ゆらめき

 村人に先導され、三人は長い岩の梯子の下にたどり着いた。スマホのライトを向けても、その頂上は見えない。

「結局、ここを登るのね……」

 つゆの弱々しいつぶやきをを聞いた朝葉が、村人に声をかける。朝葉の言葉が終わらないうちに、村人は出し抜けにつゆの前に立ち、くるりと背を向けたかと思うと、背側の二本の腕を伸ばし、おぶるようにつゆの尻を持ち上げた。とっさのことにバランスを崩したつゆが、村人の頭にしがみつく。

「スロブコおゆあメう」

「目が見えないって」

「ご、ごめんなさい……」

「こメロ、ヘポジえゾザほぅ」

「しっかりつかまっといて、だってよ」

「は、はい……」

 村人の腹側の二本の手が、岩に穿たれたくぼみをつかむ。吸盤が岩に貼り付くかすかな音が、つゆの耳にだけ聞こえた。途端に、つゆの身体が浮き上がる。昆虫が壁面を這い登るような身軽さで、六本の手足を器用に動かして、村人が梯子を登っていく。背中にくっついたつゆの身体が、荒馬を御するカウボーイのように、不安定に揺れる。

「わ、わ、わ、わ、わっ……」

 耳慣れないつゆの悲鳴が、あっという間に暗闇の中に遠ざかっていった。

 つゆの消えた梯子の先を、二人は唖然として見上げている。

「行っちゃった」

「あたしらは、自力で登れってか?」

 聖が岩のくぼみに手を掛けると、頭上から、吸盤を次々に吸いつけては剥がす小気味良い音が下ってきた。

 慌てて飛び退いた聖の目の前に、つゆを降ろしてきた村人が勢いよく飛び降りた、かと思うと、今度は聖を軽々と抱え上げ、背中に乗せ、再び梯子に手を掛けた。

 聖は無言で朝葉を振り返り、立てた二本の指を額の前で振った。朝葉は招き猫のように、力無く手を振り返す。

「うおぉっ」

 聖の唸り声が、闇に吸い込まれていく。朝葉は上げた手を下ろすのも忘れて、真っ暗な頭上を呆然と見上げていた。


 朝葉が階上に着くと、先に上がった二人を取り囲むように、村人たちの人だかりができていた。中心には村長がいるのが見える。

 朝葉は駆け寄って、村長に状況を尋ねる。

「残ってる人はほとんど集まれたみたい」

「残ってる、か」

「うん……」

 命からがら逃げてきたのであろう、傷ついた身体から黒い体液をこぼしている者もいる。群衆の向こうの暗闇から、時折うめき声が響いてくる。どれだけの村人が負傷し、倒れているのか、ここからではわからない。

「ほとんどってことは、逃げ切れてないやつもいるのか?」

「ヌパヅノさんが、見つからないって」

「あいつはスパイだから、向こう側についてるだろ」

「この村の人は、まだそのことを知らないんだわ」

 朝葉が村長にヌパヅノの正体を告げる。一瞬の沈黙のあと、村長がぽつりと答えた。

「ヌパヅノさんは……、上の村に娘さんが嫁いでるんだって」

「どっちの村の人間でもある……って、そういう意味もあったのね」

「くそっ……、なんだよ、何も言わねえで……」

 三人の頭に、ヌパヅノが去り際に残した言葉がよみがえっていた。

 ——神に人の心はわからない。

 行き場のない悲しみが、三人の胸を締め上げる。

「ぴデむ!」

 ふと、人混みから叫声が上がった。

「ぴデむ!」

「ぴデむぱ!」

 声は一気に群衆全体に波及し、耳が割れるほどのどよめきが三人を取り囲む。

「なんて言ってんだ?」

 朝葉が苦しそうに、顔をしかめる。

「神様……」

 か細い声は飛び交う大声にかき消される。しかし、唇の動きが二人にその意味を伝えた。

「みんな……、神様にすがってる……」

 村長が四本の腕を高く振り上げ、群衆を鎮まらせる。そして三人の前にうやうやしくひざまずき、言った。

「ぴデむぱ、タデパピもサぱこるン」

「神様、どうか……」

 朝葉が口ごもる。その肩に、聖が手を載せる。

「いいよ。言わなくてもわかる」

「うん……」

 三人は、群衆をかき分けて、スマホの明かりだけを頼りに、村の中をあてもなく歩いた。ここにはまだ敵の手が及んでおらず、日常の有様がほとんどそのまま残っていたが、逃走の混乱の中でいくつかの農機具は倒され、筵も踏み荒らされていた。

 うめき声の漏れるほら穴にライトを向けると、何人かの村人が横たわった姿が照らし出された。三人はすぐにライトを背ける。横たわった身体のいくつが息を続け、いくつが息を止めているのか、確かめる勇気はなかった。

「なんで、これ以上攻めてこねえんだ?」

 後ろを歩く村長に、朝葉が通訳する。

「いつ来てもおかしくないのに、なぜか追撃が止んでるみたい。神様の光を警戒してるのかもしれない、って言ってる」

「おまえの冗談が効いてるな」

「そうだね……」

 朝葉は苦笑いを噛み締める。

「けど、ここまでやっちまったんだ。連中も、もうあとには引けねえだろうな」

 光の届かない暗闇に、武器を持った襲撃者たちが潜んでいるのを想像して、三人の背筋に冷たいものが走る。

「ねえ」

 ふと、つゆが言う。

「相手が警戒してるうちに、試したいことがあるの」

 つゆの真剣な眼差しを見て、二人は無言でうなずき返す。

「高羽さん、温泉が流れてた洞窟を、少しだけ借りるって伝えて」

「うん、わかった」

 つゆは弱いライトを振り向けながら、昼間のほら穴を探す。もうもうと立ち昇る湯気と臭気のせいで、それはすぐに見つかった。


 穴に入ると、つゆはすぐに鞄から電子辞書とポケットティッシュ、リップクリーム、それから水着の入った袋からタオルを引っ張り出し、最後に朝葉の弁当箱から取った紙切れのような物を取り出し、地面に広げた。つゆの几帳面な性格の賜物であろう、傘の下で大事に抱えられていた鞄の中で、それらの持ち物はほとんど濡れずに残っていた。

「なにするつもりだ?」

 聖の声が聞こえないほど集中しているのか、無言のままつゆはスマホの明かりで手元を照らし、作業に取り掛かる。

 まず手に取ったのは、リップクリームだった。ティッシュを一枚抜き出し、乾いたノートの上に広げると、その表面にリップクリームを念入りに塗り込んでいった。それを軽く丸め、小さな玉にして、脇に置く。

 続いて朝葉の弁当箱から抜き出した銀色の紙片を、細い断片にちぎり分ける。

「朝葉、あれなんだ?」

「肉そぼろ弁当に使ってた、アルミホイルだよ」

 アルミホイルの断片を作ると、つゆは電子辞書から乾電池を取り出し、アルミホイルの隣に置いた。

「市井さん、傘を貸してくれない?」

「ん? いいけど、骨だけだぞ」

「いいの」

 つゆは聖から骨だけの傘を受け取ると、その先端にタオルを巻き付け、きつく縛って固定する。

「高羽さん、村長さんに、ネろンドの油を分けてもらえるか聞いて」

 洞窟の入口から様子をうかがっていた村長と朝葉が短い会話を交わす。

「いくらでも使っていいって」

「ありがとう」

 洞窟内の熱気、臭気、緊張と鬼気迫る集中力が、つゆの顔に、腕に、大粒の汗を光らせる。

 つゆは奥から油の溜まった器を一つ抱えてきて、傘の先端に巻き付けたタオルを、その中に浸した。引き抜いた傘から、澄んだ油がとろりと垂れる。

「つゆ、それって……」

 聖がつゆに問いかけた時、ふいに洞窟の外が騒がしくなった。村人の一人が穴の入口に駆け寄り、狼狽した様子で村長に告げる。

 村長が三人に呼びかける。朝葉が無言でうなずき返す。

「来たって」

「上の村のやつらか?」

「うん。村の入口に陣取ってる。いつでも攻めて来れるように……」

「こっちの村人には、戦う意志はあるのか?」

「わかんない……」

「どうすんだよ……」

「わたし、いやだよ……、みんな、死んじゃったら……」

「くそっ……、つゆ、どうする?」

 つゆは乾電池とアルミホイルを持って、何やら細かい作業に集中しているようだ。

「つゆ」

「待って。もう少し……」

 汗で濡れたメガネ越しに、つゆの見開かれた瞳が見える。

 穴の外で、村人たちが一斉にがなりたてる声が聞こえる。神々を呼ぶ声だ。今にも穴に雪崩れ込みそうになるのを、村長が必死に食い止める。

「姫、大丈夫……?」

「つゆ、何やってる……? もう限界だぞ」

 つゆは周囲の喧騒から完全に切り離されたように、黙々と作業を続ける。

 穴の外で悲鳴が上がる。

 同調するように、朝葉が叫ぶ。

「動き出した……!」

「朝葉、あたしらだけでも出るぞ!」


 その時、スマホの白い光の中に、ふと、あたたかな色のゆらめきが混じった。

「点いた……!」

 つゆの両手の中に、小さな炎が生まれていた。つゆは息つく間もなく骨だけになった傘を握る。先に巻いたタオルを、その種火に近づける。

 洞窟の中が、とつぜん明るくなった。

 つゆと、朝葉、聖、そして村長と村人たちの姿が、赤々と照らし出される。朝葉も、聖も、初めて炎を目にした獣のように、息を呑んだ。この世界で暮らす人々にとっても、それはまさしく神の起こした奇跡に違いなかった。

 つゆは片手に松明を掲げ、叫ぶ。

「道を、開けて!」

 朝葉が伝えるまでもなく、入口に群れていた群衆が、二つに割れた。

「高羽さん」

「うん」

「傘を広げて、この火を、できる限り雨から守って」

「わかった」

 朝葉が広げようとした傘を、聖が横からつかむ。

「おまえは周りの状況に集中しろ。言葉がわかるのはおまえだけだ。それに、あたしの方が背が高い」

 朝葉は唇を結んで、強くうなずいた。


 三人が、炎を掲げて、洞窟を出る。

 見慣れぬ光と、ただならぬ気配に警戒したのか、襲撃者たちは破壊の手を止め、松明の火に見入っている。

 つゆは炎を突き出し、言った。

「聞きなさい!」

 聖の怒声に比べればずいぶん可愛らしい響きだったが、燃え盛る炎に照らされた三人の威光は、村全体の動きを止めるのに充分だった。

「今すぐ武器をしまって、自分の村に、帰って!」

 ありったけの声を振り絞り、つゆが叫ぶ。

 朝葉も声を張り上げて、通訳する。しかし、何者も微動だにしない。

 それは神に抗おうとする意思ではなかった。これまで目にしたことのない異様な光に魅入られ、誰一人、動くことができなかった。

 つゆがさらに一歩前に出る。村人たちが、一斉に後ずさる。続けてもう一歩踏み出そうとした時、闇の奥から脅えたうめき声がした。

「ぴデトぉリ、ろヌすノわクパム……!」

 つゆが炎を向けると、襲撃者たちの中から転げ出るように逃げていく何者かの姿があった。

「ヌパヅノさんだ……」

「あいつは直接聞いてるからな。それだけビビってるんだ」

 ヌパヅノが逃げ出したのを皮切りに、襲撃者たちは一気に崩れた。言葉にならない悲鳴を上げながら、我先に闇の奥へと駆けていく。

「つゆ、行こう」

 つゆは気が昂ぶって声も出なかった。見開いた目を聖に向け、荒い呼吸をなんとか抑えて、うなずいた。

「朝葉、村長にバス停までの最短ルートを聞いてくれ。塞がれてた道が通れるようになってるはずだ」

 背後に控えていた村長の元に、朝葉が駆け寄って道順を尋ねる。

「つゆ、火はどのくらいもつ?」

「油が燃えてる間は、しばらくもつと思う。けど、雨だから、急いだ方がいいわ」

 つゆがかすれた声を絞り出す。

「道聞いてきた。壁は登れないから、ちょっと遠回りになるけど、迷うような道じゃなさそう」

「よし、急ごう」

 つゆが松明を低く構え、聖が高くかざした傘で雨をしのぐ。熱でビニールが溶けるのも時間の問題だろう。三人は不安定な体勢のまま、それでもできる限りの威厳を崩さないよう、胸を張って、足を踏み出した。

 ちらちらと背後を気にする朝葉に、聖が言う。

「朝葉、振り返るな」

「でも……」

「見ただろ。村長は、ずっと人だかりの中心にいた。炎を見ても、村人たちを背中に隠して、最前列に立ってた。この村は、きっと大丈夫だ」

「うん……、そうだね」

 スマホのライトで照らすよりも、松明の火ははるかに明るかった。暗闇のせいでおぼつかなかった足元も、一歩一歩、しっかりと踏み締めて歩くことができた。

 村のあちこちに、倒れた村人の姿があった。炎を向けても、起き上がることはない。噴き上がりそうな感情に蓋をして、三人はひたすら歩いた。

 滝を避け、坂道や石の階段を何度も登り、三人は上の村に入り込んでいった。襲撃者の姿はなかった。ヌパヅノが広めた破壊兵器の噂が、人々を穴にこもらせているのかもしれない。

 三人は言葉もなく、朝葉の先導で、バス停への道を着実に登って行った。村は、不気味なほど静かだった。


 上の村の中心部に踏み込んだ時、三人は荒れ果てた村の様子を見た。下の村とはまるで似つかない、荒廃した村の姿がそこにあった。

「なにこれ……」

「戦うことしか考えてなかったんだな」

「ねえ、見て」

 つゆの視線の先を見ると、壁の穴の中に、松明の火を反射する小さな点が無数に並んでいた。

「上の人たちだ」

「ひと気がないと思ったら、こっちでも集まってたのか」

「襲撃してきたのは、一部の村人だったのね」

 たくさんの視線に警戒しながら、三人は村の中心を横切っていく。この先に、目指すバス停があるはずだった。雨が弱まっているせいか、炎はまだ煌々と燃えている。その光の先に、何かの影が動いた。

 村人たちが、次々と、穴から歩み出ていた。炎からは一定の距離を置き、岩壁の前に立ち並ぶ。

「え、なに……?」

 聖がつゆに目配せをする。つゆは松明を大きく振って牽制する。

 しかし村人たちは、それ以上三人に近づくことはなかった。まぶしそうに顔を背けながら、一人ずつ、示し合わせたように、ひざまずいていく。

 村人の作った神の通り道を、三人は無言で歩いた。言い知れぬ感情が、彼女らの心に満ちていた。それでも、いつまでも、何も言わず、ただ歩いた。

 村の外れに着くと、ゆらめく炎に照らし出されて、灰色の構造物がぽつりと立っていた。近づいて見るまでもなく、それはバス停の標識だった。下の村にあった物と同じように、表面を石灰質の被膜が覆っていたが、それよりも赤い錆が全体を包んでいた。

 振り返ると、三人の後を追うように、村人たちが集まりはじめている。つゆは群衆に向けて、ゆっくりと松明の炎を振って見せた。再び、村人たちはその場にうずくまる。

 と、そこへ、三人の背後から強烈な光が照らした。まばゆい光を浴びて、村人たちの姿が真昼のように浮かび上がる。

 バスは、三人の少し後ろに停車した。

 聖が傘をたたみ、つゆは松明を下ろす。水たまりの上で、炎の消える音がした。

 バスの扉が開く。

「乗るぞ」

「ええ」

 聖が、乗り口に踏み込む。つゆが、それに続く。

「おい、朝葉、なにやってんだ。急げ」

 バスの横に立ち、朝葉がいつまでも光に照らされた群衆を見つめている。

「早く乗れ、出るぞ」

「うん」

 それでも、朝葉は動かない。聖がバスを降り、朝葉の腕をつかむ。荒れ果てた村を背に、村人たちが、すがるように、神々とその乗り物を見つめていた。

 聖がその手を引いた時、大きく息を吸い込むように、朝葉の口が、開いた。

「ぴデむえ……、ボむのぽぬ、ホケまれジ!」

 朝葉が、村人たちに叫ぶ。

「ボむのむボむのぽぬ、ナニげとホケまれジ……!」

 バスの扉が閉まるブザーが鳴る。聖が朝葉を無理やり引っ張り込む。

 扉が閉まるのと同時に、滝のような雨が、四方からバスを包んだ。すぐ目の前にいるはずの村人たちも、雨のカーテンの向こうに見えなくなる。そして、ゆっくりと、バスは発車した。


 いつもの席に、三人が座っている。バスの外には、この世の物とは思えないような豪雨が降り注いでいる。

「疲れたな」

「ええ……。二人は、着替えた方がいいわね」

「ああ。もうちょっとしたら上から制服着る」

 あらゆる思考が、疲労に流されていくようだった。三人とも、ぼんやりと虚空を見つめている。

「タオル、焦げちまったな」

「いいわ、このくらい。市井さんも、傘が骨になったわね」

「朝葉の傘も、溶けちまった」

 朝葉は一人黙ったまま、何も喋ろうとしない。

「つゆ、火、どうやって起こしたんだ?」

「乾電池の両極にアルミホイルを付けたら、熱されて火種になるって、前に何かで見たのよ」

「リップクリームは?」

「成分が蝋燭と同じような物だから、蝋燭代わりにしたの。アルミホイルの発火じゃ、松明に移すには小さすぎるから」

「へえ……。あとは、あれだな、なんだっけか、あの油を松明に染み込ませて」

「ええ。昔は日本でも魚の油を明かりの燃料にしてたらしいわ。ネろンドが魚かどうかは知らないけど……」

「そうか……」

 聖は話し疲れたように、言葉を切った。再び無言の時間が車内を満たす。ばらばらと天井を叩く雨音が、三人の頭に今日一日の情景を目まぐるしくよみがえらせる。

「本物の、女神みたいだったぞ。つゆが、松明持ってるとこ」

 呆けていたつゆが、とつぜんの言葉に、思わず姿勢を正す。

「写真に撮っとけばよかったよ」

「そ、そうかしら……」

 つゆは思う。

 少しは、二人に報いることができただろうか。松明を掲げ先導する自分の後ろ姿は、少しでも、あの時の二人の後ろ姿に、近づくことができただろうか。

 つゆは二人の様子をちらりと見た。いつもと変わらぬ、親友たちの横顔が、そこにあった。とりあえず、今はこれでいい。そう、つゆは思った。

「写真、残ってんのか?」

 つゆは思い出したようにスマホを取り出す。

「だめ……。あそこで撮った写真だけ、一枚残らず消えてるわ」

「そんなもんだよな」

「残さなくて、よかったのかもしれないわね……」

「なんで、そう思うんだ?」

「なんとなく、だけど……」

「朝葉のハロウィン写真だけは、もう一回見たかったけどな」

 いつもなら威勢よく話に突っ込んでくるはずの朝葉が、ずっと無言のままでいる。

「朝葉、大丈夫か?」

「えっ? あ……、なに?」

 急に話しかけられた朝葉が、慌てて顔を上げる。

「高羽さん、最後に、なんて言ったの?」

「え、うん……」

「教えて」

「なんか、恥ずかしいし……」

「言えよ」

 朝葉は少しためらって、言った。

「神も人も、変わらない。人と人は、もっと変わらない」

「なんだそれ、どういう意味だ?」

「わかんない」

 くたびれていた聖の顔が、穏やかに緩んだ。

「ま、おまえらしいのかもな」

「ヌパヅノさんにも、聞こえたかしら……」

 バスは走っているのか止まっているのかもわからない濁流の中を進む。まだあの垂直の世界にいるのか、既に見慣れた世界に戻ってきたのか、バスのアナウンスは何も告げることはない。

「一限、なんだっけな」

「英語よ」

「英語か……。サボってもいいかな」

「任せるわ」

「まだ夜の気分だよ」

「時差ボケみたいな感じね」

「朝葉、おまえ、どうする? あたしは部室で寝る」

「え……? んー、教室で寝る」

「つゆは大丈夫か? あと一人くらい、部室で寝れるぞ。英語なら、授業聞かなくてもいけるだろ」

「わたしは……」

 雨音が、急に弱まった。

 車内を照らしていた青白い蛍光が、朝の純白の光に変わった。窓から見える景色が、見慣れた風景に変わる。

「やべえ……、服着なきゃ。おい、朝葉も着ろよ。水着でバス乗ってんのは、さすがに神様でも許されねえぞ」


 バスを降りると、雨はあがっていた。

 海のように、地面全体がきらきらと朝の光を反射している。濡れた石畳を踏むたびに、瑞々しい足音が鳴った。

 何の変哲もない一日のはじまりを見て、ようやく朝葉の表情にもあたたかな光が差した。思い出したように、大きなあくびをする。それを見た聖も、猫のように顔をしかめてあくびをした。

 つゆが立ち止まり、ボロボロになったタオルを絞る。染みた油は、いつの間にか水に変わっていた。ぽたぽたと落ちた雫が、水たまりに小さな波紋を広げる。つゆは前を行く二人の背中を追うように、小走りで駆けていった。

 三人の姿が消えたあとの水たまりに、走りゆくバスの青色が映った。

 どこからか、この夏初めての、蝉の声が聞こえた。

 

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る