第三話 土砂降りフォーリンスカイ

「だからさー、雨が降ってるんだよ。わかるでしょ?」

 雨が降っている。

「いや、わかんねえ」

「霧とか雪とかじゃなくて、雨なんだよ?」

 バスを全方位から取り囲んでいるのは、滝の下に入ったような、土砂降りの雨だ。

「例えば霧だったらさ、どこから何が現れるかわかんないドキドキ感があるでしょ?」

「そうかな」

「雪だったら、白く積もった雪の上に、ぽたぽたと鮮やかな血痕が残ったりするんだよ」

「それで?」

「大雨だと、なんかさー、全部流れちゃうんだよね。ゾンビだって、ちょっときれいになりそうじゃん? それに髪とか服とかびしょびしょになってさ、あーもうパンツまでずぶ濡れで最悪! って気分が、モンスターの怖さを打ち消しちゃうと思うんだ」

 大雨の中を進むバスの中で、朝葉と聖が話している。と言っても、しゃべっているのはほとんど朝葉だ。聖は適当に相槌を打ちながら聞き流している。いつもの朝の光景だ。

「ひじりんも絶対思うって。モンスターはいいから早くシャワー浴びさせてくれ! ……ってね」

「おまえ、そんなにシャワー好きだったっけ」

「いや、だからそういう極限状態の話だよ」

「大雨は別に極限状態じゃねえだろ」

「ちがうちがう。極限はどうでもいいんだって。ゾンビとシャワーの話だよ」

「で、結局、何が言いたいんだ?」

「だからさ」

 車体を叩く雨音は、ますます激しくなる。

「えーと、何が言いたいんだっけ?」

「知らねえよ」

「とにかく」

 聖の座る座席に身を乗り出したまま、朝葉は窓の外を見た。

「雨は憂鬱……って話」

 バスが停車する。

 茶色のチェック柄の折りたたみ傘を仕舞いながら、つゆが乗ってきた。

「あたしは嫌いじゃないけどな、雨。六月生まれだし」

 つゆは二人と軽い挨拶を交わすと、聖と通路向かいの席に座った。スカートの生地に弾かれた雨粒が、ひだをなぞるようにいくつも転がっていく。

「ねえ、姫は雨好き?」

「別に、嫌いじゃないわ」

「大雨だよ? ゾンビが洗濯されるくらいの」

「ゾンビが水浴びしてたら雨どころじゃないわね」

「そうじゃなくて、ゲームの話だって。……ん、ゲームの話? 雨の話? どっちだ?」

 つゆはハンカチを取り出して、濡れた制服を拭っている。

「それで、雨がどうしたの」

「どうしたんだっけ?」

「雨が嫌いって話だろ」

「梅雨なんだし、雨くらい降るでしょ」

 薄暗いバスに、くぐもった雨音が響く。いつもと変わらず乗客の少ない車内が、雨のせいでいっそうひっそりとして見える。

「そういや、つゆはなんでつゆって名付けられたんだ? 梅雨生まれでもねえのに」

「その梅雨じゃなくて、夜露とか、そういう水滴の方の露だって聞いたわ」

「平仮名なのがかわいいよね」

「漢字だったら字面が物々しいと思ったんじゃないかしら」

「あー、漢字で九頭竜露か。ミミズの化け物くらい簡単に轢き殺せそうだ」

「轢き殺す……?」

「けど、つゆらしくて、いい響きだな」

「そう、思い浮かぶね……。木漏れ日の下で、きらきらと光る葉っぱの上に、ちょこんと乗った一滴の露……。きっとそんな赤ちゃんだったんだよ」

 つゆは思いがけず、照れ臭そうに、ありがとう、と言った。

「ぷるぷる震える透明な露……。今頃、何してるんだろうね、スライムたちは」

「なんでスライムが出てくるのかしら」

 つゆの顔が途端に曇る。

「ごめんごめん、ただの連想だって」

「嫌な連想するわね……」

 つゆは露骨に肩を落として小さなため息を漏らした。頭の後ろで指を組んだ聖が、ぼんやりと虚空を見つめながら答える。

「スライムも、ミミズも、あそこでずっと、食ったり食われたりしてるんだろうな」

「橋、まだ架かってるかな。わたしたちの力作」

「どうだろうな。ま、できることなら二度と行きたくはねえけど」

 つゆが窓の外を見る。

「それにしても、すごい雨ね」

 消防車に取り囲まれて集中放水されているような、数メートル先も見えないほどの強烈な大雨である。

「梅雨とは言え、降りすぎだろ」

「プールあるかなあ」

「さすがにこの雨じゃ、無理じゃねえの」

「えーっ、どっちみち濡れるからいっしょじゃん」

「雨の日は水温が上がらないから、寒いわよ」

「プール開きが中止とか、ある?」

「まあ、仕方ねえだろ」

「せっかく着てきたのに……」

「着てきたって、水着をか?」

「うん……」

「おまえ、小学生じゃねえんだから……」

 機関銃のような音が、バスの屋根を叩く。

 つゆは腕時計を見る。そろそろ学校前に着いてもいい頃だ。何人かいたはずの他の乗客も、いつの間にかみな降りている。

「次は……、……です。お降りの方は、お忘れ……ないよう……」

 バスのアナウンスが乱れがちに伝える。

「雨のせいで、電波が途切れてんのか?」

「録音でしょ。電波は関係ないはずだわ」

「次、学校だよな。全然見えねえけど」

「バス停の順番からしたら、そうね」

 動いているか止まっているかもわからない景色の中で、どうやらバスは停車したようだった。三人は不安げに立ち上がり、降り口へと向かう。先頭で降りかけた聖が、途中でふと立ち止まる。

「見てみろよ、あれ」

 視線の先には、無表情の運転手がマネキンのようにハンドルを握ったまま静止している。

「くそっ、嫌な予感しかしねえ」


 滝をくぐるような土砂降りの中に、三人は続けて降りたった。バスはすぐに動き出し、水煙に消えた。

「これ、ヤバいな。学校、どっちだ?」

 大粒の雨滴がばらばらと傘を叩く音が、話し声も掻き消してしまう。雨というよりは、濁流に飛び込んだような強烈な水流が三人に容赦なく降り注ぐ。風景は飛沫と靄に包まれ、数メートル先も見えない。

「なんか変な感じだわ……。学校、あるのかしら……」

「ねえ、これなんだろ」

 朝葉がぼそりとつぶやく。

「何か言ったか? 全然聞こえねえ」

「こんなの、あったっけ?」

 朝葉の横に、茶色っぽい何かが立っている。細い軸の上に、丸い頭のような物が乗り、軸の途中にも膨らんだ部分がある。

「人間……じゃねえよな」

「生き物じゃないわ。オブジェみたい……。これは……、錆かしら」

 つゆがその物体に触れる。人の背丈ほどのその構造物は、全体が灰色と赤茶色の斑模様で、根元は地面から山のように盛り上がっている。

「茶色い部分は錆みたいだけど、全体的には岩っぽい質感ね」

「この形、見覚えあるんだけど……」

 朝葉がビニール傘の下に身を縮めながら言う。

「ここって、バス停だよね。それなら、これってさ……」

「……バス停の、標識だわ」

 細い支柱と、停留所名が印字されていたはずの丸い鉄板、それから路線図と時刻表が掲示されていたであろう長方形の胴体部分、それらすべてがくすんだ石灰質と赤黒い錆に覆われている。原型を留めているのは輪郭ぐらいで、確かに形状はバス停の標識と変わりない。

「バス停の形した石か?」

「ところどころ錆が露出してるし、きっとバス停の標識そのものよ」

 声を張り上げて会話する三人の上に、猛烈な豪雨が途切れることなく降り注ぐ。傘を差していても、既に彼女らの下半身には雨水が染みている。

「この分じゃ、また学校もなさそうだな……」

「それにこの雨、異常だわ」

「とりあえず、どっか雨よけれるとこ探すぞ」

 三人はもうもうと立ち上がる水煙の中で方角も見失い、ただ闇雲に走った。

 しばらくあてもなく進んでいると、とつぜん屋根の下に入ったように雨が弱まった。

 先頭にいた聖は立ち止まって振り返る。急に収まった雨脚に、きょとんとして見回す二人がいる。その向こうに、聖はたった今くぐり抜けてきた、強烈な豪雨の正体を見た。

「雨じゃ……ねえじゃん」

 それは、滝だった。

 まるで滝のような雨だと思っていた流水は、宙空から流れ落ちる、巨大な瀑布だった。

「なにこれ、すっごいピンポイントのゲリラ豪雨?」

 朝葉とつゆも、同じように落ちてくる水の流れを見上げている。

「滝だわ……」

 暴力的な水飛沫を抜け出した三人の前に現れたのは、しかし、滝だけではなかった。

「なんだ、ここは……」

 まるで自分の視界が九十度傾いたかのように、右側に広がる何もない垂直の空、そして左側にそびえていたのは、同じように垂直に切り立った地平だった。

「また……、崖か?」

「崖とは少し雰囲気が違うわ……。段々に整地されてるみたい。勾配が極端すぎるけれど……」

 弱まった雨の向こうに、崖から削り出したような階段状の地形が霞んでいる。ほとんど垂直に見えるその地平のところどころに、大小様々の滝が流れ落ちているのが見える。

「こっち側、すごいね……。ほんとに、何もない、白い空……」

 垂直な地表の対面は、牛乳を流したように白一色の空間だった。果たしてそれを空と呼ぶべきかもわからなかったが、向かいに直立した大地との対比によって、その白い虚空はまさに空と呼ぶにふさわしい物に思えた。

「学校なんて欠片もねえじゃん……」

「また迷い込んでしまったみたいね……」

「次はわたし、何になるのかな……。滝……?」

 小さな茶色の傘と、二つのビニール傘が、巨大な滝の前に並んで立ち尽くしている。三つの傘は、やがてとぼとぼと、滝を背にして歩きはじめた。

 誰一人、どこへ向かえばいいのかもわからなかった。ただ一つ、彼女らにできることは、帰りのバス停を探すこと、それだけだった。


 

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