対岸
つゆが目を覚ました時、朝葉と聖はまだ寝息を立てていた。穴の外は、うっすらと明らみはじめている。アメーバは相変わらず淡い光を放っていたが、ドーム内に響き渡っていた不気味な轟音は消えていた。
つゆは、眠る二人の向こうに、薄紅色の光を反射する、まっすぐな一本の白い線を見た。
近寄って、触れてみる。固く凝固した粘液で作られた、完全な橋が完成している。
「すごい……」
つゆは二人に呼びかけようと振り返ったが、穏やかな寝顔を見ると言葉を飲み込んだ。
二人をドームに残して外に出ると、既に空の一部が白みつつあった。昨夜の轟音の発生源は見当たらなかったが、ドームの表面に大小の引っ掻き傷のような痕跡が無数に残っている。
近づいてみると、鋭利な鉤爪にえぐられたように、傷跡は外壁の深くまで到達していた。
「相当な力で削られたみたいね……」
陶器のように冷たく凝固した壁面が、まるでバターでもすくい取るように滑らかに削られている。注意深く見渡すと、小さなドームのいくつかに、引きちぎられたような穴が空いている。
ドームを破壊した何者かに警戒しながら、つゆはドームへと戻った。ちょうどアメーバたちが移動をはじめており、その気配に起こされた聖が眠たそうにまぶたをこすっている。
「おはよう」
「おう……、早いな、つゆ」
「完成したのね、橋。材料はどうしたの?」
「ああ……。こいつが、がんばったよ、結局」
聖は強張った身体を大儀そうに起こし、まだ眠っている朝葉を顎で指した。
「そうだったの……。わたしだけ、寝てしまってて、ごめんなさい……」
「起きてても、何もできなかったよ。あたしも、見てただけだ」
「そう……」
「ほんとに、一人で……、よくやったよ」
眠る朝葉に語りかけるように、聖はそうつぶやいた。その時、溝のかたわらにこんもりと盛られた土の上に、まるで墓標のように小さな石が置かれているのにつゆは気付いた。
アメーバたちは既に半数ほどが穴から外へ抜け出している。残りもぞろぞろと穴に向かって動いていく。
「ところで、外に出たんだろ? どうだった?」
「今は何もいないわ。けど、小さい巣がいくつか壊されてた。きっと中のアメーバが捕食されたんだわ」
「ここも絶対安全じゃなかったってことだな」
「そうね。何かの集団が、夜の間にこの辺りを散々荒らし回って、また帰って行ったんじゃないかしら」
「何だったんだろうな、あの音」
「高羽さんの言っていたコウモリというのが、実は的を射ているのかもしれないわね。この辺りで夜行性の動物が日中過ごせる暗がりと言ったら、崖の下くらいだもの。夜になってそれが一斉に上がってきたと考えれば、なんとなくしっくりくるわ」
「コウモリみたいな、コウモリじゃないやつなんだろうな、きっと」
二人の会話で目を覚ましたのか、朝葉が寝ぼけ顔で身体を起こした。
「おはよー……。なんか、身体がすんごい気持ち悪いんだけど……」
「そりゃ、そうだろ」
朝葉の周りは、夜の間に分泌された粘液で、小さな水溜まりのようになっていた。
「あー、そういやわたし、スライムになったんだった……」
「橋もできたし、今日は帰れるぞ」
「うう……、早くシャワー浴びたい……」
橋が完成したことですっかり仕事を終えた気になっていた三人だったが、橋が溝から簡単には外れてくれず、朝から想定外の重労働をする羽目になった。結局、橋の周りの土を削り、化石を掘り出すようにしてようやく取り出した時には、外もすっかり明るくなっていた。
「思ったより軽くて助かったね」
「だな。これで鉄骨くらい重かったら、もう運ぶ気力はなかったぞ」
「固まったら水分が抜けていくのかしら。八十リットルの粘液とは思えない軽さだわ」
粘液で固めた橋は、鉄のように硬く頑丈だったが、外観や重量はプラスチックに近く、三人で持ち上げるのにもさほど苦労することはなかった。心配していた朝葉の溶解酵素も、一晩置いた橋には効果がないようだった。
「でも、三人でこんな立派な橋を作ってさ、なんかDIY女子って感じじゃない?」
「まあ、違うだろうな」
「DIY女子は、アメーバの粘液で工作しないでしょうね」
「だいたい橋も作らねえだろ」
「ちぇっ」
明らかに、三人の目には希望の色が浮かんでいた。時間にすればたった一日の出来事ではあったが、見知らぬ世界での異様で危険な体験の連続は、三人にとって一日として片付けるにはあまりにも濃密な道程だった。それが今、はっきりと終わりに近づきつつある。
「このままゆっくり向こう岸まで伸ばすぞ」
「おっけー」
「最後の方はかなり重くなるわよ。気をつけて」
声を合わせて、橋を手放す。
橋は両端をそれぞれの岸に残して、ほぼ理想的な形に設置された。
「もうちょい広かったら、ヤバかったな」
「ほんとにちょうど三メートルくらいね」
「さて」
朝葉がぱんぱんと手をはたいた。細かくちぎれた粘液が飛び散る。
「誰から渡る?」
聖が動く。
「まず、あたしからだろうな。つゆが二番目。朝葉は、ドロドロが垂れるから、悪いけど最後だ」
合理的な判断だと思われた。しかし、それと同時に、橋が人間を支えきれない可能性を、聖が自ら確かめるべく危険な役回りを買って出たのだということも、二人の目には明らかだった。
「気をつけてね……」
「おう」
聖は橋の末端に乗り、一度深呼吸をする。そして、ゆっくりと足を動かす。一歩、また一歩、聖の身体が岸を離れていく。橋はまるでしなることもなく、作られたままの直線を維持していた。聖が橋の中央に踏み込んでも、依然として橋は頑強な形を保っている。
「ひじりん、橋は曲ってないよ」
「ああ」
聖は、落ち着いた声で答える。
そのまま、じっくりと時間をかけて、聖は対岸へと渡り切った。
朝葉が無言でガッツポーズをする。つゆは目をつぶって、大きく息を吐く。
「よし、橋は大丈夫だ。つゆ、次、行けるか?」
聖が間髪入れず呼びかける。
つゆが、鞄を対岸に投げる。押し黙ったまま、橋に足を掛ける。
一歩、踏み出す。
「つゆ、あんまり下見るな」
聖がそう警告した時には、もう、遅かった。
つゆの目は、胸から腰を過ぎて、スカート、靴、爪先、その向こう、はるか下方に横たわる、黒々とした深淵に捕らえられていた。
「つゆ、見るな」
目が離せなかった。
視線の先を横切る一筋の闇が、浮かび上がってつゆの視界を覆い尽くす。闇は伸びては縮みを繰り返しながら、つゆの身体を、心臓を、包み込んでいく。
「だめ……、動かない……」
今にも転げ出る寸前のように大きく見開かれた目。足はがたがたと震え出し、止まらない。瞬く間にそれは体全体に広がり、全身が壊れた機械のように振動する。
「朝葉、引っ張れ!」
「ほい!」
朝葉がつゆの手を思い切り引く。つゆはよろめきながら岸に着地する。身を縮め、青ざめた顔はあらぬ方向を見つめたまま固まっている。
「姫、大丈夫……?」
つゆは答えない。身体が曲がったまま硬直し、荒い呼吸を繰り返す。
対岸から様子を見ていた聖が、橋を渡って、つゆの元に走り寄った。そのまま、つゆを、抱きしめる。
「つゆ。大丈夫だ。大丈夫」
華奢な身体が折れるほど、強く、抱きしめる。つゆの指が、大きく開く。視線は、遠くを見つめたまま動かない。つゆの顔にこぼれた金色の髪が、唇に張り付いて、荒い吐息に揺れる。まるでつゆの身体に潜り込んだ恐怖を絞り出すように、聖はその身体をきつく抱きしめ続けた。
「安心しろ、もう大丈夫だ」
どれだけそうしていただろうか。弾けるほどに開かれていた目が、ゆっくりと、薄く閉じられた。宙を掻いたまま固まっていた両手が、聖の背中をつかむ。震えが完全に治まるまで、聖はつゆを離さなかった。
やがて落ち着きを取り戻したつゆが、聖の身体をそっと離した。
「ありがとう、市井さん……。もう、平気よ」
「ちょっと休めよ、時間はたっぷりある」
つゆは首を振った。
「大丈夫。行くわ……」
「姫……」
朝葉も心配そうに声を掛ける。
「とにかく、あんまり下は見るな」
「ありがとう。でも……」
そう言って、つゆは断崖の縁に歩み寄り、身をかがめて、その下をのぞき込んだ。
身じろぎもせず、ずっと闇の奥を見つめ続ける。その闇を飲み込むように、身体全体で、何度も大きく深呼吸をする。そして、ゆっくりと起き上がり、再び、橋の上に立った。
バランスを取るように両手を軽く持ち上げ、対岸をまっすぐに見つめたまま、少しずつ、つゆは進んでいった。聖と朝葉は、その後ろ姿を静かに見守ることしかできない。
つゆの足が、対岸に迫る。
もしもの場合に備え、聖がいつでも飛び出せるように構える。しかし、その心配は無用だった。つゆの両足が、順番に、対岸の土を踏んだ。
「やった……!」
朝葉が叫ぶ。
つゆは振り返り、全身の力が抜けたように座り込んだ。聖が再び素早く橋を渡り、つゆの肩に手を置く。
「最後は、朝葉、頼むぞ」
「ドロドロでずっこけないように、気をつけます!」
朝葉が橋を踏む。
「これ、滑るね……」
「靴履いた方がいいんじゃねえか? もうそんなにドロドロも出てないだろ。これから長い距離歩くんだし、どっちみち靴ないときついぞ」
「そうだね」
朝葉はリュックから靴を取り出そうとして、硬直した。
「自動ロックが開かなくなってるんだけど……」
「時間が経って、固まったまま定着したんだわ」
「開かずのリュックじゃん……」
朝葉はしばらくリュックと格闘していたが、やがて無理やり靴を引っ張り出して、二人に振って見せた。
「反対側からこじ開けたら、いけた!」
「まったく、緊張感ゼロだな……」
朝葉は取り出したローファーに足を入れる。靴下の内側に溜まっていた粘液が、どろりと漏れる。
「うん、いい感じ」
朝葉は踏み心地を確かめるように、橋の上に靴底を押し付けた。かと思うと、そのまま飛び跳ねて、三歩で橋を渡りきった。
「おまえ……」
「ホップ、ステップ、ジャンプ、でしょ?」
「何がだよ……」
つゆがようやく鞄を拾い、立ち上がりながら言う。
「橋はどうするの?」
「次に迷い込んだやつが使うだろ」
三人はそれぞれ身支度を整え、並んでバス停に向かって歩き出した。昨日とまるで変わらない、赤い荒野と、肌色の空が、彼女らの行く手にどこまでも伸びていた。
日が暮れる前に、三人は再びバス停にたどり着いた。向こう岸を見遣ると、昨日の朝に降りてきたバス停の標識が見える。
「着いたな……」
「もう歩けないわ」
「帰ったらプールのシャワー……帰ったらプールのシャワー……」
朝葉は呪文のようにブツブツと唱え続けている。
「時刻表は……、なんだこりゃ」
標識を見ると、時刻表のところに『ご利用の方はこちらのボタンを押してください』と書かれており、その下に古ぼけた赤いボタンが設置されている。
「斬新なバス停ね……」
すかさず横から朝葉が手を伸ばし、ボタンを押した。
「早く……シャワーを!」
古い映画のように両手を振り上げて今にも跪きそうな朝葉の肩越しに、かすかな砂煙が見えた。
バスは崖に沿ってまっすぐにやってくると、三人の横に止まった。
「乗るぞ?」
「ええ、もちろん」
朝葉は既に鬼瓦のような顔で、車体にのめり込まんばかりにドアが開くのを待っている。
張り詰めていた空気が抜けるような、間の抜けた音を出して、ドアが開いた。朝葉、聖、つゆの順に、三人は並んで乗り込む。車内には花瓶のような運転手以外、誰もいない。朝葉は最後部の席の真ん中に、どかりと座る。聖は運転手の後ろ姿を思い切りにらみつけて、朝葉の前の席に着いた。つゆは聖の通路向かいに座り、眼鏡を外して眉間を揉んだ。
「次は、比良金女子高等学校前、比良金女子高等学校前です」
窓の外に、朝の光を浴びた住宅街が見える。徒歩で通学する女生徒たちが、いかにも楽しげに笑いながら通り過ぎる。
「朝葉、おまえ、びしょびしょだな」
「……ん? ネバネバ、どうなった?」
「だから、おまえだけゲリラ豪雨に遭ったみたいに、びっしょりだぞ」
「マジ? ネバネバなくなってる? ……うわ、これ……、水みたいになってる……」
「市井さん、腕……」
「ん? あ、傷が消えてる」
「……てか、これ、汗? ねえ、ひじりん、これ汗かな。ちょっとペロッとしてみてよ」
「馬鹿じゃねえの」
バスが停車した。
三人はぞろぞろとバスを降りていく。
「どうしよ、下着までびっしょりだよ」
「今日体育ないから、着替えないんじゃない?」
「ヤバいじゃん。水着ならあるけど」
「もう持ってきてんのかよ。まだ水泳はじまってもねえのに」
「だって、待ちきれないんだもん」
「水着で授業受けるのは、なかなか……。まあ、高羽さんなら、いけるかしら」
「あたしの練習着でいいなら、替えが部室にあるけど」
「それだ!」
「思い切り背中にバレーボールクラブって書いてるぞ」
「いけるいける」
「まあ、おまえならいけるか」
「それで、下着の代わりに水着着たら……、完璧だ!」
「お、おう……、そうだな」
「とりあえず、シャワー浴びるから、ひじりん、持ってきといて」
「めんどくせえな。取りに来いよ」
「えーっ、今すぐシャワー浴びたいのに」
「わたしが行こうか? 部室とか……、ちょっと興味あるし」
「ま、なんでもいいや。とりあえずコンビニでなんか買って食おうぜ」
「いいわね、お腹ぺこぺこだわ」
「え……、シャワーは?」
さっきまでの薄紅色の空が嘘のように、雲ひとつない、真っ青の空だ。真夏が、すぐそこまで来ている。
一人だけびしょ濡れの姿をした三人の女生徒が、コンビニの自動ドアに吸い込まれていく。ぽたぽたと落とされた透明な雫が、乾いた石畳に染み込んで、すぐに消えた。
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