連鎖
黒板に並んだ複雑な公式の上に、数学教師の抑揚のない声が流れていく。
まだ二時限目がはじまったばかりだが、既に朝葉は浅い寝息を立てている。朝からプールで起こった騒動も、まるでなかったかのような、平穏な授業風景だった。
聖はぼんやりと頬杖をついて、窓の外を眺めていた。プールの周りには、教師や警察らしき人影が、小さな虫のように行ったり来たりしている。遠くの空には一機のヘリコプターが、パラパラと乾いた羽音を立てて飛んでいた。
「高羽」
読経のような教師の声が、その調子を変えないまま、聞き慣れた名前を差し込んだ。
「高羽」
教師の指示棒が、朝葉の肩を叩く。
「……へ? あ……、え?」
朝葉はうろたえながら口元を拭う。
「前に出なさい」
「え? またわたし?」
「また、とは何だ。それはこちらの台詞だよ。毎度毎度、わたしの授業はそんなに退屈かね」
「いや、へえ……」
笑ってごまかそうとする朝葉の前で、教師は指示棒を威勢よく振って黒板を指した。
すごすごと立ち上がり、朝葉は黒板の前に出る。黒板には指数と対数を使った計算問題がいくつか並んでいる。
「どれでもいいから、一つ選んで解答しなさい」
朝葉はぐるっと黒板全体を見回してから、ふやけた深海魚のような顔を教師に向けた。
「……わからないかね」
「いや、こういう、英語が書いてあるようなのは、ちょっと……。英語が苦手なもんで……」
「だったら、何の記号ならわかるんだ? いつもいつも気持ちよさそうに寝てるから、てっきり授業なんて聞く必要もないのかと思ったが」
「ええと……まあ、
「何を言ってる。だったら早く解きなさい」
教師はそう言って、指示棒で黒板をパチパチと叩いた。
「へ?」
わけもわからず振り返った朝葉の目の前には、小学生でも解けるような、簡単な算数の問題が並んでいる。
「ええと……手品ですか?」
「馬鹿な振りはいらんぞ」
朝葉は腑に落ちない顔のまま、適当に選んだ二桁の足し算を解いて、席に戻った。
つゆのスマホが震える。
教師に隠しながら、机の下で画面を確認する。聖からのメッセージだ。
『何が起こったんだ?』
ちらりと教師の様子をうかがって、つゆが返信を打ち込む。
『問題がいつのまにか変わってたわ』
すぐにスマホが反応する。
『また例のやつか?』
『そうかもしれない。でも、何が起こってるかわからない』
『オーケー。何かあったらすぐ動けるようにしとこう』
つゆはスマホをスカートのポケットに入れ、握りしめた。
黒板の問題を見ても、他の生徒が騒ぎ立てる気配はない。聖は目を皿のようにして周囲の様子に気を配る。朝葉はぽかんとして黒板を見つめたままだ。
教師は席の間をうろつきながら読経を再開している。またヘリコプターの飛ぶ音がする。今度は三機だ。深い苔色をした機体が、中心市街地方面へ向かって飛んでいく。
教師は巡回する警備ロボットのように、机の間を規則的に移動しながら、やがて聖の席の少し手前で立ち止まった。
「きみ、今隠した物を見せなさい」
聖の二つ前に座った生徒が、うつむいてノートを押さえる。クラスの中でも取り立てて目立たない、休み時間にはいつも机に伏せているような生徒だ。
教師の指示棒が机の上でいらだった音を立てると、その生徒は観念したようにゆっくりと手を動かし、開いたノートをさらした。
「なんだね、これは」
教師はそのノートを取り上げる。
「これは……鼠かね」
ノートを裏返し、生徒の名を確認する。
「手嶋くん、よく描けてるじゃないか。もっとも、わたしは鼠の生態なんて授業をした覚えはないがね」
教師のいやらしい叱声に、目を伏せたままの手嶋がぼそりと何かをつぶやいた。
「ん? 何か言ったか?」
「熊です……」
「は?」
「鼠じゃなくて……熊です」
教室内にくすくすと軽い嘲笑が起きる。聖はまるで興味もなさそうに、遠ざかっていくヘリコプターに視線を戻した。
その時、聖の目が、風景の一箇所に起こった異変を捉えた。
ヘリコプターが機首を向けた先、はるか遠方に霞んだビル群から、黒煙が上がっている。
「なんだ……火事か?」
煙は高層ビルを丸ごと包み隠すほど、もうもうと立ち昇っている。
ふと、その煙の中で、黒い影が動いた。ビルとビルの間に、何かがいる。聖は教室内を見回すが、他に気づいている者はいないようだ。
じっと目を凝らす。ゆっくりと時間をかけて、煙が大きく揺らいだ……かと思うと、薄くなった黒煙の中から、巨大な塊が現れた。
つゆのポケットの中で、またスマホが振動した。教師の執拗な責めにうつむいた手嶋の後方で、聖が窓外を見つめたまま固まっている。
つゆはスマホの画面を見る。
『外に怪獣がいる』
冗談だろうか。何と返信すべきか迷って聖を見たが、どちらにしても、聖はもうスマホを見てはいなかった。
聖の視線をたどって、つゆも目を凝らす。遠くの空が少し灰色に染まっていたが、聖の言う怪獣の姿は、黒煙に隠れているせいか、見えない。
「とにかく」
教師がふいに大きな声を出す。
「きみたちがわたしの授業を……」
言葉が、一瞬途切れる。
「授業を……」
外を見ていた聖も振り返る。
「じゅぎょ……ぢゅ……」
教師の手から、指示棒がこぼれる。持っていた手嶋のノートが、机の上にばさりと落ちた。
両手で顔を押さえ、教師が苦しそうに身悶えする。
「ヂュッ! ヂュッ!」
顔を覆った手の下から、油の焼けるような音がする。
悲鳴。教師の近くの生徒が、ガラスを掻きむしったような声を出して立ち上がる。教師の両手が、小刻みに震えて、覆い隠していた顔をあらわにした。
「ヂュウ!」
その音は、声だった。
ひくひくと震える長い鼻、尖った前歯、ぴんと立った髭、それらを一つにまとめる毛むくじゃらの顔、そこから発せられる、獣の鳴き声。
「鼠……」
聖は唖然としてつぶやく。
変わり果てた数学教師の姿を目の当たりにした生徒たちが、次々に椅子を倒して廊下へ逃げ出していく。教師はもはや前脚と化した両手を手嶋の机につき、シャツとスラックスからはち切れんばかりに膨らんだ巨大な齧歯類の身体を、短い後脚で不安定に支えて立っている。その姿を、手嶋が至近距離から、ただ脅えているだけとは思えない熱に潤んだ瞳で見つめている。
教師の変貌を間近で見ていた聖が、思い出したように立ち上がる。だが、向かったのは廊下ではなく、窓際だった。
彼方に霞んだ黄水市街地は、今や黒煙のたなびきを無数に増やし、飛び回るヘリコプターと、スローモーションのように鈍重に動く黒い塊とが織りなす破壊的な光景を映し出している。
「ヤバいよひじりん……またはじまったよ」
いつの間にか背後に来ていた朝葉が声をかける。
教室からは既に半数以上の生徒が消え、三人と手嶋、人の大きさをした鼠、それから鼠に向かって物珍しげにスマホのカメラを向ける数人の生徒が残るばかりだった。その中において、三人は立て続けに起こる奇妙な現象のおかげで少なからず耐性ができているようで、冷静に教室内の状況を観察しつつ動いている。
「なに見てるの……って、え? なにあれ」
「市井さん、怪獣って何のこと?」
鼠の様子をちらちらと気にしながら、つゆも寄ってくる。
三人の視線の先で、ビル群の間に並び立つ巨大な怪物が、まるで怪獣映画のワンシーンのように街を破壊している。虫なのか、獣なのか、あるいは爬虫類なのか、複雑怪奇な形状をしたその怪物は、古今東西のモンスターを一つの鍋で煮詰めた末に残った出し殻のように、歪で醜い姿をしていた。
傍らでは、破れた洋服をだらしなくぶら下げた鼠の化け物が、手嶋と向かい合って耳障りな鳴き声を漏らしている。
「とにかく、バス停だ。バス停に行くぞ」
踵を返した聖を、朝葉が呼び止める。
「待って、ひじりん……。あれなに……」
朝葉の視線の先で、空に、灰色の雲が渦巻きつつあった。ちょうどそれは、怪物の暴れる市街地の真上に現れている。
見る間に、渦は厚みを増し、スチールウールを固めたような黒雲が、ビル群のみならず市街地全体に覆い被さって、ドーナツ状に広がっていった。そこだけ太陽光が差し込んでいるのか、輪の中だけが白々と輝いている。怪物は穴を抜けた光によってスポットライトを浴びたように照らし出され、しばし動きを止めていた。
三人はみな同じように、どこかで見た、SF映画を思い出していた。
雲に空いた穴の中から、巨大な円盤状の物体がゆっくりと降下してきた。濡れたように艶かしい光を反射する銀色の円盤は、やがて怪物の上空で静止した。
円盤の底部がカメラの絞りを開放するように大きく開く。怪物と同じくらいの背丈をした、メタリックな巨人が、円盤から発せられた光線の中を降りてくる。
「なんか……見たことある……」
銀色の巨人は怪物に組みつき、その異形の巨躯を投げ飛ばした。ビルが次々になぎ倒される。
「ヂュヂュッ!」
教室内に、鼠の声と、甲高い女の悲鳴が、同時に響いた。
床に倒れた生徒の一人に鼠が覆い被さり、ひくついた鼻を女の顔に擦り付けている。椅子から立ち上がった手嶋が、身を乗り出すように、血走った目でその光景を見つめていた。
棘のような太い体毛に包まれた鼠の背中に、木製の椅子が振り下ろされる。とつぜんの攻撃に鼠が身を起こした隙に、襲われていた生徒が腹の下から這い出した。
「全員、早く逃げろ!」
次の椅子を構えた聖の背後で、朝葉とつゆも廊下に向かって走る。残っていた生徒も、みな我先に教室を出ていく中、手嶋だけが、じっとその場を動こうとしない。
半開きの口で、荒く呼吸する手嶋と、椅子を振り上げた聖がにらみ合う。
鼠が聖に狙いを定め、その前歯をカチカチと鳴らした、瞬間、聖は椅子を鼠の鼻面に投げつけ、教室を出た。
「無茶苦茶だ……。何が起こってんのかわかんねえ」
校舎の中を出口に向かって急ぎながら、聖が言う。
「なんなんだよ、あの鼠」
「鼠、というか寺本先生……、手嶋さんの言葉を追うように姿が変わったわ」
「手嶋さんの魔法?」
「怪獣とかUFOとか、手嶋関係ねえだろ」
聖の歩調に合わせながら、三人は階段を駆け降りていく。
「でも、さっきの鼠は、ぜったい手嶋さん無関係じゃないよね」
「寺本に馬鹿にされて、手嶋がキレたのは確かだな」
「強い感情が引き金になって、現実に異変が起こるのかしら」
朝葉が思いついたように大声を出す。
「なるほど! だから黒板の問題も、わたしのレベルに合わせて変わったんだ」
「おまえが『足し算なら解けるのに』って思ったのが、現実になったってことか?」
「そんなに追い詰められてたの?」
「いや、まあ……けっこう恥ずかしかったよね」
朝葉が苦々しい笑みを浮かべる。
「そういえば、今朝のプールの渦巻きも、クラス対抗が決まった矢先に現れたわね。誰かが『プールなんてなくなればいい』って思ったのかしら……」
「まあ、半数以上はクラス対抗なんてダリいと思ってただろうな」
「だからって、プールに罪はないのにね……」
「思ったことが、現実になる……」
つゆはそう言って、廊下の途中で立ち止まった。その目は、床の一点を見つめたまま固まっている。
「どうした?」
聖が尋ねると、つゆは肩の緊張を解いた。
「……ダメね。床に穴が空くところを想像してみたけど、何も起こらないわ」
「また朝葉しか無理なんじゃねえか?」
胡散臭い超能力者のように両手を突き出し、朝葉が床に念を送る。
「ぬぬぬ……」
しかし、床には何の変化もない。
「……ダメみたいね」
「願望とか、そういうのがねえとダメなのかもな。朝葉、ちゃんと心の底から床に穴が空いて欲しいって思ってるか?」
「どうやって思ったらいいの、それ?」
「いいわ、とりあえずバス停に行きましょう。こんな妙な世界にいつまでもいる理由はないわ」
廊下の角を曲がると、下駄箱があった。階上の騒ぎが嘘のように、人影もなく静まり返っている。
三人が靴に履き替えていると、下駄箱の向こうから、女のうめくような声がした。素早く目配せをし、そっとのぞき込む。
女が倒れている。
倒れた女の上に、覆い被さった別の女の背中が見える。下の女は上半身をはだけ、下着があらわになっている。スカートはめくれ上がり、マネキンのような太ももがコンクリートの床に放り出されている。
上の女の顔が、ゆっくりと下の女の顔に重なる。うっすら紅潮したふたつの唇が、つきたての餅のように柔らかく触れ合い、透明な糸を伸ばす。下の女の両手が、上の女の背中を抱き寄せる。どちらの口から漏れているかもわからない、言葉にならない喘ぎが、ひっそりとした昇降口の静寂を乱していた。
聖が無言で身を翻し、扉を抜ける。朝葉が慌てて追いかけ、杭のように硬直していたつゆも、やや遅れてあとを追った。
「心の中が見えるってのも、嫌なもんだな」
校門へと歩きながら、誰にともなく聖がつぶやく。
「ちほちゃんだったよ、寝てた子……」
「ああ。乗っかってたやつは顔見えなかったけど、下のやつは神谷だったな」
つゆが視線を足下に泳がせながら、
「上の子は……一組の白木さんだったわ」と続けた。
「白木……。顔が出てこねえ」
「目立つ子じゃなかったと思う……。けど、わたしは神谷さんも白木さんも一年の時に同じクラスだったから」
「白木さんって、なんてゆうか……あんな感じだったの?」
朝葉の問いかけに、つゆはわかりやすい動揺を浮かべる。
「白木さんが、その……神谷さんを、ええと……、好き、みたいな……そんな噂はされてたと思う」
「まあ、あれ見りゃ、ただの噂じゃねえってことは明らかだな」
三人は妙にうわずった気分のまま、並んで歩いていく。
気まずい空気に耐えかねた朝葉が、無理やり話題をずらした。
「けど、ちほちゃん、さっき教室にいたよね」
「ああ、最後まで野次馬で残ってたはずだ。教室出たあとも、あたしらとは逆に走ってったから、あのタイミングで下駄箱にいるはずがねえ」
「じゃあ、さっきの神谷さんは、白木さんの作り出した妄想……」
三人の脳裏に、薄く紅を塗ったように頬を染め、半開きの唇をつき出した神谷の顔がよみがえる。
「ちっ……、実在の人間まで好き放題かよ」
「早く抜け出しましょ……。なんか、嫌な感じだわ」
校門を抜けると、すぐにバス停があった。いつも学校帰りに乗っている、山手行きのバス停だ。
上空では、大気を踏みならすような音を立てて、ヘリコプターの編隊が飛んでいく。並木の隙間から、遠くの空に黒雲が渦巻くのが見える。
「ねえ……!」
いつのまにか後ろを歩いていた朝葉が、ふいに二人を呼び止める。
「なんだ?」
「いや、えっと……」
振り返った二人に朝葉が口ごもった瞬間、すぐそばで、巨大な岩がこすり合わさるような、耳慣れぬ怪音が響いた。
道路が揺れる。
キャベツの玉に包丁を押し込む音に似た、ざらついた破壊音が、どこからともなく断続的に聞こえてくる。音は次第に大きくなり、やがて三人の足下で、石畳が波打ちはじめた。
「なんかヤバいぞ……、校門に入れ!」
三人が門に飛び込むと同時に、落雷が大木を引き裂くような轟音が地の底から湧き上がり、石畳が大きくひび割れた。裂け目は瞬く間に広がり、まず無人のベンチを飲み込み、続けて屋根と支柱を傾け、裂け目というより巨大な穴と化したその奈落の中へ、バス停を地面ごと引きずり込んでいった。最後に穴の縁に引っかかっていたバス停の標識が、あとを追うように落ちていき、ものの十秒ほどで、バス停は跡形もなく消え去った。
呆然と見つめることしかできなかった三人の前には、そうして、巨大な穴だけが残った。
「なんだよ、この穴……」
「誰が消したの……?」
渦巻く思いを乗せて、不気味なそよ風が穴の中へと流れ込む。二時限目の終わりを知らせる鐘の音が、まるで別の何かのはじまりを告げるように、ヘリコプターの消えた空に鳴り響いた。
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