砂塵

「朝葉が戻ったら、マジで崖渡る方法考えよう」

 聖がそう言った時、ちょうど遠くで朝葉が穴から這い出してくるのが見えた。見たところ無事のようだ。

 朝葉は制服の腹部に溜まった粘液を振り落とすと、二人の元に小走りで戻ってきた。

「いやー、ただいま」

「どうだった?」

「広々とした一軒家って感じ」

「なんだよ、それ。スライムは?」

「いなかったよ、何も。外から見たら真っ白だけど、中はかなり暗いね。まあでも、目が慣れたら多少は見えるレベル」

「そっか、ごくろうさん」

「高羽さん、戻って早々悪いんだけど、時間がないの」

 つゆは朝葉に、バス停まで戻るために必要な時間と、仮定した日没までの残り時間を伝える。

「ヤバいじゃん。ていうか、無理じゃない?」

「来る時は警戒しながらゆっくり来たからな。もっとペース上げれば、どうにか間に合うかもしれない。それにしたって、日が沈む時間が元の世界と同じくらいだったら、の話だけどな」

 朝葉は言葉を失ったまま、二人の顔を交互に見比べた。つゆはいかにも不安げな眼差しで朝葉を見つめ返す。聖は表情を殺して崖を見ているが、朝葉にはその顔の裏に今にも噴き出しそうな焦燥が見えた。

「とりあえず、崖をもうちょっと調べてみようよ。渡んなきゃはじまらないんだし」


 三人は再び崖の最も狭まった地点に戻った。

 近くには何もない。橋の代わりになりそうな倒木もなければ、ロープに似た物も見当たらない。

「まず、状況を整理するぞ」

 聖が崖を背にして話し出す。裂け目を上がってくる風が、金色の長い髪をなびかせる。

「初めに、向こう岸までの距離。恐らく三メートル前後だ。現実的な話として、つゆを責めるつもりはねえけど、あたしと朝葉はどうにか跳べない距離じゃない。つゆは跳び移るのは難しい」

「……異論ないわ」

「ただ、それもさっきまでの話で、今は朝葉がスライムになったから、実際跳べるのはあたしぐらいだ。と言っても、あたしも足が万全じゃないから、できる限りジャンプは避けたい」

「スライムになってごめん」

「だったら、もっと先まで進んで渡りやすいところを探すべきかというと、あのデカい巣の上から見る限り、ここから進んでもさらに亀裂が広くなるだけ。そうだよな?」

「ええ。見渡せる限りは。初めにバス停から逆に進んでおけばよかったのかしら……。わたしの判断ミスだわ」

「それは結果論だろ。逆に行って正解とは限らねえし、実際これだけ狭くなってる場所を見つけられたわけだからな」

「そうそう。姫はもっとほめられるべき」

「よし、以上を踏まえて、どうやったら渡れるか考えてみよう」

 三人は、無慈悲に放り込まれたこの荒涼たる世界で、出し得る限りの情報を絞り出して、ただ生きるために議論した。

「崖を渡る方法にはどんな種類があるかしら。大雑把に言って、例えば、跳び移る、橋を架ける、それから……」

「飛ぶ! 鳥のように」

「あのデカい巣の上からグライダーみたいに滑空できれば、いけるかもな」

「ここにある材料で、グライダーが作れるかしら」

「材料は、土と、石ころと、柔らかくなったり固くなったりするネバネバだな」

「翼に骨組みが必要なものは厳しそうね。細くて丈夫な骨をたくさん用意する手段がないわ」

「となると、パラグライダーみたいに布と紐で作れるようなやつか?」

「どちらも素材が足りない。わたしたちの服を切り刻んでも、それをどうやって縫い合わせるか……」

「服を広げて、ムササビみたいに飛んだら?」

「人間の体重を浮かせるには、かなり大きな飛膜がいるわね。それに、相当な高さから角度をつける必要がありそう」

「うーん、飛ぶのは難しいか……」

「ベトベトで風船作れねえかな。ガムみたいに膨らまして」

「風船は揚力で飛ぶわけじゃないから、中に詰める気体が空気より軽くないと飛ばないわよ。ヘリウムとか水素とか」

「スラ……じゃなくて朝葉、ヘリウムは出せないよな?」

「スライムにいろいろ求めすぎじゃない?」

「なんにしても、滑空するのは結構難しいと思うわ。人の体重を乗せてきれいに飛ぶ形状に仕上げるには、緻密な計算が必要よ」

「跳ぶのも飛ぶのもダメとなると、うーん、いっそ崖を崩して埋めちゃうとか……、亀裂をもっかい閉じる……? どうやって? 地震でも起きない限り無理か……」

 朝葉はぶつぶつとつぶやきながら、崖の縁に歩み寄る。

「あんまり近づき過ぎるなよ。おまえは不安定なんだから」

「こうやって間近で見ると、結構近いんだよなあ。ちょっとジャンプすれば簡単に届きそうなのに……」

 首を伸ばし、裂け目の中をのぞき込む。遥か下方に、黒い川が流れるように、深い闇が沈殿している。

「あー、こりゃヤバいね。どんなに跳べそうでも、ほんのちょっとミスったらあの闇の中にダイブでしょ。こりゃ姫じゃなくても躊躇するわ」

 崖から少し離れたところで、聖とつゆは議論を続けている。

「現実的な線でいくと、やっぱ橋だよな。あの巣を作ってる白いやつで、うまく橋の形が作れねえかな」

「そうね。例えば溝を掘って粘液を流し込んで固めれば、橋っぽいものはできるかも」

「おっ、それいいじゃん。早速掘ってみるか」

 聖は尖った岩を拾うと、地面を削り始めた。

 その時、二人の視界の端でうずくまっていた朝葉が、ふいに両手を大きく振った。

「なんだ? いいところに……。どうしたー?」

 聖が呼びかけると、朝葉は両手で大きなバツを作ったあと、口の前で人差し指を立てた。

「またあれか」

「静かにしろってことみたいね」

「仕方ない、行ってやるか。つゆはここにいるよな?」

「そうね。あんまり崖に寄るのは、ちょっと……。溝を掘り進めておくわ」

 歩いていった聖は、崖の縁で何やら朝葉と話しているようだったが、やがて崖の下をのぞき込むと、そのまま動かなくなった。

 朝葉がつゆに手招きをする。つゆは両手で作ったバツで答える。

 しばらくすると聖もまた、つゆを振り返り手招きをした。

「何よ、一体……、喋ってはいけない決まりでもあるのかしら」

 しぶしぶ崖の縁に近づいていくと、聖が崖の下を見るよう促した。その顔は明らかに緊張している。

 つゆは及び腰のままゆっくりと縁に近寄り、断崖をのぞき込んだ。


 切り立った崖のこちら側の断面だけが、濡れて光っている。

 いや、凍っているのか。

 冷たい光沢を放つ透明な凹凸が、断崖の地表付近を輝かせている。

「これは……」

 つゆが押し殺した声でつぶやく。

「生きてる……のよね」

 氷のように透き通った凹凸のすべてが、脈打つように動いていた。よく見ると、厚い氷の層に見えていた透明な塊は、こんもりした突起の一つ一つが独立して動いており、それが断崖の垂直面にずらりと並んで蠢いているのだった。

「アメーバだわ……」

「つゆが踏んだやつ、だよな」

「群れからはぐれた個体だったのね。それにしても、すごい数……」

「今は巣から離れてお出かけ中ってわけだ」

 つゆは崖の断面を指先で撫でる。

「黒くて、砂鉄のような手触り……。苔かしら。それとも、本当に砂鉄みたいな鉱物の結晶かもしれない」

「食べてる……みたいだよ」

 アメーバは透き通った体を蠕動させるように、体内に黒い粉を取り込んでいる。中心には細かく枝分かれした小さな赤黒い器官が浮かんでおり、粉はその中に吸い込まれていくようだった。

「真ん中の小さな蛸みたいな物が、この生き物の本体みたいね。きっとそこで粘液を作ったり酵素を分泌したりしてるんだわ」

「崖のこっち側だけにいるんだね」

「日当たりの関係かしら……。きっとこっち側にしかこの黒い餌がないんでしょうね」

 アメーバたちは三人の声に反応することもなく、黙々と食事を続けている。

 聖は小石でその生物の一体を小突いてみる。

 瞬きの間に、アメーバは乳白色に変わり、岩のように凝固した。

「すごいな、一瞬で変わったぞ」

「危ないわね、襲ってきたらどうするの」

「危険な生き物じゃねえだろ。大勢で群れてじめじめしたとこで飯食ってるようなやつらだぞ?」

「まあ、一理あるわね……」


 ——それは、かすかな予兆だった。

 こうして地面に這いつくばっていなければ、三人のうち誰一人として気づくことはなかっただろう。

 地面が、震動していた。

 まるで大きな地震が起こる前触れのように、小刻みに揺れ動いている。

「なに、揺れてる……?」

「地震か?」

「違う……、少しずつ大きくなってる……。何か、近づいてきてる……!」

 聖が真っ先に立ち上がり、付近で最大のドームに駆け寄っていく。

「ちょっと、何するつもり!」

 聖は片足を庇いながら、ドームによじ登っていく。

「ひじりん、足が……!」

「来るな、下にいろ!」

 頂上に立って地平を見渡すと、砂煙がすぐそこまで迫っているのが見えた。

「なんだ……?」

 砂塵の中から、巨大な紐のような影がのぞく。紐はバネのように伸び縮みを繰り返しながら、三人のいる方を目掛けて一直線に移動してくる。

「一、二、三……、おいおい、めちゃくちゃいるぞ」

 もうもうと上がる砂煙の中を、恐るべき紐状の何かが、その巨体をずらりと並べて迫りつつあった。

「中に入れ!」

 聖は下で待つ二人に叫ぶ。

「中にって……、この巣に?」

「そんなに時間ないぞ! もうそこまで来てる、早く!」

「何が来てるのよ……!」

「ひじりんは……?」

 巨大な紐は既にドーム群の外縁部に突入し、巧みに身をくねらせながらドームの間をすり抜けてくる。

「あたしもすぐ行く……、早くしろ!」

「絶対来てよ!」

 叫ぶ朝葉をつゆが無理やり引っ張っていく。

 二人が穴の中に消えるのを確認すると、聖はいよいよ眼前に迫る怪物たちをにらみつけた。

「すまん、朝葉、間に合わねえ」

 その巨大な生き物は、あえて例えるなら、蛭に似ていた。

 ホースのように長い体は頭部と思われる先端部が細く、尾部に向かって次第に太くなり、尾部の末端はねじ切ったように尖っている。その体が、体軸に沿って伸縮し、イモムシのように前進してくる。恐らく全長三、四十メートルほどあるだろう。だが、その巨体に似合わず、伸縮の周期はあまりにも早く、前進する速度はアクセルを踏み込んだ乗用車にも匹敵するほどだった。

 ここに登ってこられたら終わりだ、聖はそう思い、身を隠すように屈んだ。しかし怪物の巨躯からは、いくら聖が身を伏せても、隠れるのに不十分なのは明白だった。

 もし狙われたら、この巣を離れて別の巣に逃げ込む。この中には二人がいる。危険に晒すわけにはいかない。

 不気味な長い顔が、鞭のようにしなりながら近づいてくる。この大きなドームですら、のし掛かられたらひとたまりもないだろう。ストローのような口の奥に、尖った歯が何列もびっしりと並んでいるのが、スローモーションのようにはっきりと見えた。あの歯にすり潰されるのは痛そうだと、聖はぼんやりと考えていた。

 轟音が駆け巡る中、祈るような心境で待ち構えていた聖だったが、しかし、怪物たちは彼女の横を通過し、崖の縁に集まって停止した。

「なんだ……?」

 おぞましいクリーム色の巨体を並べて、怪物たちは上半身を断崖に突っ込んでもぞもぞと蠢いている。よく見ると身体の接地部に小さな足が無数に生えており、それが地面をがっしりとつかみ崖に転げ落ちないよう支えているようだ。

 聖は逃げることも忘れ、その異様な光景に見入っていた。

 崖に下ろした半身が、時おり勢いよく首を振り上げる。細長い首が波打つように動き、工事現場の重機が立てるような荒い破壊音が響く。

「食ってるんだ……」

 聖は思い出したように、ドームを滑り降りる。着地の際、足を庇って転げた。尖った岩に二の腕をこすり、鋭い痛みが走る。

 穴はすぐそこだ。聖は腕を押さえながら、這うようにその入口に向かった。

 

 

 

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