上と下

 会合が終わる頃には、外は再び滝のような雨に変わっていた。あるいは、まさに滝そのものが忽然と現れたのかもしれなかった。

 村長らは入口へ先回りし、穴の外に並んで神々を見送る準備をする。

「おっ、形変わってるな」

 見ると傘のように広がっていた村長らの頭が、初めに遭遇した時のように尖った形状に変わっていた。

「滝の水圧を軽減するために、先を尖らせてるんだわ」

「わたしたちの傘と同じだね。開いたり、閉じたり」

 折り畳み傘を開くつゆを見ながら、朝葉が言う。

「ずっと尖らせときゃいいのにな。なんでわざわざ広げるんだ」

「背を低くすることのメリットはあるんじゃないかしら。そのぶん、ほら穴を高く削らなくて済むし、広げることで太陽光を効率よく浴びたりとか、傘の内部の風通しをよくするとか……。あるいは、単純に雨傘としての機能もあるのかもしれないわね」

「つゆも傘をちょっとすぼめとけば、滝をくぐりやすくなるんじゃねえの?」

「折り畳み傘はちょっとすぼめれないわよ」

 穴の前で、朝葉と村長がまた言葉を交わす。朝葉は滝に打たれながら、遠くを指差してしきりに何かを確認していたが、やがて滝の中から二人に手招きをした。

「なんか呼んでるし、行くか」

「ええ」

 三人が穴を出る時、村長と村人たちはまたひざまずいて見送った。滝の中を駆け足で穴から離れ、振り返った時、村人たちはまだ同じ体勢のままじっとしていた。

「朝葉、どこに向かってんだ?」

 轟音の中、聖が叫ぶ。

「大丈夫、ついてきて!」

 しばらく走ると、朝葉は掘りかけの横穴に滑り込んだ。二人もそれに続く。長い金髪から小さな滝を落としながら、聖が「雨宿りか?」と尋ねる。つゆは既に胸から下が残らずびしょ濡れになり、なす術もなく立ち尽くしている。

「雨宿りっていうか、宿だよ」

「は?」

「この世界、まだいつ出れるかわかんないじゃん。だから、村長さんに頼んで、宿代わりに使える穴を一つ貸してもらったんだ」

 その穴の内部には生活を匂わせる物は何一つなく、掘削途中の段階を色濃く感じさせる泥臭い工具の類が散らばっている。

「神の住まいにしちゃ、ずいぶん雑然としてるな」

「村長さん的には、ちゃんと整えるまで待ってて欲しいっぽかったけど、別にいいよね?」

「ああ、全然問題なし」

「高羽さん、気が利くわね」

「おまえのその妙な行動力はどっからくるんだろうな」

「えへ。ちゃんと通訳できてるでしょ?」

「通訳関係ねえっつーか、現地のガイドだな。宿まで手配して」

「ガイドとして付け足すと、あとで食事も持ってきてくれるらしいよ」

「……食事?」

 二人の顔が急に曇る。

「おまえ……、ガイドなら、当然、メニューも聞いたんだろうな?」

「肉よりは、魚だろうね。水がいっぱいあるし」

「肉でも魚でもなかったら?」

「え、なに、それ以外の選択肢、ある?」

 聖が首を振りため息をつく。

「いや……、まあ、いい」

「高羽さん、今日はお弁当は持ってきてるの?」

「うん、一応あるけど、三人がお腹いっぱいになるほどの量はないよ」

 そうよね、と言いながら、つゆも考え込むようにうつむく。

「ま、出てきてから考えるしかねえか」

「まだ帰りのバス停の手がかりさえつかめてないし、食事の心配はしておいた方がいいわね」

 既に時刻も正午に差しかかろうとしていた。雨のベールが厚く垂れているせいか、空の色にはまるで変化もない。相変わらず垂直の空は奥行きのない乳白色の平面を広げたままだった。

「けど、神様に飯とか宿とか用意するってのも、よくわかんねえ距離感だよな」

「村長さんの話だと、この村にバスや人間が現れたこと自体初めてみたいだし、神様への接し方なんてわからないんでしょうね。身近なお客さんをもてなすようにしか、できないのかも」

「精いっぱい歓迎してくれてるんだろうな」

「ずいぶん信心深いようだし、きっと、そうだと思うわ」

 朝葉もしきりにうなずいている。

「うんうん、話した感じも、ほんと純粋に神様に助けを求めてる雰囲気だったよ」

「そこだよな、問題は」

「ええ、一筋縄ではいかなそうだわ」

 三人は先ほど聞いた村長の話を脳裏に反芻していた。それは三人の表情に暗鬱な影を落とす。誰一人、気の利いた言葉を継げる者はいなかった。

「とりあえず、先にリュックの中の濡れたもん出しとくか。カビそうだし」

「制服も干しとこうよ。その辺に落ちてる縄とか使ってさ」

「つゆも脱いだらどうだ?」

「わたしは……このままでいいわ。神様としての威厳を保つためにも」

 聖と朝葉は落ちていた縄を削りかけの壁面に引っかけ、濡れた服を掛ける。つゆも鞄から濡れた物を取り出し、地面に敷いたハンカチの上に並べた。

「よし、じゃあ、朝葉が覚えてるうちに、話を整理しとくか」

 三人は輪になって、固い地面に尻をつける。朝葉がひとつずつ、思い出しながら話しはじめた。


「ええと、最初から話したらいい?」

「同時通訳が漏れてたところもあるかもしれないし、高羽さんの記憶を頼りに、初めから順を追って振り返ってみましょう」

「まずは、村の人たちの自己紹介だったよ。これは通訳してなかったと思うけど、名前は確か……、村長さんがパオ……パダ……だったかな。他の人が、ダブ……ええと、デロ……なんとか……メゴ……なんだったかな」

「つまり、覚えてないんだな」

「はい!」

「案内してくれた人はヌパヅノさんだったわね」

「そんな名前だったな」

「まあ、わたしたちには馴染みのない響きだし、覚えられないのも無理はないわ。話を進めましょう」

「うん、それから、話はすぐ本題に入ったよ」

「問題の……村同士の対立の話だな」

「そう。前の村長さんが死んじゃって、次の村長を決める時に揉めたみたいだね」

「派閥があったのよね。今の村長派と、もうひとつ」

「ああ。そのもう一個の派閥が、今の村長を受け入れられずに、元の村の上半分を強引に分割する形で別の村を作った、と」

「そう、それだけなら、村が二つになるだけだったけど、それから上の村が何かと圧力かけてくるから困ってるってことだったね」

「滝の話もしてたよな?」

「うん、上の村が、水を堰き止めたり、嫌がらせのようにドバッと流したりするみたいだね」

「水田らしきものもあったし、少なからず影響も出るでしょうね」

「さっきいきなり滝が現れたのも、上のやつらの仕業だろうな」

「他にもいろいろ嫌がらせしてくるって言ってたよ」

「そうね。けれど、一番の問題は……」

 会話が、一瞬途切れる。互いが息を呑む音が聞こえるようだった。

 そして聖が、確かめるように言った。

「上の村が、戦争を準備してる」

 轟音が、言葉の消えた三人を包む。しばしの沈黙のあと、つゆが言葉を継いだ。

「さらに悪いことに、わたしたちの探してるバス停は、上の村にある……」

 再び、沈黙。

 いつもは能天気な朝葉も、さすがに神妙な面持ちだ。

「でも、場所だけでもわかって、よかったじゃん」

「空の向こうにあるよりは、マシか……」

「村をつなぐ道は、一箇所をのぞいて全部上の村に塞がれてるって言ってたわね」

「その一箇所も、見張りがいて自由に通り抜けもできねえときた」

 干した制服から、ぽた、ぽたと、雫が垂れる。その音は、滝のさざめきに掻き消される。

「朝葉にがんばってもらうか? 見張りとの交渉」

「いざとなったらやるけど、交渉する材料、ある……?」

「厳しいか……。夜だったら、バレずに通り抜けれねえかな」

「あとで見に行ってみようか」

「まだわたしたちの存在は上の村には知られてないのよね? 下手に姿を見せない方がいいと思うわ」

「それか、どうにかして見張りをやっちまうか」

「あるいは攻めてきた時に、混乱に乗じて侵入するとか……」

「何にしても、危ねえな……」

 その時、穴の入口に二つの影が現れた。

「ネペぇメ、どゥらマよペレ」

 言葉がわからない二人も、訪問者の出で立ちから、その用件を立ち所に理解した。


 神々を前に入口でまごつく訪問者に、朝葉が立ち上がり声を掛ける。二人の訪問者はそれぞれが細い葉を編んで作った大きな皿を抱えている。やがて訪問者たちはやるべき仕事を終え、おずおずと洞窟を後にした。そうして三人の前に、見慣れない食材が山盛りの大皿が二つ残された。

「さて、いただきます……、というわけにはいかねえよな」

「失礼だけど、想像していたより、ちゃんと料理らしい見た目だわ。ただ……、見たことのある食材が一つもないわね」

「結構おいしそうじゃない?」

 朝葉が、大皿の一つから木の実のような楕円形の食材をつまみ上げる。

「わっ、なんかの実かと思ったら、予想外の手触りだ、これ」

 つゆも同じ物を手に取る。

「これは……、すごいわね。似た触り心地の物が思い浮かばないわ」

「なんていうか、ちっちゃい紙風船みたいだね。スカスカで、触っても手応えがなくてぺしゃんこになるみたいな」

「それでいて、ちゃんと弾力もあるわ」

「朝葉、食べてみろよ」

「え? いいけど」

 朝葉は何のためらいもなくその小さな食べ物を口に放り込む。

「ヤバい。なんだこれ、ヤバいしか出てこない」

「味は?」

「なんだろ、似てる味思いつかない。でもまずくはない」

「それは、おまえがこの世界に適応してるから食えるのか? それとも普通に食えるのか?」

「わかんないよ。ただ、クセになりそう」

 朝葉はそう言って、一つ、二つとまた口に入れた。ついには両手で鷲づかみにして頬張りはじめた。聖とつゆが、その様子をボロボロになった畑のカカシのような顔で見ている。

「こ、このお刺身みたいな物は何かしら」

 つゆがもう一方の大皿の大部分を占める半透明な物体を指差した。

「パッと見、刺身だな。ただ、なんつうか、見たことないな」

「肉の繊維が見えないわね。ゼリーみたい」

「タレっぽいのがかかってるな」

「何かしら、油分の多いドレッシングみたいね。すごく……独特な匂いだわ。生臭いというか」

「やっぱ火がないんじゃねえか? 肉も野菜も全部生で食ってるのかもな。とりあえず、朝葉いっといたら?」

「大丈夫かしら。生肉は危ない気がするけど」

「まあ、確かに……そうだな。あたしの生物としての本能も必死に抵抗してる」

 朝葉は二人の会話も聞かず、肉らしきゼリー状の物体をつまんで、指で硬さを確かめている。

「ほんと? 一番にいっていい?」

「え? お、おう……」

 朝葉が半透明の切れ端を一つ口に入れる。途端に、その表情が弾けた。

「これ……!」

 自分の口と皿を交互に指差しながら、朝葉が二人に意味深な目配せをする。

「なに……? わたしたちも食べろってこと?」

「つゆ、やめとけ。たぶん、こいつもう、半分以上こっちの住人だぞ」

「そ、そうね……」

 朝葉が二人にもわかるほど大きく身震いする。

「これ……、これ……!」

「おまえ、さっきからこれしか言ってねえぞ」

 朝葉が大げさに首を振り、とつぜん立ち上がって、叫んだ。

「なんだこれあああ!」

 二人が呆然と見上げる。

「ついに狂ったか」

「麻薬的な成分が入ってるのかしら……」

「いや、いやいや、ちょっとマジで、二人、お二人さん! 食べてみてみて!」

 目を血走らせた朝葉とは対照的に、聖とつゆの表情は冷めたものだ。

「姫、ちょっと一切れ、いってみてよ! なんかあったらわたし、責任取るから!」

「つゆ、死んだら責任もクソもねえからな」

 責任。

 まるで取り合わない聖の横で、しかし、つゆは思わぬ逡巡に襲われていた。つゆの脳裏によぎったもの、それは、この世界に来たばかりに入った洞窟で、未知の来訪者を前にして、つゆの前に立ちはだかった二人の親友の後ろ姿だった。

 責任とは。

 つゆは常々、知識を武器だと思っていた。体力もなく、容姿も人並みの自分にも、知恵が何かを与えてくれると信じていた。

 しかし、見るものすべてが未知である世界で、自分の知識は何かの足しになっているだろうか。聖は身体能力と統率力に加え、類まれな勇敢さがある。朝葉は向こう見ずなほどの行動力と、持ち前の素直さから顕現した異形の適応力がある。

 目の前の食べ物が、食べられるか、食べられないか。既に朝葉が食べている。苦しむ様子はない。問題はシンプルだ。解法はいくつある? 食事の心配をすべきだと言ったのは、自分だったのではないか?

 守られてばかりの自分に、守ってくれる親友たちに、おまえは、このまま甘えてどこまでいくつもりなのか。

「市井さん、もしわたしが死んだら、この眼鏡を、形見にもらってくれる?」

「……何言ってんだ?」

 つゆは、半透明な肉状の物を、何切れかまとめて口に突っ込んだ。

「これは……」

「おい、大丈夫か?」

 つゆはゆっくりと、味わうように咀嚼する。

「おいしい」

「でしょー!」

 朝葉が後ろからつゆに抱きつく。

「食感は、マグロの赤身を、もう少し滑らかにした感じだわ。この生臭いタレも口に入れると肉と絡み合って、すごく複雑で、濃厚な味わい……」

「でしょでしょ」

「恐らく何かの生肉だとは思うけど、こんな食感の肉、食べたことないわ……」

 つゆが確かめるように、もう一つ食べる。聖も、明らかに怪訝そうな顔つきで、一切れ口に入れる。

「ああ、確かに……、食える。食い慣れた味じゃねえけど、うまいと言えなくもない」

「不思議な味だわ。ただ……」

「ただ?」

「高羽さんと同じ味を感じているかどうかは、わからないわ。飛び上がるほど衝撃的な味ではないわよね?」

「だな。正気を失うほどではない」

「うっそ……、わたし、正気失ってる?」

 つゆに絡みついていた朝葉が、慌てて座り直した。

「おまえ、味覚も完全にこっち寄りになってんだな」

「けど、よかったわね。まだ様子見てみないと断言はできないけど、食事の心配はしなくていいかもしれない」

「神様でよかった」

「でも、よく食べたな、つゆ」

「確率が高い方に賭けただけよ。先に高羽さんが食べてたし、この世界でもわざわざ毒のある物は食べないでしょうし」

「こっちの世界では毒じゃなくても、あたしらには毒の可能性もあるんじゃねえか?」

「そこは……」

 最後の一押しは、あなたたちの後ろ姿だった、とは言わなかった。

「……まあ、本当に賭けだったわね」

「なんにしても、つゆが食ってくれてよかったよ。あたしは完全にビビってたから」

 少しぐらいは、自分も報いることができただろうか。つゆは考える。いや、まだ足りない。二人があの後ろ姿に賭けたものに、わたしはまだ届いていない。

「お弁当も、食べちゃおっか。この気温だと、夜まで置いとくのは怖いし」

 朝葉はリュックから弁当箱を取り出し、蓋を開ける。

「肉そぼろ弁当です」

「うまそうだな。ちょっとつまんでもいいか?」

「どんどん食べて」

 一膳しかない箸を回しながら、三人で肉そぼろ弁当をつつく。

「最高だな。箸じゃ食いにくいけど」

「やっぱり、これね。安心する味だわ」

「そう? 地味なもんですが、そう言っていただけると……」

 朝葉も最後に箸をつける。

「まずっ」

「ん?」

「なにこれ、味しないじゃん……。っていうか、ビニールしゃぶってるような味?」

「味覚が変わってるんだわ……」

「いいよ、いいよ、無理すんな。これはあたしらに任せとけ」

 聖がさもうまそうに白米を頬張る。朝葉は口直しと言わんばかりに半透明の肉にがっついている。

「食事が終わったら、現地調査を進めましょうか」

「ああ、やっぱり見張りのいる道も偵察しといた方がいいんじゃねえかな」

「見つからないように偵察する方法を考えなきゃいけないわね」

「だな。腹が膨れたらさっそく動こう」

 三人は、これから起こるかもしれない未知の事態に備えて、エネルギーを充填するように、黙々と食べ続けた。縄に掛けた制服はまだ雫を落としていたが、三つの若い身体から発散される体温は、その皮膚にぴたりと張り付いた着衣を驚くべき速さで乾かしていった。

 

 

 

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