ずれ
乗り口にぽっかりと現れた巨大な鏡を見て、つゆがつぶやく。
「あそこから入ったのね」
「ねえ、鏡の世界なんてないんじゃなかったの?」
朝葉は困惑した表情で問い詰める。
「いや、状況がよくわかんねえし、だいたいおまえ、さっき鏡の世界入りたいつってなかったか?」
「またわたし一人じゃん」
普段は楽観的な朝葉も、立て続けに起こる異常事態、それも自分一人に降りかかる奇妙な異変に神経質になっているようだった。
「高羽さん、今どうなってるの? わたしたちから見たら、高羽さん二号が鏡から現れたようにしか見えないわ」
「だから、鏡の世界に入っちゃったんだって」
「何もかも逆になってるってことか?」
「そう」
「でもおまえ、ここにいるじゃん」
聖が朝葉の頭を撫でる。
「そうだよ、ここにいるよ。だってここが、鏡の世界でしょ?」
「何言ってんだよ、おまえ」
つゆが真面目な顔で目の前の朝葉と窓に映った朝葉を見比べる。
「高羽さん、今話してる相手は、反転したわたし?」
「そうだよ。時計が変だし」
「今いるのは、反転したバスの中?」
「だから、さっきからそう言ってるじゃん」
二人の目の前で、別の場所にいると言い張る朝葉を見て、聖が顔をしかめる。しかしつゆは、冷静に答える。
「高羽さんは、鏡の中にいるんだわ」
聖がぎょっとしてつゆを見る。
「つゆまで何言い出すんだ? こいつは、ここにいるじゃねえか」
「ここにいる高羽さんは、鏡に映った高羽さんよ」
一瞬、沈黙がその場を支配する。
唖然とした聖が、ようやく絞り出した言葉は、ただの一文字だった。
「は?」
呆れ顔の聖と、対照的に真剣な朝葉の顔。
聖は朝葉の頬をつまみ、
「これが鏡の像だって言うのか?」
そう言って、ねじれた朝葉の顔を凝視する。
「何が本物で、何が鏡像か、高羽さんが鏡に入ったことで曖昧になってる。きっと、高羽さんの意識は鏡の中にいるんだわ。その証拠に……、ねえ、高羽さん、今、あなたの身体は反転してる?」
「腕のほくろがいつもの場所にあるし、反転してないと思う」
「つまり、高羽さんは、何もない出口を通過するように、鏡をただ通り抜けたんだわ」
「通り抜けた……つっても、バスから抜け出したわけじゃねえんだよな?」
「信じられないけど、鏡の中に入ったのよ。それで、わたしたちの前には、鏡写しの高羽さん二号が現れた」
聖が朝葉の身体をぺたぺたと触る。
「朝葉の、なんつーか……魂みたいなもんはそのまま鏡に入って、この朝葉は、ただの抜け殻だってことか」
「平たく言えば、そうなるわね」
再び頬を引っ張りながら、聖が朝葉の瞳を至近距離でのぞき込む。
「これが偽物だなんて、信じらんねえな……」
「ひんひへ……」
「視点を変えれば、今喋ったのは本物の高羽さんで、本物の高羽さんのほっぺたをつねってるのは偽物の市井さんということにもなる」
聖は心の底から発する深いため息を一つ吐き、それでもすぐに気持ちを切り替えた。
「じゃあ、朝葉は今、隣のバスにいるってことだな?」
「ええ。隣と言ってもいいし、一回だけ像を反射したバスにいると言ってもいい」
「なあ、朝葉。そっからさらにバスを移動できるか?」
朝葉は車内を見回して答える。
「移動するって言っても、そっちに戻る出口しかないよ?」
バスの窓や扉などの開口部はすべて鏡になっているはずだが、人が通れる大きさの鏡は、乗り口と降り口の二箇所しか開いていない。どちらを通っても、元のバスに戻るだけだ。
聖は無言で首を回すと、何かを見つけてバスの後部に移動する。
「何するつもり?」
聖は座席の一つを前側に倒した。
「非常口を開けるんだよ」
表示通りにてきぱきと手順をこなし、乗降口とは反対側に設置された非常口の扉が、簡単に開いた。
「朝葉、入ってみろよ」
聖に急かされ、しぶしぶ非常口を抜けた朝葉が、また同じ非常口から現れる。本物の朝葉はさらに隣のバスに移動したはずだが、二人からすれば、ただ同じバスの中で出たり入ったりしているようにしか見えなかった。
「なんか、二人からどんどん離れていってる気がするのは、気のせい……?」
「気のせいじゃないわよ」
朝葉は酸性雨で溶けた銅像のような顔をして、二人に無言で抗議する。
「今、この朝葉は、二つ離れたバスにいるってことだな」
「そうなるわね」
「朝葉、なんか変わった様子あるか?」
目の前にいる人間に周囲の状況を尋ねるという、奇妙な光景が繰り広げられる。
「反転してない普通のバスに戻ったよ」
つゆの手を取り、
「二人も一号に戻ってる」と、付け加える。
「つゆ、元に戻ったらしいけど、この朝葉は一号に戻ったのか? それとも二号のままなのか?」
「状況から考えたら、三号だわ」
朝葉は無言で指を三本立てて見せる。聖は合わせ鏡の向こうに小さく見える朝葉の像を眺めた。
「朝葉、とりあえず百号までいっとくか」
「マジ……? それ、戻ってこれる?」
「数え間違えなければ、戻ってこれるはずよ」
「わざわざ行く意味、ある?」
「どこまで行ってもほんとに同じなのか、確かめといた方がいいだろ」
「できることは試しておいた方がいいわ。ただし、二回に一回は全く同じ風景になるから、どこかでわからなくなったら、終わりね」
朝葉は二人に懇願の表情を向ける。
「ぜったい、数えといてね……?」
「任しとけ。数学は得意科目だ」
「わたしだって、数くらい数えれるわよ?」
いかにも気乗りしない様子で、朝葉が乗り口の鏡の前に立つ。
「いいか、朝葉。今が三号だからな。一回くぐるごとに、一つ増える。あたしらも数えとくけど、おまえも数えとけよ」
朝葉はまた指を三本立てて、二人に向けて突き出した。
そして、
「四号!」
と言いながら、乗り口の鏡をくぐった。
鏡から現れた朝葉四号が、そのまま「五号!」と叫びながら非常口をくぐる。続けて、六号、七号と、順調に繰り返す。
「なんだかんだで、やるんだよな。こいつは」
「喋ってると数え間違うわよ」
十号、十一号……、増えていく数とともに、朝葉は二人の前を何度も通り過ぎる。
三十号を数えた時、朝葉が荒い呼吸を吐きながら二人の前で立ち止まった。
「三十……、号まで……、行ったけど、まだ……続ける……?」
膝に手を突き、中腰で肩を上下させる。
「段差が……、地味に、くるね……」
「何か変わった様子はある?」
朝葉がふらつきながら見回す。
「いや、逆になったバス……。なにも変わんない……」
「どうしましょう、まだ続ける?」
つゆが聖の意見を仰ぐ。
「そうだな……。つゆ、合わせ鏡は何枚目まで見えてる?」
開いた小窓の前に立つつゆに、聖が問いかける。
「そうね、暗くなってないにしても……、二十か、三十くらいかしら。微妙に角度がついてるせいで、先の方は隠れてしまってるわ」
聖がしゃがみ込んで、中腰になった朝葉の顔をのぞく。
「朝葉、五十までいけるか?」
「えー……、もういいんじゃない?」
「これ以上は、変わらないんじゃないかしら」
「合わせ鏡で見えてるよりも先まで、見ときたくねえか?」
「あんまり二人から離れすぎるのもやだよ……?」
一息置いて、聖が言う。
「よし、わかった。じゃんけんしよう。あたしが勝ったら、五十までいく。おまえが勝ったら、すぐ戻ってこい」
「うー……、まあ、いいけど」
不承不承、朝葉が片手を出す。右手を出したつもりだったが、反転した朝葉が出した手は、二人から見たら左の手だ。
「さいしょはグー、じゃんけん……」
聖はグーを出す。
一秒ほど遅れて、朝葉が出したのはパーだった。
「やった! 勝った!」
「おい、あと出しすんなよ。そんなに行きたくねえのか?」
「え? してないじゃん。負けたからって、言いがかりやめてよ」
不穏な空気が二人の間を満たす。
「高羽さん、わたしから見ても、あと出しだったわよ、今のは」
「姫まで! 姫までそんなこと言うの……?」
「わかった。じゃあもう一回だ。今度こそ、文句なしだぞ」
「文句言ってんの、そっちじゃん」
しぶしぶ従った朝葉が、また片手を出す。向かい合いながら、実際には何十メートルも離れている二人が、拳を突き合わせる。
「じゃんけん……」
聖はまたグーを出した。
朝葉も再びパーを出す。しかも、同じようにタイミングを遅らせた。
「ほら、勝った」
「おまえ……」
今にもつかみかかりそうな聖を、つゆが後ろから押さえる。
「待って、何かおかしいわ」
「そーだよ、ひじりん、おかしいよ」
「なんだと?」
「やめて!」
二人の間に割って入ったつゆが、スマホを取り出し二人に突き出す。画面にはストップウォッチの機能が表示されている。
「何のつもりだ?」
「いいから、わたしが言う通りにやってみて」
画面には、経過時間を表すカウンターと、スタートボタン、ストップボタンが並んでいる。
「わたしの合図で、市井さんがスタートボタン、高羽さんがストップボタンを同時に押して」
「同時に押したら意味ないんじゃねえの?」
「いいの。やってみて」
小さなスマホの画面の上に、二人の指が並び、それぞれボタンを押す準備をする。
「いくわよ……。いっせえの……」
つゆの合図で、聖がボタンを押す。やや遅れて、朝葉もボタンを押した。
「よっしゃ、〇・〇二秒! 息ぴったりじゃん!」
聖とつゆが、絶句する。
はしゃぐ朝葉をよそに、二人は凍りついたように動かない。
「やっぱ、わたしとひじりんは一心同体だね」
朝葉が聖の肩をぽんぽんと叩く。
しかし、聖もつゆも微動だにしない。その視線は、スマホの画面に注がれたまま固まっている。
「なに? 二人とも、どうしたの?」
ようやくつゆが顔を上げ、血の気の引いた表情で朝葉を見た。
「高羽さん、今言ったこと、もう一回言ってみて」
「え、なに? ひじりんとは一心同体……」
「違うわ、その前」
「えーと、ひじりんとわたしは阿吽の呼吸で……」
「そんなこと言ってねえだろ」
「なんだっけ……、〇・〇二秒で、息ぴったりだねって……」
再び、二人が言葉を失う。
毒薬を飲み込んだように、言葉を詰まらせたまま、押し黙っている。
「ぜんぜんわかんない。どうゆうこと? 何の実験?」
「おまえ……」
聖が言葉を絞り出す。
「これが、〇・〇二秒に見えるのか……?」
「何言ってんの。どう見ても〇・〇二秒じゃん。小数点くらい間違わず読めるよ」
聖とつゆ、二人の視線の先で、スマホの画面は『〇・九三秒』を示して止まっていた。
「鏡じゃ……ないの……?」
この異様な世界に迷い込んでさえも覚えなかった恐怖が、今はじめて二人の体内に、ひたひたと忍び込んでくるのを感じた。
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