喪失

「なにそれ、どうゆうこと……?」

 ありのままを説明した二人に、朝葉が露骨に不安げな表情を見せる。

「今までは、例え高羽さんの意識が鏡の中に入っても、映る像は同じだったわ。けど、これは明らかに別の像が映ってることになる……」

 つゆが考え込むように顎に指をやる。

「待って。ほんとに同じだったのかしら……。わたしたちがただ、鏡だと思い込んでただけなのだとしたら……」

 出し抜けに身を翻すと、つゆは小窓の合わせ鏡の前に立った。

 鏡像の自分と向かい合い、ゆっくりと片手を上げて、下ろす。続けて、今度は同じ動作を素早く繰り返した。

「何で気づかなかったのかしら……」

「どうした?」

「見て、これ」

 つゆの後ろから二人が小窓をのぞき込む。つゆは同じ動作を繰り返してみせた。

「これは……、少し、遅れてるってことか?」

「鏡に反射する像は、その間を進む光によって映し出されてるわ。つまり、光の速さで反射してる。ちょっとやそっとじゃ、鏡の像がずれて動くなんてことはない」

 聖が真似をして片手を上げる。

 合わせ鏡の中で、ほんのわずかずつ動作が遅れて伝わり、その遅延が増幅され、奥の方では明らかに遅れた像が現れている。

「じゃーこれは鏡じゃないってこと?」

「鏡に似た、別の何かだと思う」

 朝葉もまた確かめるように小窓の前で身体を動かしている。

「えーっと、よくわかんないけど、そのずれが、ストップウォッチの時間のずれってことだよね?」

「わたしたちがいるこのバスから、高羽さんがいるバスに像が伝わるまでのタイムラグが、ストップウォッチの時間に現れたのよ」

「あー……、ややこしいな。こっちでボタンを押したのが少しずつ遅れて伝わって、今朝葉がいるバスに届いた時には一秒くらい経ってたってことだよな。けど、その朝葉のいるバスでは、あたしの三十号がボタン押したばっかだったから、朝葉はいっしょのタイミングでボタン押せたって言いたいんだろ」

「阿吽の呼吸だったよ」

「けど、変じゃねえか? ちょっとずつ遅れて伝わってるなら、三十台目のバスの中にいる朝葉も遅れて動くってことだろ」

「それは、あくまで主体として動いてる高羽さんが一台目のこのバスにいる場合じゃないかしら」

「どういうことだ?」

「本来、この一台目のバスが実物として、隣り合ったバスに像が遅れて伝わっていく……それだけの話だったと思うの。けど、高羽さんというイレギュラーが、主体性を持ったまま鏡像の中に入ってしまった。一方向だった主従の関係が、乱されたのよ。従うだけだった鏡像の世界に、動きの発生源が入り込んでしまった。だから、本来規則的に連なっているはずの鏡の世界に、ずれが生まれた」


 三人とも、長い時間黙り込んでいた。

 あまりにも観念的な推論が、事実、自らを取り囲んで進行していることに対する現実感の希薄さに、容易く折り合いをつけることはできなかった。頭の中の理屈と、肌で感じる現実との間に横たわる深い溝に、いったい何を投げ込めばいいのか、彼女らは見当もつけられずにいる。

「ちなみにさ、わたしの動きも、そっちに遅れて伝わってるの?」

 じれったい沈黙に耐えかねて、朝葉が口を開く。

「そりゃそうだろ。だからおまえがあと出しじゃんけんになったんじゃねえか」

「そうとも限らないわよ。さっきの実験だけじゃ、こっちの動きは遅れて伝わっても、高羽さんの動きが遅れて伝わるとまでは言えないわ。そうね……、試しにここに立ってみて」

 つゆと朝葉が小窓の前に並んで立つ。

「せーので、同時に手を上げるわよ」

 合図と同時に、つゆが片手を上げる。

 ほんの少し遅れて朝葉も手を上げる。

 後ろから見ていた聖が、苦笑いを浮かべた。

「朝葉、おまえ、やべーな……」

「驚いたわね……」

 つゆが片手を上げた動きが、わずかに遅れながら鏡の中を伝わっていき、およそ一秒ほどあとに、朝葉が手を上げた。

 しかしその朝葉の手は、二人の隣にいる朝葉と、すべての鏡像の中で、完全に上げられた。

「おまえ、全員一号じゃん……」

「バスからバスにも普通に移動できてるみたいだし、高羽さんだけが、この繰り返される鏡像の中で、タイムラグも無しに自由に動き回れるんじゃないかしら」

「マジ? 時空を超えた朝葉一号?」

 朝葉は自らに向けて立てた人差し指を、熱っぽく潤んだ瞳で見つめた。

「つゆ、あたしの理解が追いついてない部分もあるかもしんねえから、一回話を整理させてくれ。もし間違ってたら教えて欲しい」

「わかったわ」

「まず、この鏡みたいに繋がってる世界を、そうだな……、テレビみたいなもんだとして、あたしらがいるこのバスをテレビ一番とすると、隣り合ってテレビ二番、三番って感じで、ずらっとテレビが並んでる」

 つゆは無言で相槌を打つ。

「それで、テレビ一番では、なんでもいいけど、例えば刑事ドラマが流れてるとする」

「わたしが刑事役ね。時空を超えて飛び回り、時間犯罪を取り締まるタイムポリス」

「このバスで流れてるドラマが、二番目、三番目のテレビでは、少しずつ遅れて再生されてる。場面は殺人現場だ。犯人のつゆが、被害者のあたしを拳銃で撃ち殺そうとするシーン」

「……そのシーンじゃなきゃダメかしら?」

「なんでもいいけど、とりあえず続けるぞ。テレビ一番で、つゆが拳銃を取り出し、あたしの額に狙いを定める。つゆの指が引き金にかかった瞬間、ドアを開けて朝葉刑事が現れる」

「タイムポリスだよ?」

「紛らわしいんだよ。別にSFの設定じゃねえから」

 朝葉がしょぼくれてうなだれる。

「すんでのところで、刑事があたしを救う。ハッピーエンドだ。これがテレビ一番に流れてるストーリー」

「いいわ。続けて」

「隣のテレビ二番では、ほんの少し遅れて同じ映像が流れてる。テレビ三番では、もうちょい遅れてる。ずっといって、三十番でも同じ映像が流れてる。どのテレビでも、あたしは助かる。けど、もし刑事がドアをぶち破るタイミングが、どのテレビをまたいでも同じタイミングだったら」

「映像の進み具合に関係なく、すべてのテレビで同じタイミングで入ってくるってことね。テレビの外の時間みたいなものがあって、それに合わせて入ってくる」

「ああ。もしそれがテレビ一番の映像でジャストなタイミングだったら、一番のあたしも助かるし、他のテレビでも助かる。つっても、百番くらいのテレビでは、引き金を引くタイミングじゃなくて、つゆが拳銃を取り出すあたりで早めに入ってくることになる」

 一息つき、さらに続ける。

「けどもし、入ってくるタイミングが三十番のタイミングだったら、三十番の映像ではぴったり助かるけど、それよりどれだけか前の番号では、既に引き金が引かれたあとに入ってくることになる。あたしの死体を見下ろして、愚かな刑事は初動の遅さを悔いて自殺するわけだ」

「最後のやついらなくない?」

「まあ、そういうことだよな? 少しずつ遅れてずれていく世界で、どこにいても遅れないやつが好き勝手に動いたら、それぞれの世界で物語が変わってくる」

「わたしの認識も、その通りよ」

 聖が自らを納得させるように、一度うなずく。

「さて、それを踏まえて、どうするか、だな」

 朝葉は理解したのかしていないのか、判断の難しい顔でぼんやりしている。

 つゆはスマホに記録された時間を眺め、

「ずれた時間、か……」とつぶやく。

「朝葉が言ってた〇・〇二秒と、このスマホの〇・九三秒から考えたら、ここと朝葉がいるとこで単純に〇・九秒くらいずれてるってことだよな」

「そうね。高羽さんがいるのがここから三十番目のバスだから、ざっと三十で割ったら……」

「〇・〇三秒だ」

「一つ隣のバスくらいじゃ、ほとんどわからないずれね」

「ねえ、もう帰っていい?」

 朝葉が気を揉むように言う。

 二人との会話が途絶えると、朝葉は急に孤独を覚えた。目の前に見慣れた二人の姿があっても、その実体は数十メートルも離れた場所にあるのだ。今話しているのは魂のない幻影だと思うと、朝葉の不安は増していくばかりだった。

 無機質なバスの車内が、牢獄のように朝葉の心を閉じ込める。その鏡を抜ければ……また何十回も鏡をくぐれば、本当に二人の元に帰り着くのだろうか。同じ道をたどれば、同じ場所に帰れるという保証が、本当にあるのだろうか。

 聖とつゆの身体が、とつぜん色を失ったようにおぼろげに見える。二人の姿も、無限に続く車内も、自分の身体さえも、何もかもが、嘘のように思えた。

 朝葉は二人を見る。

「ねえ」

 二人は朝葉を忘れたように難しい顔をして話し込んでいる。

「ねえって……! もう戻るからね!」

「ああ、すまん、もう戻ってきていいぞ」

 聖の答えを聞く前に、朝葉は走り出していた。バスの乗り口を抜け、非常口に飛び込む。また乗り口に入り、非常口をくぐる。

「まったく……。人使いが荒いわりに、すぐほったらかすんだもんな」

 どれだけバスを乗り換えただろう。朝葉はハッとした。

 立ち止まって、振り返る。

 たった今通り抜けてきた乗り口の鏡が見える。目の前には、非常口の鏡が光っている。

「あれ……?」

 身体が一気に冷えていく。皮膚の上を、泡立つサイダーのような何かが流れていくのを感じた。

「わたし、いま……何号だっけ?」


 すがるような目つきで二人を見つめる朝葉の姿に、聖が気づいた。すぐにつゆも状況を理解する。

 聖が口を開こうとするが、呆れるあまり掛ける言葉を見つけられずにいる。

 ただ二人に凝視されるだけの朝葉が、弱々しく笑った。

「なんか、二人と、もう会えない気がする……」

 力無く上げた手が、風に吹かれるススキのように、儚げに揺れる。

「バイバイ……」

 そう言った朝葉と二人の間で、バス数十台分の蒸し暑い空気が、静かに凍りついていくようだった。

 

 

 

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