汗
滴り落ちる汗のような雫が、朝葉の足元に白い水溜まりを作っていく。
「なにこれ、動けない」
朝葉の両足は、瞬間接着剤で固められたように、地面と、白い固形物に捕らえられ動かない。聖とつゆは、困惑したまま手を出しかねている。
「ねえ、わたし、どうなってる……?」
「ド……ドロドロになってるぞ」
「足が、固まって……、動けないよ」
聖が座り込み、朝葉の足を埋め込んだ白い塊を小石でつつく。
「完全に固まってる……」
「これ、さっきのあれじゃないかしら」
次々と垂れてくる雫を避けながら、つゆが塊に触れる。
「ほんとだな、さっきつゆが踏んだやつと同じだ」
「……取れない?」
聖は固まった部分を引き剥がそうとするが、どれだけ力を込めても、まるでびくともしない。
「相当固いぞ」
再び力んだ瞬間、聖の手に大きな雫がぼとりと落ちた。
「うおっ、くっついた」
振り落とそうとするが、液体は既に凝固している。
「指が……開かねえ」
接着剤にまるごと浸したように、聖の片手は白い膜で覆われ固まっている。
座り込んだまま朝葉の太ももを観察していたつゆが、垂れかかった雫を指先でつついた。
「これ、触っても大丈夫だわ」
つゆの細い指の先で、透明に膨らんだ雫が、ゼリーのように震える。
「どういう仕組みかしら……」
つゆは雫をつまみ、引っ張った。それはどろりと伸びてちぎれたあと、つゆの手の中で白く固まった。
「固まってる……。身体に垂れてる時は透明で柔らかかったのに、離れた途端に白くなって固まった……」
「大丈夫なのか? それ、触って」
「これ自体に粘着性はないみたい。ただ、固まったらかなりの硬度だわ」
「うう……、わたし、このままスライムになるの……?」
「高羽さん、ちよっとこれ持ってみて」
つゆは持っていた塊を朝葉の手に乗せた。
見る間に塊は透明に変わり、朝葉の手のひらの上でぐにゃりと広がった。
「やっぱり……」
「どういうことだ?」
つゆは朝葉の頬を垂れる雫を、再びつまみ取った。
「この汗、一種の粘液だわ」
「ね、粘液……?」
朝葉が泣き出すような声を漏らす。
「高羽さんの身体から分泌されて、肌に付着してる間は、透明で、粘度の高い状態を保ってる」
「わたしが分泌……? うそ……、変な匂い、してない……?」
「そして高羽さんの身体を離れると、急速に変質して、凝固する」
「また朝葉が触ると、元に戻るってわけか?」
つゆは固まったばかりの粘液を、朝葉の腕に当てる。粘液は澄んだ色に変わり、つきたての餅のように、柔らかく垂れる。
「恐らく、高羽さんが何らかの酵素のような物を作り出してるんじゃないかしら。その酵素が作用してる間は、きっと粘液がゲル状を保つんだわ」
「朝葉、ちょっとあたしの手握ってくれよ」
聖の固まった手を、朝葉が握る。途端に、固まっていた物が指の間からどろりと落ちた。
「おお、跡形もなく取れてる」
「服や靴下は、直接肌に触れてるから大丈夫なんだわ。肌から離れた靴の周りだけが固まってるみたいね」
「朝葉、足の周りの白いやつ、なでなでしてみな」
朝葉が触れるとすぐに、凍りついていた白い水溜まりは一気に溶け出した。
「取れた! でも、またすぐ固まりそう……」
「靴を脱いでおく方がいいかもしれないわね」
「それだ!」
朝葉はローファーを脱いで鞄に入れる。
「鞄のチャックが固まったんだけど……」
「開ける時はまた触るんだから、大丈夫でしょ」
「やったな、自動ロック付きじゃん」
「ハイテクリュックサック!」
身体の拘束も外れ、軽口を叩き合う二人を尻目に、つゆはドーム状の構造物に近寄った。
「そうなると……、気になるのはこれとの関係ね」
ドームは鋼鉄のように強固な球面を、朝葉の凝固した粘液と同じ乳白色に光らせている。
「外観も、質感も、明らかに同じ物だわ。いったい誰が作ったのかしら……」
「いやー、ほっとくと服の中に溜まるね、これ」
粘液を垂らしながら、朝葉が寄ってきた。聖は崖の縁で、距離を測るように対岸を見つめている。
「少しおさまったんじゃない? その……体液」
「せめて汗と言って」
身体ごと溶けてしまいそうなほど流れていた粘液は、ずいぶん減っているように見えた。
「高羽さん、試しに、この巣を触ってみて欲しいの」
「え? なんで?」
「いいから」
「なになに? 怖いんだけど……」
朝葉は文句を垂れながらも、言われた通りに手を伸ばす。
「あ、ちょっと待って!」
「ん?」
「やっぱり、こっちの小さい方にして」
つゆは大きなドームの脇にある、腰ほどの高さの小さなドームを指差した。
「いいけど、どうゆうこと?」
聞きながら、朝葉の手がそのドームに触れる。
手のひらをべたりと密着させ、しばらく経過したが、何も起こらない。
「溶けないわね……」
「なに? もしかして、この巣がドロドロになるってこと?」
「その可能性もあるかと思ったけど、変わらないみたい」
「でも、色はおんなじだね」
「そう、だから、同じ材質でできてるのかと思って」
「どうした?」
やってきた聖に、つゆは朝葉とドームの類似点について簡単に話した。
「てことは、つまり、朝葉によく似た生き物がこの巣を作ったってことか」
「それ、逆じゃない?」
「冗談だよ。なんせ、今の朝葉みたいに粘液をじゃんじゃん出す生き物が、この巣の持ち主ってことだな」
「今のところ、そう考えるのが一番自然だと思う」
「けど、それだったら、なんでわたしが触っても溶けないんだろ、これ」
朝葉がドームをぺちぺちと叩く。
「そういう風になってんだろ。いちいち溶けてたら住めたもんじゃねえし」
「そうね。きっと固まってから一定時間経ったら、成分が変質したまま定着して、酵素にも反応しなくなるんだわ」
「ふうん。でも、作るの大変だよね。時間が経たないと定着しないなら、作ってる途中で、あ、間違えて溶かしちゃった、あちゃー、また最初からやり直し、とか絶対あるよね」
「いつまで経っても完成しねえな」
「そっか、もしかしたら……」
つゆが顎に指をやり、思案深げにうつむく。
「どうした?」
「さっきわたしが踏んだ塊、覚えてる?」
「ああ」
「あの時、やっぱり、元々柔らかかった物が、急に固まったんだと思うの」
「足跡もついてたしな」
「でも、本体がいないのに、柔らかかったっておかしくない?」
少し間を置いて、つゆが答える。
「もし、本体がいたとしたら?」
「え?」
「あそこに、本体がいた。あるいは……」
「……あるいは?」
「あれが、本体だった」
思わぬ結論に、聖と朝葉は息を呑む。
「マジかよ……」
「ええっ、リアルにスライムじゃん……」
「一種の防御反応なんじゃないかしら。強い衝撃に晒された時、全身を硬化して身を守る。アルマジロとか、ハリセンボンみたいに」
「つまりそのスライムは、溶かすだけじゃなくて、固くするのも自由自在ってわけだ」
「仮に柔らかくしているのが酵素の働きなのだとしたら、反対に固くする酵素があってもおかしくないわ」
「じゃあ、巣を作る時は、溶かすんじゃなくて、反対に固めながら作ってるってことだね。やるじゃん、わたし」
「よくできてるな」
聖は朝葉の顔に垂れた雫を、指でつまんでぶよぶよと動かした。
「朝葉、試しにカチカチになってみろよ」
「無茶すぎない?」
「強い衝撃を加えてみたらどうかしら」
「ちょっと、きみたち……」
「まあ、朝葉にはいざという時のために練習しといてもらうとして」
「……練習?」
「今のつゆの話が本当なら」
聖は大きなドームにぽっかりとのぞく不気味な穴を見た。
「こん中にはそのスライムがうじゃうじゃ詰まってるってわけだな」
「でも、さっき溶かしたやつには入ってなかったよ?」
「たまたま留守だったんだろ」
「一応……、確認しておいた方がいいかもしれないわね」
三人は示し合わせたように無言で見つめ合う。
「とりあえず、新入りは挨拶しといた方がいいんじゃねえか?」
「ほらやっぱり、そうくるよね!」
「現実的に、高羽さんが一番警戒されずに近づけるんじゃないかしら」
「縄張り争いに巻き込まれないかな……?」
「奪っちまえよ、そんな縄張り」
「よーし、いっちょスライムのキング目指すかー」
朝葉は腕をぐるぐると回しながら、不承不承ドームの穴に近づいていった。歩いたあとには、蝋を垂らしたような白い跡が点々と残っている。
「しかしまあ、どんどん人間離れしていくな」
「あれで元気なんだから、不思議だわ」
「無敵だよ、あいつは」
朝葉は最も大きなドームに近寄ると、側面からゆっくりと回り込み、穴の真横に陣取った。穴は成人の腰よりもやや低い高さで、腹這いになればかろうじて潜れるほどの大きさだ。コオロギのような姿勢で這いつくばり、首だけ伸ばして穴の中をのぞき込もうと苦心している。
しばらく穴と格闘していたようだったが、ようやく二人のいる方向に向き直り、両手を大きく交差して見せた。
「あれは、バツってことか?」
「何もいなかったのかしら」
「とんでもなくデカいのがいて、ヤバいって意味かもな」
聖は外国人のような大げさなジェスチャーで、理解不能の意図を示す。朝葉は穴を指差したあと、両手で目を覆い隠すジェスチャーで答える。
「なんだ? 目を覆うほど恐ろしいってことか?」
「それだったら戻ってくるはずじゃない?」
穴を指差し、目を隠す動作の間に、片手を上下に動かす動きが加わる。
「なんか増えたぞ。手を振り下ろして……、下敷きで前の席のやつの頭を叩く動きか?」
「何よ、その動き。そんなの聞いたことないわ」
「そうか? あたしはよくやるけどな」
「手首の向きが違うみたいよ。上に向いてる。何かを引っ張ってるんじゃないかしら」
「なんか引っ張って、目を隠す……。見えなくなるってことか?」
「あ、電気だわ、きっと。電気の紐を引いて、それで見えなくなってる動きよ」
「ああ……」
「暗くて見えないってことね」
「しょーもねえ……」
聖は人差し指を横に向けて、素早く横に動かす仕草をする。『穴に入れ』という意味だ。
再び、バツのサインが返ってくる。
聖は先ほどのジェスチャーを両手に変える。『問答無用で入れ』のサインだ。
朝葉はしばらく身振りもなく見つめ返していたが、やがて両手で大きく丸を作り、穴の中へと入っていった。
「大丈夫かしら」
「スライムぐらいに負けるやつじゃねえだろ」
「そうかしら……。ところで」
つゆが腕時計を見る。
「もう一時半よ。うまく崖を渡れたとして、バス停まで戻る時間がぎりぎりだわ」
「そういや、帰りのバスの時間知らねえな。……ん? ていうかバス降りてから今まで、他のバス一本も見てないぞ」
「それはわたしもわからないわ。路線が大きく曲がってるのか、それともただ運行してる本数が少ないだけなのか」
「ほんとに走ってるのか不安になってくるな」
「そうじゃない。違うの。それ以前の問題があるのよ」
「どういうことだ?」
「いずれ、日が暮れる。そしたら、ここには、街灯もないのよ。暗くなったら、何も見えないわ」
「……ヤベえじゃん」
「今はまだアメーバみたいな生き物しかいないけど、凶暴な夜行性の生き物だっているかもしれない。火だって起こせないし、真っ暗じゃ、身を守る術がないわ」
「この世界、何時に日が暮れるんだろうな……。こりゃ急がねえと」
真っ赤な荒野の色を反射するように、空は相変わらず薄紅色の雲を一面に浮かべている。太陽がどこから登って、どこへ沈んでいくのか、時間の流れさえも分厚い雲の向こうに包み隠されているように見える。
今の二人にとっては、髪の先を揺らすほどの微風さえも、不気味な深淵から吹いてくる怪物の吐息に感じられるのだった。
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