねえか?」
神妙な顔つきで、朝葉が穴をにらむ。
「ごめん……。無理みたい」
「また前みたいに、バス停がなくなったらバスも来ないのかしら」
「そういうことだろ、これは」
聖がふうっと軽い息をひとつ吐き、短くなった金髪をかき上げた。
「犯人探しだな。とっ捕まえて元に戻させてやる」
「消した本人なら戻せるのかしら……」
「わかんねえけど、それしか手がかりもねえだろ。とりあえず学校に戻るぞ」
校舎に入ると、休み時間になった校内はどこも生徒の姿であふれていた。三組の教室に戻った三人が見たのは、いつもと何ひとつ変わりなく束の間の休憩時間を過ごすクラスメイトたちの姿だった。
聖がそのうちの一人に声を掛ける。
「なあ、さっきの鼠、どうなったんだ?」
「え? 鼠? うそ……どこ?」
「寺本の話だよ。見てただろ」
「あー、手嶋の落書きのやつ? どうなったっていうか、聖もいたじゃん。手嶋も無駄に言い返さなきゃよかったのにね」
巨大な鼠に変身した教師の話題は出てこない。互いの言葉はまるで噛み合わなかったが、三人はすぐに状況を察した。
「普通に戻ってるな……」
見ると、黒髪を乱して机に突っ伏した手嶋の姿があった。
「手嶋さんの気持ちが落ち着いて、騒ぎの一部始終がなかったことになったのね」
つゆが窓際に行き、外を見下ろす。
「見て。プールの穴もなくなってるわ」
「渦巻き起こした本人もすっかり忘れちまったってわけか?」
後ろに立った朝葉が、ぽつりとつぶやく。
「でも、怪獣は、まだいるよ……」
遠くの市街地は、もはやビル街と呼ぶこともできないほどに建物が倒壊し、瓦礫を積み上げただけの荒地と化している。灰色の煙をかき乱しながら、二体の巨大な影がいまだに揉み合っていた。
「変だわ……。なんでクラスの誰も、あれに気づいてないのかしら」
「鼠の時も、プールの時も、みんなちゃんと逃げてたよな」
つゆがはっとして二人を見る。
「そうよ、なんか妙だと思ったのよ。高羽さんの時は、誰も騒いでなかったわ」
「あー……そうだね。みんな何もつっこんでくれなかった」
教師が鼠に変貌した時にはあれだけ騒ぎ立てていた生徒たちだったが、崩壊する都市を前にして、誰一人、窓の外に目を向ける者すらいない。
「セットなのかもしれないわね……」
「どういうことだ?」
「異変と、そのあとの騒動がセットになってるんじゃないかしら。プールの時も、寺本先生の時も、それを考えた人の頭の中では、大騒ぎになるまでがセットだった……」
「朝葉はただ足し算になって欲しいとしか思ってなかったってことだな」
「ええ。あの怪物もUFOも、作り出した人の頭の中では、遠く離れたわたしたちがどうなるかまで想定されてないんだわ」
「なんか、思ったことが現実になるっつーより、心の中そのものだな。外から来たあたしたちが、誰かの心にふと入り込んでるみたいな」
「そうね。この世界にいる人たちは、案外それぞれ普通に暮らしてるのかもしれない」
「あたしらだけが、外から来た例外ってことか」
「わたしたちだけ、心の内側も、心の外側も、境目がなくなった世界にいる……」
「朝葉はその例外の中で、さらに例外なんだな。ややこしい……」
「ごめん……」
聖は軽く朝葉の肩を叩く。
「ま、なんにせよ、消えたバス停につながるもんを探さねえとな」
三人は改めて教室内を見渡す。何の変哲もない、いつもの休み時間だ。
「今は何も起こってないみたいね」
「みんなおしゃべりの真っ最中だからな。余計なこと考える暇もねえんだろ」
聖はつかつかと、とある席へ近づき、そのひとつ前の席に、後ろ向きでどかりと座った。
「手嶋」
黒髪を投げ出して机に伏せる手嶋に、聖が静かに呼びかける。
「手嶋、話がある」
ほんの少しだけ顔を上げた手嶋が、乱れた髪の隙間から聖をにらむ。
「……何」
「聞きたいことがある」
あくまで淡々と語りかける聖に、手嶋はそれ以上言葉を返そうとはしない。
「さっきの鼠の話だ。わかるな?」
「……何の話」
「おまえがノートに描いてた鼠だよ。寺本が鼠になったって言えばわかるか?」
手嶋は答えない。
「あたしらはただ、その鼠がどうやって消えたか……っつーか、元に戻した方法を知りたいんだ」
「……意味がわからない」
再び顔を伏せようとした手嶋の身体を、聖が軽く押さえる。ふいに触れられた手嶋が、ぴくりと身体を反応させる。
「話を聞いてくれ。おまえが考えた鼠の化け物を、おまえがどうやって消したのか、ただ勝手に消えちまったのか、それが知りたいだけだ」
手嶋は黙っている。
「それだけ聞いたら消えるよ。昼寝の邪魔して悪かったな」
「……昼寝?」
心なしか、手嶋の声がうわずって聞こえる。
「ああ、いや、すまん。休んでただけだよな。さっきのノート、見せてくれないか? 鼠の絵を描いた……」
「……熊」
「ああ、そう、熊の……」
それっきり、また手嶋は黙ってしまった。
聖はため息をついて、立ち上がる。そのまま立ち去ろうとした時、三人にかろうじて聞こえるほどのかすかな声で、手嶋がつぶやいた。
「汚ねえ金髪しやがって……」
聖の動きが止まる。
「ヤりすぎて脳味噌腐ってんじゃねーのか……くそビッチが……」
一呼吸置いて、何事もなかったかのように、聖はまた歩き出す。朝葉も返す言葉を眉間のしわに押し込めて、あとを追う。
しかし、つゆは動かなかった。
「……なんて言ったの、今」
手嶋は既に机に伏せている。
「ねえ、もう一回、言ってみなさいよ」
手嶋を見下ろしたつゆの声が震えている。
「つゆ、いいよ」
聖が声を掛けるが、つゆは動かない。
握りしめたつゆの右手が、手嶋の机を力任せに叩く。びくりと身を起こした手嶋の顔には、不安と怒りが斑模様に貼りついている。
「つゆ、やめとけ」
聖が後ろからつゆの肩をつかむ。その肩から、小刻みな振動が伝わってくる。
今にも破裂しそうな不穏を挟んで、つゆと手嶋がにらみ合う。
「言いたいことがあるなら、はっきり言ったらどうなの」
つゆの声が、静まり返った教室内に響く。誰もが、押し黙って、二人の様子をうかがっている。
「…………だよ」
激しく動揺した手嶋の声は、か細く、聞き取れない。
「何? 聞こえないわ」
「……気持ち……悪いんだよ」
口元を引きつらせて、手嶋がつぶやく。
「……何がよ」
「気持ちわりいんだよ! 朝っぱらから金髪のケツばっか追いかけやがって!」
髪の毛を振り乱し、緊張でガラガラにしわがれた声で、手嶋がわめく。
「バレバレなんだよ、おまえ……! 頭の中じゃ、そいつとヤることしか考えてねえんだろ……? 汚ねえ……けだものが……!」
眼鏡越しにわかるほど、つゆの目元がねじ曲がる。
「なっ……」
机の上で握りしめた拳が、行き場を失って、胸の前で震える。
「わたしが……何ですって……」
聖がつゆの肩を引く。しかし、つゆはそれを払い除け、手嶋に詰め寄る。
「何よ……。どういう意味……? あなたに、わたしの……何がわかるの……」
そう言ったつゆ自身、今の自分に湧き上がる感情の正体がわからなかった。
何かが身体の内側からあふれ出し、プールに起こった渦のように、自分を中心にして、うねりながら沈み込んでいくのを感じる。上履きの底が、床を離れて宙を泳ぐ。重力を失った身体が、ゴムのように伸び縮みを繰り返して、渦の中に溶けていく気がした。
「わたしの……何が……」
自分の声が、他人の声のように空々しく聞こえる。自分が何を言おうとしているのか、この先に繋げるべき言葉も、わからなかった。けれど、胸の奥からとつぜん込み上げてきた感情が、顔を、声を、渦巻きのようにみっともなく歪めていることだけは、はっきりとわかった。
つゆの瞳の奥から、暗闇が、じわりとあふれ出す。
この感情は、何だろう。
どうしてわたしはいま、こんなに感情を剥き出しにしているんだろう。
わたしの友達を、乱暴な言葉でけなされたから?
違う。
わたしの心の内側を、口汚くけがされたから?
わたしの秘密を、無理やり引きずり出されたから?
そうじゃない。
この感情……、これはきっと、自分自身に向けられた感情。
心の奥に閉じ込めた、わたしの身勝手な願望と、友達の形に閉じ込めた、わたしの秘めた欲望。鏡でも見るように、心の底から見つめ返してくる、もう一人のわたし。
目を逸らし続けてきたその瞳と、たったいま、目が合ってしまったのだ。
そうだ。この感情。
ずっと前から知っていたのに、ずっと見えない振りをしてきた。
この感情。
そう……。わたしは、わたしが、憐れで、仕方がないんだ。
涙が、ふいに目からこぼれて、止められなかった。
「わたしは……」
長い間、胸の奥に閉じ込めていたもう一人の自分が、とつぜん涙の形をしてあふれ出してしまったようで恐ろしかった。その涙が、醜悪な匂いを放って、二人を、いや、彼女の美しい顔を曇らせるのではないかと、怖かった。
彼女はわたしを見ているだろうか。
どんな顔を、どんな目を、わたしに向けているだろうか。
全身がうずくように熱い。これは、羞恥だろうか。怒りだろうか、悲しみだろうか。それとも、吐き気がするほどの、けがらわしい欲望だろうか。
つゆは顔面をしわくちゃにして、絞り出すように言った。
「わたしのことは……何と言っても、いいわ……」
けだもの。そう言った手嶋の顔が、怯えと嫌悪を入り混じらせて、つゆを見つめている。
醜く顔を歪めたわたしは、けだものらしく見えるだろうか。一匹の憐れなけだものが、みすぼらしく吠え声を上げているように見えるだろうか。
涙といっしょに、長く溜まった澱が流れ出したように、からっぽの心の奥が鮮明に見える。
そこにぽつんと立っている、もう一人のわたし。
いや、その姿こそが、紛れもない、本当のわたしなんだ。
一匹のけだものが、汚れた牙を剥き出しにして、今日まで守ってきたもの。
どんなに自分が憐れでも、醜くても、それがどうしたって触れられないものであっても、わたしはこれからも、それを守っていかなければいけない。
わたしの、大切なもの。
「わたしは何だっていい……。でも、市井さんへの、ひどい言葉は、取り消して!」
誰も聞いたことがないほどの、つゆの大声が教室内に響く。その顔は、まるで自死の痛みに耐えるように、凄絶で、はかなげに見えた。
そして、その声に呼応するように、手嶋の身体が大きく息を吸い込んだ。
固く目をつぶり、顎が外れるほどめいっぱい口を開き、声もなく、手嶋もまた、静かに、叫んだ。
机に落ちたつゆの影を隠すように、その時、大きな影が手嶋の席を覆った。
手嶋の顔が、神を仰ぐように、ゆっくりと上げられる。
聖がつゆの手を引いた。体勢を崩して倒れかけたつゆの身体をかすめるように、丸太のような黒い物が振り下ろされる。それは、手嶋の机にめり込み、めきめきと音を立てて、机の天板を手嶋のノートもろとも引き裂いた。
聖が再びつゆを引っ張って、手嶋の席から引き離す。後ずさりながらつゆが見た物は、白っぽい午前の光を背に立った、巨大な黒い獣の影だった。
「また、やべーのが出てきたぞ……」
獣は二本の足で直立したまま、でたらめに両腕を振り回し、周りの机と椅子を跳ね飛ばした。それからつゆに狙いを定め、巨体を重たげに前進させる。逆光に縁取られたその獣の姿を、つゆはようやくはっきりと捉えた。
天井に届きそうな黒い毛むくじゃらの身体。その首に載った、異質な頭部。首から下の凶暴な猛獣の姿とは対照的に、子供の幻想から抜け出してきたような、愛らしいぬいぐるみの頭部が、つゆを見つめていた。鼠に似た、優しげな子熊の顔が、ピンク色の舌を出して、微笑んでいた。
純粋な暴力を押し固めたような巨大な獣の姿に恐怖したのか、あるいは、その牧歌的な表情にただならぬ狂気を感じたのか……、いや、その光景もまた手嶋の描いた物語なのだろう、クラスの生徒たちはみな我先に教室を飛び出していき、残ったのは、手嶋と獣、そして、そのビー玉のような瞳に射すくめられた、つゆと聖、朝葉の三人だけだった。
じりじりと近づく獣の背後に、黒煙を溶かした空が霞んでいる。立ち上がった手嶋が獣の後ろに隠れる。逆光に塗り潰された手嶋の顔、その口角が、笑うように、奇妙に曲がっていた。
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