侵入

「市井さん、何か変わった感じある?」

 体軸を中心に左右の反転した聖に、同じく反転したつゆが問いかける。

「いや、なにも。心臓が右の胸で動いてるけど、押さえなきゃわかんねえ」

 聖は胸に手を当てながら答える。

「このままでいるのは気持ち悪いわね。もう一度入ってみるわ」

 つゆは再び鏡をくぐった。

 反転した身体がさらに反転して、元通りになったつゆが現れる。

「市井さんも戻ったら?」

「ああ」

 しかし聖は考え込むようにじっとしている。

「なあ」

「どうしたの?」

「今のあたしは、誰なんだ?」

「反転した、市井さんでしょ」

「鏡の世界のひじりん二号じゃないの?」

「鏡の世界なんてないわ。ただの鏡像よ。あるように見えるだけ」

「でも実際、二人が鏡から出てきたように見えたよ?」

「それは……そう見えただけよ」

 聖はまだ動かない。

「あたしが、これがあたしだと思ってるように、鏡の中のあたしも、同じように思ってるんじゃねえのか? 二人とも同じことを思ってるなら、身体がまともな方が本物だろ」

 聖の言葉を受けて、つゆも悩むように黙り込む。

 しばらく沈黙が続いたあと、つゆが言った。

「バスが同じだわ。このバスから出て行ったはずなのに、またこのバスに出てきたと感じる。それは、少なくとも、今市井さんが思考してる意識は、ずっとこのバスの側にいるってことよね。もし鏡の中の世界があるとして、そこに入ったとしたら、反転したバスの中にいると感じるはず。そう思わないってことは、同じ身体がただ反転しただけで、元の市井さんの意識は、はじめからずっとこの身体とセットで続いてるってことじゃない?」

 聖は難しい顔で腕を組む。朝葉はまるで蚊帳の外といった風情で二人を眺めている。

「まあ、つゆがそう言うんなら、そうなのかもな」

「そうよ。それに、あの窓を見て。合わせ鏡みたいに、同じバスの車内が延々と繰り返されてる。その中には、反転してる市井さんもいれば、反転してない市井さんも無数にいるはずだわ。身体の状態だけで、どれが本物かを決めるなんて、ナンセンスよ」

「そうだな。よし、あたしも元に戻ろう」

 聖も再び鏡に飛び込んだ。ピアスの場所も元通りになった聖が現れる。

「まだわかんねえことばっかだけど、とりあえず、出口が鏡になってることはわかった。他のとこも調べてみよう」


 聖の号令で、三人はそれぞれ車内を調べはじめる。

 運転席に狙いを定めた聖は、運転手の顔をコツコツと叩いている。運転手の体内で、まるで人間とは思えない乾いた音が反響する。

「なあ、この運転手、割ったらなんか出てくるかな」

 運転手の頭を小突きながら、離れた場所にいる二人に呼びかける。

「ちょっと、やめてよ……。元に戻った時、バラバラになってるなんて嫌よ」

「ひじりん、貯金箱じゃないんだから」

 聖が運転手の身体を強く揺さぶる。勢い余って、運転手が奥に倒れ込んだ。

「やべ……」

 運転手の頭が、窓ガラスにぶつかり硬質な音を立てる。慌てて運転席に入り込み抱き起こす。

「割れては……ないみたいだな。危ねえ、人殺しになるとこだった」

 ふと運転手がぶつかった窓を見ると、窓枠に小さなつまみが付いている。

「この窓、開くのか?」

 つまみを握って引くと、鏡のように反射する窓ガラスが開いた。

 鏡の向こうには、また鏡があった。目を凝らしてみると、鏡のように見えていた窓ガラスはただの透明なガラスで、降り口と同じように、開口部そのものが鏡のように反射しているのだった。

「ガラスが鏡になってるんじゃねえんだな」

 開いた窓に指を突き刺す。鏡の中から指が現れる。

「バス全体が、ラップでくるんだみたいに鏡で包まれてる感じか?」

 窓から指を抜くと、聖は窓ガラスから離れた。足元を見ると、アクセルらしきペダルがある。

「これ踏んだら、動くのか? けどエンジンの音しねえもんな……」

 大きなハンドルの周りにずらりと並んだスイッチの類を流し見て、聖は諦めて運転席を出る。


 つゆは座席横の広い窓ガラスを調べていた。正面に自分の顔が映っている。その向こうにはバスの車内があり、さらに奥の窓ガラスにも、またバスが映っている。その中につゆの背中が映り、それがずっと、合わせ鏡のように続いている。

「遠くの方は暗くなってるわね……」

 幾重にも重なったバスの車内は、奥にいくにつれ次第に暗くなっている。

「暗くなるってことは、光の反射率が百パーセントじゃないんだわ」

 そこへ、運転席から出てきた聖がやってきた。

「運転席の窓開けてみたけど、ガラスが鏡になってるわけじゃねえな。バスの外に繋がる窓とかドアの空いた部分が、そのまま鏡になってる。窓割って脱出するってのは無理だな」

「なるほど、だからね……」

「どうした?」

「この窓の向こう、ずっとバスが繰り返し続いてるけど、奥の方は暗くなってるでしょ。合わせ鏡って、こんな風に、奥が暗くなるの。どんな鏡でも光を百パーセント反射するわけじゃないし、使ってるガラスも光を完全に透過するわけじゃないから、何回も反射するたびに光が少しずつ弱まって、最後の方は暗くなるのよ」

「えーと、つまり?」

「つまり、そうね……。窓が開けれたら説明しやすいんだけど」

「上の方開くんじゃねえか?」

 聖が窓の上部に手を伸ばす。固定された窓の上に小さな窓が付いており、開閉できる仕様になっている。

 聖が小窓を開けると、つゆも席を移動し、通路を挟んでちょうど反対側の小窓を同じように開けた。

「見て。やっぱり、そうだわ」

 つゆと同じ場所に立ち、聖が小窓をのぞく。小窓と小窓の間に延々と繰り返されるバスの車内が見えたが、ガラス越しに見るのとはどこか違って見えた。

「あー、そうか。暗くなってねえんだな」

「そう。目の届く限り、どこまでも同じ明るさの車内が続いてる」

「つまり、暗くなってたのはガラスのせいで、こいつ自体は百パーセント反射する鏡だってことか?」

「百パーセント反射する鏡なのか、あるいは、そもそも鏡ですらないのか……」

「鏡じゃないなら、なんなんだ?」

 つゆは無限に繋がっていくバスを見つめて、

「わからないわ……」と答える。

 聖も軽いため息を返す。

「まあ、なんにしても、この鏡みたいなやつを引っぺがさねえと、このバスからは出れねえってことだな」

「そうね。もし引き剥がせるような物じゃなければ、どうにかして反射してる像を壊すとか、消す必要がありそう」

「どっかにスイッチがあって、それ押したら消えてくんねえかな」

「電気を消して真っ暗にしたら、鏡像も消えるわね」

「けど、こっちも見えなくなるから、鏡だけが消えたことにはならねえんじゃねえの?」

「そうね……」

「だいたい、どうやって電気消すんだ?」

「さあ……」

 二人はまた、首を傾げて黙り込む。


 車体の中央寄りに設置された乗り口の前で、朝葉が鏡とにらみ合っている。降り口と同じように、扉の開いた乗り口もまた開口部全体が鏡のように反射する何かで覆われている。

 窓のそばで何やら話し込んでいる聖とつゆをちらりと見て、朝葉は鏡に指を差し入れた。

 鏡から、指が戻ってくる。

「なんだ、わたしもいっしょじゃん」

 独り言の漏れる口を押さえ、二人を振り返るが、気づかれた様子はない。

 こっそりと腕を入れる。二人の時と同じように、鏡写しの腕が伸びてくる。

 またちらりと横目で二人をうかがい、朝葉はそのまま、鏡の中に飛び込んだ。


「朝葉、何やってんだ?」

 つゆとの会話を中断し、聖が首を伸ばす。

 乗り口の前に、朝葉が立っている。車内に身体を向け、白目を剥き出してきょろきょろと見回している。

「何やってるのかしら」

 朝葉は狼狽した様子でバスの車内と自分の身体を交互に見比べている。

「なに、これ?」

 周りを気にしながら、ゆっくりと、通路の段差を上がってくる。やけに慎重で、緩慢な動作だ。

 時間をかけてようやく二人の前に立つと、朝葉はつゆの手を取り、手首の腕時計を見た。

「なんで……、なんで、二号がいるの?」

「何言ってんだ、おまえ」

 その時、聖も朝葉の顔つきの違和感に気づいた。

「まさか、おまえ……、入ったのか?」

 朝葉が再び車内を見渡す。

「なんか、話が違うんだけど……」

 不安げに二人の顔を見比べる朝葉のただならぬ様子を見て、聖もつゆも、蒸し暑い車内には場違いな、冷たい物が背筋を走るのを感じた。

 

 

 

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