虚実

「どうなってるの……?」

 つゆが見回した車内は、窓という窓の向こうにバスの内部が映っていた。両側の窓全体が、巨大な合わせ鏡のように、無限に繰り返されるバスの車内を映し出している。

「ドアは……開いてるよな」

 降り口の扉は、開いていた。両側に折り畳まれた扉が、それが開いていることを伝えている。だが、向こう側が見えない扉を、果たして開いていると言うべきなのか、聖にも確信が持てなかった。

 恐る恐る、聖は鏡像に手を伸ばした。その指先と、映し出された指先が、触れた。

 瞬間、指が鏡にめり込んだ。

 とっさに手を引く。

「なんだ……? 入ったぞ、今」

「どうしたの……?」

 背後からつゆが尋ねる。聖の両肩に手を載せた朝葉が、肩越しにのぞき込む。

「ねえ、今、鏡の中から手が伸びてこなかった? ひじりんの手をつかむみたいに」

「なんか……出てきたよな」

 聖はリュックサックからペットボトルの水を取り出すと、ボトルの飲み口を持ち、ゆっくりと鏡像に近づける。

「ひじりん、気をつけて……。鮫みたいに、急にくるかもよ」

 ボトルの底が、鏡面に触れる。そのまま、水面に沈むように、ボトルが垂直に入り込む。

「朝葉、これ、どうなってる?」

「わかんない……。ペットボトルがやたらキラキラしてる」

 ボトルの鏡面に近い部分が、瞬くように輝いていた。

 鏡に刺さったままのボトルを、上下に動かす。ボトルの角度が変わると、鏡面から、透明の塊が現れた。動くボトルに合わせて、その塊も上下左右に向きを変える。ボトルと塊が重なった部分が、きらきらと瞬いて見える。

 聖も朝葉も、起きている現象をいかに解釈すべきかわからずにいた。どう見ても、鏡から突き出したそれは、聖が突き刺しているのと同じペットボトルの底だった。

「何してるの?」

 つゆが後ろから声を掛ける。

「ええと、なんて説明したらいいんだろうな」

「うーん、ペットボトルを突っ込んだらペットボトルが出てきた……って感じ?」

 つゆが怪訝そうに顔をしかめる。聖がボトルを押し込むと、その分だけ鏡の中から同じボトルが迫り出してくる。

「それ、何……。鏡?」

「鏡みたいだけど、水面みたいに通り抜けて、なんつーか、向こうに入ったぶんだけ、こっちに出てくる」

「どういうこと?」

「向こうにいるあたしが、同じようにこっちにボトルを突き出してくる」

「何それ」

「わかんねえ」

 聖がつゆに見えるように、ボトルを抜き差しして、ぐるぐると動かす。

「鏡の中に入った部分が、そのまま鏡写しになって、こっちに出てきてるみたいね。というか、鏡の像が出てきてるというか」

「……ってことは、さっきひじりんの手をつかもうとした謎の手は、ひじりんの手だったってこと?」

「そうなるな」

「じゃー、ひじりんが鏡の中に飛び込んだら、こっちに飛び出してくるんだ」

「鏡のあたしが、な」

「それはひじりんじゃないの?」

「知らねえよ。試してみるか?」

「試してみる」

 聖を押しのけて鏡に入ろうとした朝葉を、慌てて止める。

「嘘だよ。入るならあたしがやる。おまえは何が起こるかわかんねえからな」

「危なくないかしら」

「腕からちょっとずつ入れていって、ヤバそうだったらやめるよ」

 聖が右手を手刀の形にして構える。

「いくぞ」

 ピラニアの水槽から物を拾うように、慎重に、少しずつ手を差し入れる。ぴんと張ったガラスのような鏡面が、波紋も立てず、聖の腕を飲み込んでいく。それに合わせて、鏡の中から、差し込んだ長さと同じだけの腕が伸びてくる。伸びてきた腕が再び鏡に反射して映り込み、こちらから伸ばした腕がそのまま鏡の中に入り込んだように見える。そのさまは、まるで複雑なガラス細工の中をのぞき込むようだった。

 じわじわと肩まで入り込んだ聖が、鏡像の聖とにらみ合う。鏡から突き出た腕は、聖の身体を貫き、肩の後ろから飛び出している。

「身体が重なってるわ……」

 二つの身体が重なった部分は、どちらかの身体だけが見えるのではなく、二つの身体がちらちらと不規則に瞬いて見える。

「なんか、目がチカチカして、アレっぽいね……、あの、見る角度で絵が変わって見えるやつ」

「レンチキュラーね」

「うん。初めて聞いたけど、それ」

 二人の会話も聞こえないように、聖は鏡に映った自分を見つめたまま、じりじりと顔を近づけていく。腕と同じように片足を入り込ませ、いよいよ顔面を鏡に接触させた。

 聖の高い鼻が、鏡の中の鼻とぶつかる。目を見開いたまま、まつ毛、まぶた、それから瞳が、鏡の聖と混じり合った。

「どう……?」

「見えねえ。真っ暗だ……。いや、光が点滅してる」

 三つ編みを垂らした後頭部が、鏡の中の後頭部と合体して、奇妙な金色の塊と化している。重なった部分が、時々ちらちらと瞬いて見える。

「目が頭の内部に埋まってるから、見えないんだわ。そのまま、ちょっと進んだら見えるようになるはずよ」

「目の前でひっきりなしにフラッシュたかれてるみたいだ。気持ちわりい」

 聖がもう一歩踏み込むと、三つ編みの中から、鼻が浮き上がってきた。続いて、頬と額が盛り上がり、大きく見開いた二つの瞳が現れた。

 後頭部から人面瘡のように生えた顔が、きょろきょろと周囲を見回す。残った身体が鏡の中に飛び込むと同時に、鏡の中から姿形を丸写しにした聖が飛び出してきた。朝葉とつゆが身構える。

 現れた聖は二人と向かい合って立ち、無言でゆっくりと視線を動かす。二人は警戒しつつ、身を引き気味に構える。

 しばしの沈黙ののち、朝葉が口を開いた。

「えーと……、はじめまして……かな?」

 鏡から出てきた聖は、朝葉の顔をじっと見つめて、両手で顔をぺたぺたと触った。それから左右の頬を手のひらで挟み、ぐっと顔を近づける。

「朝葉だな」

「は……、はい」

 突然の呼びかけに、朝葉が上ずった声で答える。

「そっちは……、つゆだな」

 つゆは無言で眉間にしわを寄せる。聖は朝葉の顔を挟んだまま、ぐるりと周りを見渡した。

「てことは、これは同じバスだ」

「ひじりん……、ひじりん二号ですか?」

 聖が朝葉の頭に手刀を落とした。

「ばーか。一号だよ」

「戻ってきたの?」

「ああ。向こうに飛び込んだと思ったら、同じバスに戻ってきた」

 鏡の中には、もう一人の聖の後ろ姿が映っている。

「じゃー、あっちは?」

 朝葉が頭をさすりながら鏡の中を指差す。

「ただの一号の後ろ姿だろ」

「わたしたちから見たら、市井さんが鏡に入って、入れ替わりに鏡の市井さんが出てきたように見えたわ」

「試しに入ってみたらわかるぞ。鏡の向こう側なんて、ない」

 朝葉が身を乗り出すのを、つゆが止める。

「先にわたしが入るわ」

「そうだな。朝葉は展開が読めねえからやめとけ」

「えーっ。鏡の世界入りたかった」

「だからそんな世界ねえんだって」


 つゆが鏡の正面に立ち、右手を差し入れる。伸びてきた手に、左手で触れる。

「触られた感覚もある。間違いなく、わたしの手だわ」

「あーっ!」

 とつぜん、朝葉が叫んだ。

「なんだ、どうした」

「自分の手が伸びてくるなら、それで背中の手が届かないとこポリポリできるんじゃない?」

「背中向けたら手を突っ込めないわよ」

「くだらねえことで大声出すな」

 気を取り直して、つゆが鏡に半身を入れる。首を突っ込み、同じように周囲を見回したあと、すっと入り込んだ。

 入れ替わりで、鏡の中からつゆが現れる。そして、何かに気づいたように、自分の両腕を撫でた。

「そうよ……。鏡の像が現れるんだわ……」

「どうした?」

「さっき、鏡から出てきた市井さんを見た時、妙な違和感を感じたのよ。その理由が、これだった」

 つゆは二人に向かって、右手首につけた腕時計を見せた。二人は不思議そうに文字盤をのぞき込む。

 アナログの文字盤の上で、針は四時少し前を指している。

「狂ってるよ、時間」

 朝葉が言うと、すぐに聖が表情をこわばらせる。

「つゆ、この時計……」

 聖はつゆの顔をまじまじと見つめる。そして、自分の両手を見比べる。

「ん? なんか、この時計、変だね」

 朝葉も何かに気づいたように、文字盤に顔を近づける。その視線の先には、有名な時計メーカーのブランド名が、左右反転して刻印されている。

「あたしの顔、いつもと同じか?」

 聖が真剣な面持ちで朝葉を正面から見据える。

「えっ、いつもといっしょに見えるけど」

 朝葉が言い終わる前に、聖はハッとして自分の耳たぶを触る。

「ピアスが、右についてる」

 金色の小さなピアスが、聖の右の耳たぶに輝いていた。

「朝葉、すまん」

 耳たぶを押さえたまま、聖が自嘲気味に笑う。

「おまえが正解だった。やっぱりあたし……、二号だ」

 そう言った聖と、右手首をにぎったつゆを交互に見て、朝葉はようやく事態の異様さを理解した。


 一人の一号と、二人の二号が、今、無限に続くバスに閉じ込められ、抜け出す術もなく途方に暮れている。

 万華鏡のように三人を取り囲んだ虚実のきらめきは、その光学的迷宮の中に、既に三人を飲み込んでいたのだった。

 

 

 

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