第五話 せきららラストフェアウェル

 プールサイドは若い活気に満ちていた。

 にぎやかな女子たちの喧騒に共振するように、きらきらと午前の光を跳ね返す水面。空はこれからたっぷりと熱い空気を吐き出すために、涼しい顔をして思い切り息を吸い込んでいるようだった。

 聖はプールサイドの隅に座って、具合を確かめるように足を伸ばしている。その横で、朝葉はフェンスにもたれ、とりとめのない話題を聖に投げかけている。

「水面って、なんか不思議だよね」

「なにが」

「手を突っ込めるのに、境目があるって変じゃない?」

「そうかな」

「だってさ、水の中と外って、あんまり変わんないじゃん。自由に動けるし。その境目って、変じゃない?」

「それ、境目が変なんじゃなくて、水が変なんじゃねえの。つーかおまえ、さっきの鏡はもう忘れろよ」

「鏡の話じゃないよ。水と空気しかないのに、その境目があるっていうのが変だって話」

「空気と壁だって境目はあるだろ」

「でも壁は入れないじゃん」

「ていうか、水と空気があるから境目があるんだろ」

「でも空気も水も似たような感じでしょ。境目のこっち側とあっち側って、何が違うんだろ」

「空気と水の違いだよ」

「空気と水って、ほとんどいっしょじゃない?」

「何言ってんのかさっぱりわかんねえけど、境界がなくなったら水と空気が混ざるだろ。ずっとサウナみたいな世界で暮らしたいのか?」

 ほんの少し間を空けて、朝葉が答える。

「サウナかー……。岩盤浴行ったら、サウナも入ろうね」

 朝葉も自分が何を言いたかったのか見失ったらしく、ずれた話題を放擲して黙ってしまった。

 会話が途切れた時、人群れを抜けて一人の女生徒が近づいてきた。

「おはよう、聖」

「おう、タマ。今日は四組と合同か」

 プールサイドはクラス二つ分の女子たちでごった返している。

「たまちゃん、おはよー」

「おはよ。朝葉ちゃん、今日も水着着てきたの?」

「水着も着てきたし、時空も駆け抜けてきたよ」

「なにそれ。うふふ」

 綿毛が転がるような柔らかな声が、薄暗いプールサイドの片隅を明るくする。


 玉城千鶴たまきちづる

 三人とは幼なじみで、中学までは聖とつゆと同じ校区に住んでいた、二年四組の生徒である。

 中学を卒業すると同時に中心市街地に引っ越したものの、高校は比良女への進学が決まっていたため、こうしてまた同窓となっている。中学からこの市に越してきた聖よりも、小学校から同じだった朝葉やつゆの方が付き合いは長いが、中学から今までバレーボール部で切磋し合ってきた聖とは、より厚みのある友情を築いていた。

「今日は、つゆちゃんは休み?」

「いや、あいつは着替えるの遅いから」

「ふうん……。最近いっつも三人いっしょにいるけど、何か企んでるのかな?」

 玉城はそう言って屈託なく笑った。

 互いに性格がまるで異なる朝葉、聖、つゆの三人と比べても、玉城の人柄は、その誰とも似ていなかった。穏やかな気性と、柔らかな物腰で、その場にいる者の心を等しくなごやかにするのが、玉城千鶴という人間だった。

『あいつはやられてもやり返さねえ、聖人みたいなやつだよ。いつか宗教でもはじめるんじゃねえかな』

 そう言っていたのは聖である。

「聖、一回、話しに来なよ。山脇先生も、聖が来ないから魂抜けちゃってるよ」

「ああ。そのうちな」

 聖のつれない返事に、玉城もつい黙ってしまう。にぎやかな話し声に包まれたひとかたまりの沈黙に、夏の大気が流れ込んで膨らんでいくようだった。

 ふと、その沈黙を割るように、座った聖の足に、何かがぶつかった。

 聖が拾い上げたそれは、およそプールサイドには似つかわしくない、一個のバレーボールだった。

「どっから転がってきたんだ?」

 ボールのやってきた方を見ても、立ち並んでおしゃべりに興じる女生徒たちの群れがあるだけだ。

 聖はそのボールを隅に転がす。

「聖、柔軟しよ。……朝葉ちゃん、大丈夫?」

「うん、わたしは姫とやるから、だいじょぶだよ」

「ありがと。ていうかさ、聖、髪どうしたの?」

 話しながら、聖が立ち上がる。

「ああ、なんつーか、なくなった」

「えー、なにそれ、どういうこと?」

「気づいたら、なくなってた」

「そっか。まあ、なくなったのなら、しかたないね。ふふ」

 二人の声が、喧騒の中に消えていく。


 聖と玉城が抜けたのと入れ替わりで、ようやく着替え終わったつゆが現れた。

「何見てるの?」

「え? いや、ひじりんも、たまちゃんも、スタイルいいなーと思って」

「バレーやってるからかしらね」

「バレーやったら、わたしもたまちゃんくらいになるかな」

 朝葉は遠くに立った玉城を見ながら、自分の胸を寄せて、それからつゆと見比べた。

「姫はいつバレーやってたんだっけ?」

「……こんなもの、ただの脂肪よ」

 甲高い笛の音と、教師の号令を合図に、二人一組の柔軟体操がはじまる。

 足を広げて座った朝葉の背中を押しながら、つゆが言う。

「市井さんは、玉城さんと組んだのね」

「うん。わたしが姫と組めるように気をつかってくれたのかな」

「ええと……どういう意味で?」

「愛的な意味で?」

「……市井さんが部活に出なくなったから、色々あるんでしょうね」

「だね。きっとたまちゃんが、一番気にしてるんだよ」

 前後を替えて、次は朝葉がつゆの背を押す。押しているつもりだが、つゆの身体が硬すぎるせいで、ほとんど身体は動いていない。

「一番って、どういうこと?」

「だってさ、ひじりんが足怪我したの、たまちゃんも無関係じゃないじゃん。聞いてない? そのへんの話」

「詳しくは知らないわ」

「うーん、ひじりんも普通にしゃべってたし、わたしから話してもいいのかな……」

 二人は立ち上がり、背中を合わせて腕を組む。朝葉が身体を前傾させ、つゆを背中で持ち上げる。

「ひじりんがボール踏んでこけたって話は知ってるよね?」

「ええ」

「部活の練習試合があったらしいんだ。何校かの合同で。そこに、シメ高も来てたみたいで」

 背中におぶわれたつゆが、苦しそうにあえぎながら答える。

史明しめい高校……ね……。ガラの悪さは……、聞いてるわ……」

「誰もかれも悪いってわけじゃないと思うんだけどね。わたしの友達も行ってるし。けど、まあ、その時は評判通りの人たちだったっぽくてさ」

 二人は組みついた身体を離し、それぞれ関節を回したり、首を回したりしている。

「それで、シメ高は男子も来てたみたいで、たまたまなんかの用事で一人になったたまちゃんが……」

 再び、笛の音。

 教師の合図でプールサイドにクラスごとの列が作られる。戻ってきた聖に気を遣い、二人の会話もそこで中断された。


 女の体育教師が、ずらりと座った生徒に呼びかける。

「おーし、今日はクラス対抗やるぞー。おまえら本気で泳げよー」

 教師は水泳部顧問で、日に焼けた肌と塩素に焼けた髪の境目が消え、頭から足先まで美しい褐色に染まっている。

 教師の一声を受け、あちこちから不平の声が上がった。

「よし、今文句言ったやつ、トップバッターな。出てきて並べ」

 ざわついていた生徒たちが、急に押し黙る。立ちあがろうとする者はない。

「しらばってくれてもわかるぞー。四組、竹崎、相馬……、三組、井出、高羽……」

「ちょっ! わたしなんも言ってないけど?」

 必死の抗議も虚しく、濡れ衣を着せられた朝葉と他三名がコースに並ぶ。

「ほんとはサシでやりたいとこだけど、人数も多いし、二対二でいくぞ。往復五十メートルで交代な」

「先生、勝ったらなんかあるんすかー?」

 四組の相馬がだるそうに尋ねる。

「勝てば名誉、負ければ屈辱だ。他になんかいるか?」

 相馬は白け顔でスタート台に上がった。他の三人もしぶしぶと続く。

「じゃ、いくぞ。よーい……」

 短い笛の号砲。

 飛沫を高く上げ、四人同時に水中に消える。

「つゆ、賭けようぜ。朝葉、何着だと思う?」

「この四人なら、そうね……、竹崎さん、高羽さんの順かしら」

「二着だな。じゃーあたしは一着で」

「何よそれ。なんか、ずるいわよ」

「今から変えんのはなしだぞ」

「待ってよ。わたしが友達を信じてないみたいじゃない」

 水面を移動する四つの影が、コースの半ばに差しかかる。聖は朝葉を指差して、うれしそうに手を叩く。

「ほら、頭の差でトップだぞ! 竹崎は……なんか変だな。調子わりいみたいだ」

 二人から見て、朝葉は一番手前のコース、四組の竹崎は一番奥を泳いでいた。その竹崎が、明らかにペースを落とし、水面から顔を出してもがいているように見える。

 観衆のどよめきと、教師が駆け出すのがほとんど同時だった。

 教師がプールの対岸から飛び込み、コースロープにつかまりながら竹崎を引き上げる。四組の相馬も、同じようにロープにつかまり、異様な形相でプールの端へ向かっている。

 三組の井出と朝葉も異変に気づき、先に対岸に泳ぎ着いたあと、プールサイドに這い上がる。

 教師と四人の生徒が無事水から上がると、残りの生徒たちも総立ちになり、みな青ざめた顔をして、そのプールに生まれた、巨大な渦を見下ろしていた。

 渦は竹崎が泳いでいたコースを中心にして、コースロープを蛇のようにねじりながら回転していた。中心には、いつ空いたかも知れない黒々とした亀裂が水底に透けている。

「なんだ、ありゃ……」

「水が……吸い込まれてるわ」

 人の身体くらいやすやすと吸い込んでしまいそうな深い裂け目が、プールの水を一気に飲み干していく。

「体育は中止だ、着替えて一旦教室に戻れ」

 教師の誘導で生徒たちは更衣室になだれ込む。あふれた者たちは、すっかり水の涸れたプールに刻まれた不可解な傷跡を、不安げな顔で見つめている。

 その時、別の群衆に混じっていた朝葉が、二人の元にやってきた。

「なにあれ……、不発弾でも爆発した?」

「わからないわ……。地下のガス管が破裂したのかしら……っていうか、高羽さん、大丈夫?」

「あー、うん、わたしは大丈夫だけど、プールが大丈夫じゃない感じだね」

 騒ぎに気づいてやってきた何人かの教師が、プールサイドから恐る恐る亀裂をのぞき込んでいる。

「渦巻きって、ほんとにあるんだな。初めて見たよ」

 聖がのんきに感嘆の声を漏らす。

「わたし、一番遠かったけど、流れるプールを逆走してるみたいだったよ」

「それにしても、穴に水が吸い込まれるだけで、あんなにきれいな渦巻きができるのかしら……。それに、吸い込まれた水はどこに行ったの……?」

 つゆが独り言のようにつぶやく。

「妙なことが続いてすっかり慣れちまってたけど、現実に事故が起こると、やっぱビビるな」

「そうね……」

 事態の深刻さとは裏腹に、生徒たちは既にたわいない世間話をはじめている。プールが損壊した話題よりも、クラス対抗の競泳が中止されたことを安堵する声が大きかった。

 ようやく着替え待ちの列が動き出し、三人も更衣室の扉に飲み込まれていく。列に押されながら朝葉が振り返った時、プールの底の黒い穴は、まるで朝葉を誘うように、大きな口を開けて笑っているように見えた。

 

 

 

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