算段
「ひじりん!」
穴をくぐってきた聖に、二人が駆け寄る。
「ちょっと、血だらけじゃない……!」
「大丈夫、こけて切っただけだ」
流血は思いのほかひどく、押さえた指の間からも血が漏れ出している。
「鞄に水が入ってるから、出してくれないか?」
つゆは聖のリュックサックを開け、ペットボトルの水で聖の腕を洗った。聖の表情がわずかに歪む。
「血が止まらないわ、何かで縛った方がいいかも」
「ひじりん、腕出して」
「何する気?」
朝葉は聖の腕を取ると、粘液のこぼれる指先で傷口をなぞった。見る間に傷口は糊を塗ったように固まった。
「これ……、大丈夫なのか?」
「えっ、大丈夫じゃない可能性、ある?」
「雑菌がいなければ問題ないとは思うけど……。さっき市井さん、一度触ってるわけだし」
「搾りたてだよ。百パーセント天然粘液。混じりっ気なし」
聖は負傷した腕を動かしてみる。違和感なく動作しているようだ。
「悪くないな。血も止まってる。おまえ、医療の未来を変えるぞ」
「えへへ……」
「とにかく、無事で本当によかったわ。……それで、さっきのは一体なんなの? それに……あの音はなに?」
つゆはドームの入口をちらりと見遣る。砂を噛むような不快な音が、断続的に聞こえてくる。
「でかいミミズみたいなやつらが、スライムを食ってるらしい」
「カチカチのスライムを?」
「ああ、恐らく」
「それで、この音なのね……」
穴から入ってくる耳障りな音が、ドーム内にくぐもって反響する。
「この巣は、大丈夫かしら……」
「噛み砕かれちゃうんじゃない……?」
「いや、それは大丈夫だろう。あいつら、巣には見向きもしてなかったし。おかげであたしも助かった」
「ひじりん……、ほんとに、無事でよかった……」
朝葉が思い出したようにどろどろの顔をしかめ、目を伏せる。
「大変だったのよ、助けに行くって、暴れて」
「ああ、それで……」
三人の周りに、白く固まった粘液が飛び散っている。よく見ると、つゆの顔、髪の毛、身体、制服にも、細かく飛散した粘液が固まっている。
「悪かったな。……けど、おまえが来なくてよかったよ。出て来たら、真っ先に食われてただろうから」
朝葉はうつむいたまま小さな嗚咽を漏らしている。
「けど、困ったわね。ただでさえ時間がないのに、そのミミズがいなくなるまでは、ここに釘付けってことよね」
「さすがに今は、外には出ない方がいい」
「じゃあ、その間に、これからどうするか考えましょう」
暗いドームの中で、三人は身を寄せ合って、切迫した状況の突破口を探っている。
「ミミズさえいなくなれば、外には出れる。そしたら溝の続きも掘れる」
「溝?」
「そう、高羽さんには言ってなかったわね。地面に溝を掘って、そこに粘液を流して固めれば、橋代わりになるんじゃないかって話をしてたの」
「おお」
「つゆ、さっきの溝はまだ全然だよな?」
「まったく進んでないわ。すぐに呼ばれたから」
「それなら、ここに掘り直そう。ミミズが消えるまでの時間も惜しい。それに外に掘って、またミミズが来て踏み荒らされたらたまったもんじゃねえ」
「そうね、入口もそこそこ広いし、外に出すのも問題なさそう」
朝葉が、自分の両手を眺めて、申し訳なさそうに言う。
「でも、わたしもう、ドロドロそんなに出てないよ? 足りないかも」
「それに関しては、あたしに考えがある」
「えっ、怖い……」
「心配すんな。おまえをどうにかするって話じゃねえから。ま、出てから試してみよう」
聖は手近な岩を一つ手に取り、地面を軽く削って使い心地を確認する。
「どんなもんかな、橋の大きさ」
「ちゃんと測るのは外に出てからとして、ひとまずは四メートルくらいの見当でいいんじゃないかしら」
「幅は二十センチてとこか。厚みは……、全然わかんねえな、十センチくらい?」
「ちょっと、幅が細くないかしら」
「大丈夫だろ。渡れる渡れる」
つゆが物言いたげな顔を無理やり押し殺す。
「そうね。厚みはそのくらいでいいと思う。あんまり厚くすると重くて扱いにくいし、材料もそれだけ必要になる」
「よし、じゃあ長さ四メートル、幅二十センチ、厚さ十センチだな。ええと、一CCって一立方センチだよな、じゃあ、掛け算したら八万CCだから、八十リットルか」
「結構な量ね」
その時、ドームの片側がふいに暗くなり、ずりずりと壁面を擦るような音が続いた。
三人は息を殺し、身じろぎもせず様子をうかがう。
音はドームの周囲を巡るように移動し、やがて入口の穴が蓋をしたように暗くなった。
何かが、穴の前を通過している。
ゆっくりと、影が移動する。月が満ち欠けするように、半球の内側で明暗が入れ変わる。
影が反対側に移ると、穴はまた明るくなり、音も次第に遠ざかっていった。
「ミミズが……、移動しはじめたか?」
聖が小声で囁く。気づけば、砂利を砕くような不快な咀嚼音は止んでいる。
「しっ……、また来たわ」
再び影がドームの天面を覆う。引きずるような複数の音に合わせて、ドーム内の明暗が目まぐるしく移り変わる。
しばらく息を潜めていると、最後には音も影もすべて消え、海の底のような静けさが残った。
「ようやくランチタイムが終わったみたいだな」
「ふう、寿命が三週間は縮まったね」
「もうしばらく待ってから、偵察に行きましょう」
「そうだな。それまでに掘れるだけ掘っとこう」
三人は黙々と溝を掘り続ける。ドームの中には絶え間ない掘削音が響くが、外を徘徊していた怪物の気配は完全に消え去ったようだ。
「ちょっと、外見てくる」
「気をつけて」
聖が穴から顔だけ出して、用心深く辺りをうかがう。そのまま狭い開口部を抜け、ドームの外に消えた。
一分も経たぬ間に、再び聖の顔がのぞく。
「大丈夫みたいだ。何もいない」
穴を出た三人は、合図も交わさぬまま、崖の縁に向かう。地面には巨大な物を引きずった痕跡が、轍のように無数に交差している。小さいドームのいくつかは、無惨に押し潰され、白い瓦礫と化していた。
三人は崖の縁に並び立ち、それぞれ断崖をのぞき込んだ。つゆは半歩だけ後ろに立ち、聖の制服の裾を軽くつまんでいる。
「……派手に食い散らかしたもんだな」
壁面にびっしりと整列していた透明な突起は、ほとんどが白く硬直し、いたる所が歯抜けになっていた。彼女らの立つ崖の縁にも、砕けた乳白色の破片が散乱している。
「それでも、半分以上は残ってるわね。大した鎧だわ」
自然の脅威を目の当たりにしたように感心する二人を差し置いて、朝葉だけが、神妙な顔つきで見下ろしている。
「なんか、他人事とは思えないよ」
聖がそんな朝葉を横目で一瞥する。しかし、言葉を返そうとはしない。
「もうちらほら透明に戻りはじめてるわね」
「つゆ、定規は持ってないよな」
「定規? 今日は持ってないわ」
「わたしには聞かないの?」
「おまえは定規で線引かねえだろ」
「そうだった」
「このスライム、でかいので何センチくらいだろうな」
「そうね……、二十センチか、三十センチ、そのくらいかしら」
「うちで料理に使ってる二十四センチのボウルより一回り大きいから、三十センチくらいだと思うよ」
「さすが毎日料理作ってるやつは違うな」
朝葉が得意げに鼻を鳴らす。
「それなら半径十五センチとして……、球の体積は確か三分の四パイアール三乗だったよな」
聖はスマホの計算機能に数式を叩いた。
「半球だから二で割って、ざっと七リットルってとこか」
「球の体積の公式なんて、よく覚えてたわね」
「まあ、数字は嫌いじゃないからな。つゆはなんで数学ダメなんだ?」
「だって、意味がわからないもの。形がないじゃない」
「国語だって英語だって形ねえだろ」
「具体的なイメージがあるでしょ」
「そういうもんかね」
「そういうものよ」
「まあ、それはいいとして、朝葉、ちょっとこいつ触ってみてくれよ」
聖が壁面に張り付いたアメーバ状生物の一体を指差す。
「なに……? なんか、イヤな予感」
そう言いながらも、朝葉はアメーバをつつく。透き通った身体が、小気味よく弾む。
「よし、大丈夫そうだな。そのまま引き上げられるか?」
「地面に?」
「そう」
「落ちないでよ」
聖とつゆが身体を支え、朝葉はどうにかアメーバの一体を地面に引き上げた。
「……どうするの?」
「朝葉、指、突っ込んでみて」
「え、どうゆうこと……。突き刺すの?」
「ああ、おまえしかできないんだ。頼む」
「マジ……?」
不平を垂らしながらも、朝葉は恐る恐るアメーバの天頂部分に指を突き立てる。水風船に触れるように、その粘液質が凹んでいく。今にも割れそうに深々と刺さった、その瞬間、ぷつりと膜を貫くように、指が粘液の中に沈んだ。
「よし、そのまま、中の蛸みたいなやつを引っ張り上げて」
「蛸って、この内臓みたいなやつ……?」
「そう」
朝葉は指を止め、聖を見る。
つゆは黙って成り行きを見ている。
「……それって、スライム、死んじゃうってこと?」
「死ぬかもな」
アメーバはじっとしたまま、ゆっくりと脈打つように動いている。
「殺すの?」
「そうなるだろうな」
「……無理だよ」
「なんで?」
「だって……、生きてるんだよ?」
「あのなあ、橋作らなきゃ、あたしたちが死ぬんだぞ」
「でも……」
「飲まず食わずで何日生きられる?」
「だったら……、わたしがドロドロ出すから」
「おまえが出せる量で、八十リットル、何日かかると思ってんだ?」
「がんばるから……」
聖が軽くため息をつく。
「朝葉、ここからバス停までもそこそこの距離あんだよ。時間が経てば経つほど、あたしたちも弱ってく。わかるだろ」
「でも……」
朝葉は動かない。
つゆは緊張して二人を見ている。
「できないよ……」
朝葉が、粘液から指を抜く。アメーバは弾むように変形し、またすぐに元に戻る。
しばらくじっと朝葉を見つめていた聖が、おもむろに立ち上がった。
「朝葉」
強い意志を込めた眼差しで、朝葉を見下ろす。
「あたしは、自分が生きるためなら、スライムでも、猫でも犬でも、殺すぞ」
そう言い残すと、聖は二人を置いてドームの方へと歩き去った。
「ねえ、ちょっと……!」
つゆが呼び止めたが、聖が振り返ることはなかった。
残された朝葉とつゆを、重い沈黙が包む。アメーバは何食わぬ顔で、二人の間に蠢いている。
「わたし……」
朝葉が絞り出すような声を出す。
「わたしが、間違ってるのかな……」
つゆはしばらく間を置いて、答える。
「わからないわ……」
沈黙がまた二人を浸す。
聖は既にドームの方へと消えてしまっている。
「……けど、それが、わたしの知ってる、高羽さんよ」
朝葉は目を伏せ、太ももの上で、拳を握り締める。その肩が、咽ぶように震える。
つゆは朝葉の背中に手を置き、遠くの空を仰ぎ見た。
夕刻が、近づいていた。
地平線からじわじわと染み出すように、赤黒い雲が広がりつつある。
「時間切れね……」
つゆが独り言のようにつぶやく。
朝葉はうつむいたままだ。
一人と二人の上に、闇が今にも覆いかぶさろうとしている。それに呼応するように、ざわざわと、裂け目から、不気味な響きが上がってくる。
「巣に、帰るんだわ」
崖に集まっていたアメーバたちが、一斉に、ドームに向かって行進をはじめた。
「市井さんに、知らせなきゃ」
つゆはうずくまる朝葉を無理やり起こし、聖の消えた方向にある、あの巨大なドームへと急いだ。
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