断崖

 どれだけ歩いても、果ては一向に近づいてこない。崖の幅は、心なしか狭くなっているようにも見えるが、期待が見せる錯覚かもしれない。

「あれ、なんだろ」

 視線の先に、地面から盛り上がった複数のドーム状の塊が現れた。大きさは様々で、人間の腰より低い物から、大きめのテントほどの物までが点在している。

「自然の地形にしては、整った形だわ」

「家……にしては小さいな。動物の巣か?」

「凶暴な生物だったら危ないわね」

「どうする、迂回するか?」

 つゆは周囲を見渡す。

「結構広範囲に散らばってるみたい。迂回するとなると、かなり遠回りになるわ」

「何もいないみたいだよ?」

 朝葉の言う通り、奇妙なドームの周囲に生き物の気配は感じられない。

「確かに動く影は見えないわね。もし生き物の巣だとしても、巣に篭っているのなら、気づかれずにやり過ごせるかもしれない」

「よし、このまま素通りするぞ」


 大小様々のドームが乱立する中を、三人は足音を忍ばせ歩く。

 近くから見ると、ドームは工作用のボンドを固めたような乳白色の材質でできており、赤褐色の地肌から巨大なのように盛り上がっている。大きな物ほど表面に凹凸があり、小さな物は整った半球形をしている。

「穴が空いてるな。やっぱり何かの巣だぞ」

「大きいのは人が入れそうだわ」

 ドームには、接地面の一箇所に必ず穴が空いていた。自然の物か、生物による造作か、どちらにせよ、中にある物は影になっていて見えない。

 その時、端を歩いていたつゆが小さな悲鳴を上げた。

「何か、踏んだわ」

 つゆは警戒しつつ地面を探る。

「これかしら……。白い塊が落ちてる」

「巣の一部みたいだな。色が同じだ」

 朝葉が石でその物体をつつく。

「カチカチだね。接着剤が固まってる感じ」

 大人の手のひらよりも一回り大きな楕円形の塊である。ドームと同じ乳白色で、中央が潰れたようにへこんでいる。

「変ね……、踏んだ時は柔らかかったわ。ゴムボールを踏んでるみたいに」

「気のせいじゃない?」

「けど、このくぼんだところ、わたしの靴の跡じゃないかしら」

 つゆがくぼみに靴底を合わせると、それはぴたりと合致した。

「一瞬で固くなったってことか?」

「そうとしか考えられないわ」

「とりあえず、行こうよ」

 朝葉が一人立ち上がる。

 得体の知れない物を見れば見るほど、朝葉の脳裏をよぎるのは、二日前の自分の姿である。

「そうだな。巣からなんか飛び出してくる前に離れよう」

 しかし、行けども行けども、ドーム状の構造物が視界から消えることはなかった。それどころか、ドームは次第に大きさを増し、小さな小屋がすっぽり入るほどの巨大な物までがちらほらと現れ始めた。

「どんどん増えてくな」

「ちょっとした集落か、村に入り込んだ気分だわ」

「不気味なくらい静かだけどな」

「もしかしたら、今は何も住んでないのかもしれないわね。大昔に作られて、巣の主が絶滅したのか、あるいは打ち捨てられたか……」

「見て、崖も狭くなってきてるよ」

 三人がバスを降りてから、既に三、四時間は歩き続けていた。歩きにくい荒れ地だが、緊張と昂った神経、それから若さのおかげで、身体は止まることなく動き続けている。

 永遠に変わることがないように見えていた崖も、ここにきて次第に幅を狭め、切り立った縁も乱杭歯のように不揃いな線を見せ始めている。

「うまく両側から迫り出してる場所があればいいけどな」

「飛び移るとなると、かなり寄ってないと厳しいわね」

 三人はまた黙々と歩き続ける。

 まるで見張られているように、ドームに空いた穴が光のない視線を投げかける。

 空には太陽も出ていない。空全体を薄く覆った肌色の雲が、どこからともなくやってくる淡い光をまんべんなく透かしている。

「今ごろ昼飯の時間だな」

 聖がスマホを取り出し、時刻を確認する。電波の表示部分にはずっと『圏外』の二文字が貼り付いたままだ。

 三人は歩き続ける。

 空腹を訴える者はいなかった。食事が取れない事実は、すなわち帰れない現実を連想させた。いつになれば元の世界に戻れるのか、誰も直接そう口にすることはなかった。口にすれば、足が止まってしまう気がしていた。三人はただ、黙って歩き続けるしかなかった。


 さらにしばらく歩くと、崖がうねるように細かく蛇行しはじめた。さらにはその縁も、とけとげしく迫り出している。

「この辺りは、かなり狭まってるわね」

「渡れるポイントを探してみるか」

 三人は断崖に寄りながら、対岸に移ることのできそうな場所を探して歩く。

 すると、ちょうど両岸から突き出た足場が向かい合って接近している地点を見つけた。

「ここが一番近そうだな」

「三メートル……くらいかしら。まだ厳しいわね」

 朝葉と聖が、断崖の間近に立ち、距離を測るようにのぞき込む。

「ひじりん、走り幅跳び何メートル?」

「調子がよけりゃ、五メートルちょいかな」

「今は?」

「足を庇いながらだと、この距離でぎりぎりってとこだな」

「わたし何メートルだったかな」

「おまえも運動できる方だろ。このくらい跳べるんじゃねえの?」

「うん。跳べるイメージは浮かんでるんだよね」

「あたしも、踏み込む足間違えなけりゃ、いけるな」

 二人は同時につゆを振り返る。つゆは離れたところから、廃墟に捨て置かれた日本人形のような顔で二人を見ている。

「……わたしを、置いて行く気?」

「えーと、姫は走り幅跳びは……」

「知らないわよ。覚えてないわ。というか、市井さんも高羽さんも、聞いてる感じぎりぎりじゃない。そんなので、ほんとに跳ぶ気?」

 驚くほどの早口でまくし立てる。

「届くか届かないか、五分五分くらいで命を賭けるなんて、馬鹿げてるわ。この高さだもの、落ちたら絶対助からない。絶対に、助からないわ。運良く向こう岸に飛びつけたとしても、こんなにぼろぼろの崖だもの、這い上がる前に崩れ落ちるわよ。命を粗末にするだけだわ。もっと別の方法があるはずよ。おぼつかない肉体の限界に頼るより、確実に渡れる方法を考えるべきだわ。だから、つまり、わたしを……置いて行く気?」

 つゆは一息でしゃべりきると、離れていてもはっきりとわかる鋭い目つきで二人をにらんだ。

「ええと、じゃあ、こうしようよ」

 朝葉があっけらかんと答える。

「わたしとひじりんでさ、姫の手と足を持って、こうやって、ぶらーんぶらーんってやって、ぽーんと」

 朝葉は荷物でも投げるように両手を振り上げる仕草をする。

 つゆはしばらく無言でにらみつけていたが、やがてくるりとそっぽを向いて歩き出した。そのまま付近で最も大きなドームに近寄り、鞄を置くと、乳白色の球面に手を伸ばす。そして、ひとしきり撫でたり叩いたりして何かを確かめたあと、思い切り両手を伸ばし、ドームにへばりついた。

 聖と朝葉は、黙って成り行きを見守っている。

 つゆは何度もドームに足を掛け、懸命に身体を持ち上げようとするが、うまくいかない。

 朝葉が歩み寄って声を掛ける。

「登るの?」

「……違う方法を探すのよ。上から見たら何か見えるかもしれないでしょ。この前みたいに」

 朝葉とは視線を合わせず、半ばやけくそに飛び跳ね続ける。

「よっ」

 朝葉が、ひらりと跳び上がる。そのまま、球面をするすると登り、くぼみの一つを片手でつかみ身体を固定すると、もう一方の手をつゆに差し出した。

「どうぞ、姫。お召し物が汚れないようお気をつけください」

 つゆは、一瞬の逡巡ののち、その手をつかんだ。

 朝葉が、つゆの細い身体を、思い切り引き上げる。


 頂上に登ると、朝葉は立ち上がって両手を上げた。

「おお、よく見える!」

 つゆは四つん這いで両手を吸盤のようにドームに吸いつけたまま、同じように四方を見渡した。

 高さはそれほどでもないが、遮蔽物がないおかげで、思いのほか遠くまで見通せる。どちらを向いても、どこまでも続く赤茶色の荒野は、地上から見た印象と変わることはない。しかし、亀裂の形状は、下から見るよりもはるかに仔細に判別できた。

「うーん、見渡す限り、何もないねえ」

「崖が狭まってるのも、ほんとに、ここだけみたいだわ」

「この丸いのも、こっち側にしかないんだね」

 二人の眼下に、皮膚病のように無数に浮き出たドーム状の構造物は、亀裂の対岸には一つも見えなかった。

 二人はしばらく放心したように、この荒れ果てた世界を見渡していた。

 かすかに吹いてくる風が、朝葉の鳶色の髪の毛を揺らす。つゆは妙に懐かしい気持ちで、その姿を見上げていた。

「思い出すねえ、ちっちゃい頃、こうやって、姫と二人で木登りしてさ」

 朝葉は遠くを眺めながら、風に向かってつぶやいた。

「いつも上から、手を引いてもらってたわ」

「あの木、まだあるかなあ」

「どうかしら……。ずいぶん、昔だから」

「姫」

 朝葉が再び手を差し出す。

 つゆはその手を取り、震える足で立ち上がる。

「おーい、どんな感じー?」

 下から聖の声がする。

「さいこー!」

 朝葉が手を振って返す。

「そういう話じゃないでしょ」

「そう? 気持ちいいじゃん、風」

 つゆは朝葉の手を握ったまま、少しの間、目を閉じた。

 指に触れる朝葉の柔らかい手のひらと、頬に当たるかすかな風だけが、いま、つゆの身体を形作るすべてだった。幼い日に置き忘れたままの自分の姿が、そのからっぽの輪郭を埋めるように、ゆっくりと身体に満ちていくのを感じていた。

 二人はそうして、しばらくの時間、言葉もなく立ち尽くしていた。


「さ、そろそろ降りよっか」

 朝葉がつゆの手を離し、ドームの球面を勢いよく滑り降りる。続けて、後ろ向きでゆっくりと降りてくるつゆを、下から聖と朝葉が支えた。

 つゆはスカートの汚れを払い、ずれた眼鏡を直しながら、朝葉に言いかける。

「あの……、あさ……」

「ほい」

 朝葉がつゆの鞄を取り、手渡す。

「あ……、ありがとう」

 つゆがうつむきがちに言う。

 朝葉は、何の屈託もなく、うれしそうに笑った。

「なんか収穫はあったか?」

「ダメダメ、なんもない」

「ここから先は、また亀裂の幅が広がってるわ。やっぱり、この辺りで向こう側に渡る手段を探すしかなさそうね」

「となると……」

 聖がつゆを一瞥する。

「……ここで、お別れね」

「冗談だよ、冗談。なんか違う方法考えよう」

「はい!」

 朝葉が勢いよく手を挙げる。

「はい、朝葉さん、どうぞ」

「ひじりんの肩に姫が乗っかって、そのままバターンって倒れて姫が向こう岸をキャッチ」

「はい、他にないですか?」

「はい!」

「元気があってよろしい」

「ひじりんが姫をおんぶして」

「はい、他は?」

「はい!」

「どうぞ」

「ええと……」

「思いついてから挙手してくださいね」

「はい!」

「はい」

「水を流して、泳いで渡ります!」

「どっから流すんですか?」

「はい!」

「へい」

「一回下まで降ります」

「降りれるんなら最初から降りてるだろ」

「ねえ」

「はい、つゆ姫さん。まともな回答よろしく」

「高羽さん、大丈夫……?」

「え?」

「その汗……、何?」

 朝葉の顔から、大粒の汗が垂れる。汗は、ぼとりと音を立てて、足元にこぼれ落ちた。

「どうしたんだよ……、おまえ」

 とめどなく、朝葉の顔から、全身から、どろどろとした汗が滴る。落ちた雫は、赤い土の上で弾け、大輪の花を咲かせるように白く凝固した。

 

 

 

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