赤い闇

 二人がドームに戻ると、聖は作りかけの溝を掘り進めているところだった。

「市井さん、アメーバが戻ってくるわ」

「……そうか。どうする?」

「日も暮れかかってる。一斉に動きはじめたわ。何かから逃げるように……」

 聖は溝を掘る手を止め、汗を拭った。

「今日のうちに帰るのは、無理だったな」

 朝葉は決まりが悪そうに、堀りかけの溝を見下ろす。

「ひじりん、それ……」

「ああ、とにかく、できることやっとくしかねえだろ」

 その時、アメーバの一群が入口から姿を現した。

「出るか? それともスライムと一夜を共にするか?」

「日没に合わせて急に引き上げてきたのが気になるわ。夜間は何かあるのかもしれない」

 アメーバはぞろぞろとドーム内に進入してくる。

「ま、ここじゃスライムの方が先輩だもんな。素直に真似しとくのが正解か」

 聖は再び掘削作業に戻った。つゆと、遅れて朝葉も、それに加勢する。

 三人の間には会話もなく、土を削る音だけが暗いドーム内に積もっていく。アメーバは地面からドームの天井まで、三人の周囲だけを丸く残して、びっしりと隙間なく覆いつくしてしまった。

「いずれ完全に日が落ちる。そしたら作業も中断だ」

 三人はまた、黙々と掘り続ける。


 どれほどの時間が経過しただろう。ドームの入口から漏れていた落日の赤い光も、もはや消え失せる寸前のようだった。

「夜か……」

「……そうね」

 作業の手を止めると、ドーム内には蠢くアメーバの発する泥を混ぜるような音だけがかすかに反響する。

 溝は、半分ほどが完成していた。しかし、それでもまだ半分だった。三人のうち誰一人として弱音を吐く者はいなかったが、その表情には疲弊の色が濃くなりつつあった。

 ふと、ぼんやりと天井を見ていたつゆがつぶやいた。

「光……」

 つゆの視線の先で、何かがうっすらと光っている。目を凝らすと、アメーバの内臓が、赤く輝いているように見える。

「なんだ……? 夕焼けの光じゃないよな……」

 見渡すと、ドーム内にいるアメーバのすべてが、同じように体内の赤黒い器官を薄ぼんやりと光らせていた。

「違う……。発光してるんだわ……」

 つゆが、自分の手のひらを見つめる。カメラのフィルムを現像する暗室のように、手が、足が、地面が、赤く照らされていた。一つ一つの光はかすかだが、それが無数に集まって、ドーム内を赤く照らし出している。

「きれい……」

 朝葉がうっとりとつぶやく。

 光の源は異様なアメーバ型の生命体だが、暗闇で星のように発光する小さな内蔵は、ドームの球面に赤い光をずらりと並べ、確かに三人がかつて見たことのない壮麗な光景を作り出していた。

 三人はしばらく作業の手を休め、その赤い星空に見入っていた。

「朝葉」

 光を見つめたまま、聖が言う。

「さっきは、悪かった」

 朝葉もまた、光に魅入られたまま、答える。

「うん、わたしも、ごめん……。でも、もう、大丈夫」

 朝葉は、再び土を削りはじめる。聖とつゆも、それに続く。

「夜が明けたら、どうするか、また考えよう」

「うん……」

 赤い光に照らされている限り、作業は続けられそうだった。実際、三人の疲労は限界に達していたかもしれない。しかし、あと一日だけ耐えられれば、きっとこの理不尽な世界を抜けられるだろうという、おぼろげな希望が三人を突き動かしていた。

 少しずつ、きっとゴールに近づいている。そんな盲信とも言える前向きさは、やはり若さのなせる技であったろうし、それが、この状況においては、まさに彼女らの命を繋げる最良の原動力となっていた。

「けど、なんでこいつら、こんなに光るんだろうな。敵にも見つかるだろうに」

「生物発光は、まだ未解明の点が多いらしいわ。餌を引きつけたり、反対に天敵を遠ざけたり、求愛とか、意思疎通とかもあるかもしれないわね」

「こいつらが意思疎通ねえ」

 アメーバは片時も途絶えることなく、淡い光を放ち続けている。

「もしかしたら、昼間食べていた黒い粉を燃焼してエネルギーに変える時に、副次的に発光してるだけかもしれないわね」

「光自体に大した意味はないってことか」

「そうね。けど、本当の意味を知るためには、わたしたちがこの世界にいる時間は短すぎるわ」


 溝もようやく完成に近づいた時、ドームの外からやってくる耳慣れぬ音が、三人の意識を捉えた。木々の葉擦れのような、強い風に何かがはためくような、ざわざわとした不穏な響きがドームに満ちてくる。

「何の音かしら」

「見てくるか」

「危険よ、とりあえず様子を見ましょう」

 音は次第に大きくなり、嵐が吹き過ぎるような激しい騒音に変わる。時折、何かがドームにぶつかる音が混じる。

「異常だぞ、これは……」

 聖はドームの入口を凝視するが、濃淡のない黒一色に塗り潰された穴は、何の情報ももたらさない。

「コウモリ……」

 朝葉がぼそりとつぶやく。

「なんか、テレビとかでやってる、洞窟の中のコウモリの羽音に似てない……?」

「確かに、そんな気もするな」

 三人はまた耳を澄ませる。ドームの天井から聞こえる衝突音も、次第に頻度を増す。

「けど、コウモリがぶつかって、こんな大きな音がするかしら……」

 暴風雨がひっきりなしにドームを叩くような、得体の知れぬ轟音が、ドームの壁を通過して、半球の内部でやかましく反響し続ける。

「この音、気が狂いそうだな……」

「正体はわからないけど、ここに侵入してくる様子はないし、何かしておく方が気が紛れるわ」

 そう言ってつゆは、再び作業に戻った。聖と朝葉も、入口を気にしながら作業を再開する。


 音はまるで止む気配もない。

 同じ響きを聞き続けるあまりの錯覚か、音は次第に平坦になり、いつしか波の音のように単調に繰り返されるだけのノイズに変わる。三人はその中で、同じく単調に繰り返すだけの掘削作業をいつまでも続けた。

 手には血がにじみ、強張った筋肉は、力を緩めただけで小刻みに震える。汗は全身を流れ落ち、赤く照らし出された土の上で血痕のように染み込んだ。

「……完成だ」

 三人の体力も底を突きかけた時、ついに作業は完了した。

「終わった……」

「おつかれさま」

 聖の靴のサイズを元に計測した、長さ四メートル、幅二十センチ、深さ十センチの溝が、ドームの中央に、そのまま入口の穴へと運び出せる向きで完成していた。

 底と側面も叩いて固められ、可能な限り整った直方体になるよう仕上げられている。

「地面が瓦礫の層じゃなくてよかったな」

「途中で少しでも大きな岩にぶつかっていたら、そこで頓挫だったわ」

「今、何時だろ……」

 朝葉の問いかけに、つゆが腕時計を確認する。

「夜九時過ぎよ。我ながら、ずいぶんがんばったと思うわ」

「ああ。みんなよくやったよ」

 慰労の空気が漂う中、朝葉だけが、思案顔で溝を見つめている。

「よし、明日に備えて、もう寝るか」

「そうね。少し水分も摂っておいた方がいいわ」

「お茶も水もなかったらと思うと、ぞっとするな」

 聖がペットボトルに口を付ける。つゆも水筒を取り出す。

「三人とも飲み物持っててよかったわ、ほんとに」

「食い物があれば完璧だったけどな」

「高羽さんはいつもならお弁当だったのにね」

 朝葉はぼんやりと溝に視線を落としている。

「どうしたの?」

「え? あ、うん、昨日でちょうどお米がなくなっちゃったから、たまたま今日はお弁当作らなくて」

 聖が地面に寝転がって伸びをする。

「……痛えな、これ、地面。座っといた方がマシかも」

「小石を除けたらまだマシじゃないかしら」

 つゆが聖の体の下の小石を払う。

「座ったところでケツの骨が割れそうだし、我慢して寝るか」

 そう言うと、聖はリックサックを枕にして目を閉じた。つゆもその隣で横になる。

「ほんとに、痛いわ」

「だろ」

 聖を挟むように、朝葉も身体を横たえる。

「おやすみ……」

「なんか、合宿みたいだな」

「わたしは部活してないから、新鮮だわ」

「明日は帰れるといいな」

「そうね……」

「寝てる間にスライムが顔に落ちて来ねえことを祈る……」

「おやすみなさい……」


 物音か、人の気配か、あるいは何者かが発する、その優しくも悲しげな声によってか、聖は、赤い闇の中で目を覚ました。

 ——ごめんね。

 覚醒する前のおぼろげな意識の中で、聖はそう聞いた気がした。

 隣ではつゆが浅い寝息を立てている。

 反対側を振り返った時、聖は、赤い光に照らし出された後ろ姿を見た。その人影は、溝の脇に腰を下ろし、膝の上に抱えたアメーバの表面を、ゆっくりと、慈しむように撫でていた。その手が、赤く透き通ったアメーバの天頂に突き立てられる。

「ごめんね……」

 透明な粘液の中に潜り込んだ指先が、赤く発光する星形の組織をつまみ、摘出する。中枢を失ったアメーバは、膝から溝へどろりと流れ込み、凝固した。

「朝葉」

 聖がその後ろ姿に声をかける。

「ひじりん……」

「おまえ、それ……」

「ごめん、起こしちゃった」

 溝の中は、既に半分ほど白い塊で埋まっている。聖は起き上がり、朝葉の横に座った。

 言葉もなく、二人はしばらく溝の中を見つめていた。溝には命の火を消したアメーバの粘液が、もはや個体の境界すらなくして、セメントのように固まっている。朝葉の横には、アメーバから取り出した赤黒い臓器が、きれいに並べて置かれている。

「嫌な役、押し付けちまったな」

 朝葉は首を横に振る。そして、ためらいがちに、言った。

「聞いてた……?」

「ああ」

 赤く縁取られた朝葉の横顔が、弱々しく笑う。

「嫌なとこ、聞かれちゃった」

「嫌? なんでだよ」

「だって、謝ったって、許されるわけないじゃん。わかってるんだ。だから……」

 言葉が途切れる。視線の先で、両手の指が、擦り合わされるように動く。

「わたしさ、苦手だったんだ、昔から、今でもそうだけど、人とか動物とかに、冷たくしたり、ひどいことしたりするのが……」

「ああ。知ってる」

「でも、それは、優しさじゃないんだ。ただ、嫌われたくないってだけで。冷たくして、わたしから離れていっちゃうのが、怖いんだ。いなくなるのが、怖い。お母さんが、死んじゃったみたいに」

 聖は黙っている。朝葉の横顔は、言葉とは裏腹に、穏やかだ。

「だから、わたしが人に優しいように見えたとしても、スライムに謝ってたとしても、それは全部、偽善なんだ」

 沈黙が二人を包む。あれだけ轟々と響いていた不吉な騒音は、聖が眠っている間に止んでいた。

「偽善、ね……。あたしには、わかんねえけど」

 一息置いて、聖は続ける。

「善でも偽善でも、それで、周りの人間が救われることもあるだろ。あたしだって、つゆだって、おまえの家族だってそうじゃねえかな」

「そうかな……」

「それに、完全に嘘でもねえだろ。おまえが人に、生き物に、優しくしたいって気持ちは」

「うん……」

「だったら、何も偽ってなんかないんじゃねえの」

 朝葉は、うつむいたまま両手を見つめている。その指先は、赤い光の中で、血に濡れたようにてらてらと光っている。

「でも、殺しちゃった……。たくさん……」

 震えを抑え込むように、両手を握り締める。そして、朝葉はそこで、初めて聖に顔を向けた。その目は、ひどく悲しそうに、笑っていた。

「ひじりん、起こしちゃって、ごめんね。もう少し、寝てて……」

「いいよ、起きてる」

「違うの、寝てて欲しいんだ」

「わかってる。だから、おまえがスライム殺すとこ、見とくよ」

「なんで……?」

「おまえだけが殺すんじゃない。あたしと、おまえと、つゆの、三人で、殺すんだ」

「でも……」

「朝葉」

 言葉を遮って、聖が言う。

「代わってやれなくて、すまん」

 顔を隠すように、目を伏せると、朝葉は肩を震わせながら、かすれた声で、ありがとう、とだけ言った。

 

 

 

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