第二話 明日までネバーネバーダイ
荒野
鳥が飛んでいる。
川辺に青々と繁ったススキの細い葉に、登ったばかりの朝日が黄金色の影を落としている。その上を、一羽の白い鳥が、大きな翼をゆったりと動かして飛んでいく。
ススキの葉の間から、遠くの県道をバスが行くのが見える。目の覚めるような、真っ青に塗られたバスだ。窓ガラスの中に、頬杖をついた一人の女が透けている。少女と呼ぶには大きな、しかし少女の表情を浮かべた女だ。
高羽朝葉は、遠くの川の上を飛ぶ、一羽の鳥を見ていた。
鳥は長い首を蛇のようにくねらせ、白い翼を広げて川面の近くを悠々と飛んでいる。六月も半ばに差しかかるが、まだいかにも冷たそうな水面を、真っ黒な鳥の影が滑っていく。
朝葉は大きなあくびをする。
県道に沿うように流れるこの川は、古くから山手やそれよりも上の地域に住む人々は
県道が山手に入る前に、川は一度西向きに湾曲するため、山手に入ったバスからでは、もう川は見えない。
朝葉は古びた住宅地に差し代わった風景を、半分眠った顔でぼんやりと眺めている。
「三尻神社前です。お降りの方は……」
バスが停まり、金髪を揺らして聖が乗ってきた。
「おはよ」
「おう。眠そうだな」
「まあね」
また大口を開けてあくびをする。
「昨日も遅くまでゲームやってたのか?」
「うん」
「今度は何のゲームだ?」
「うーん、猫を育てて、闘わせる、みたいなやつ」
「ひでえゲームだな」
「大丈夫。実際闘うのは猫の仮想ボディだから」
「全然わからん」
「それより、聞いてよ」
朝葉はふいに身を乗り出して、後ろから聖の座る背もたれに顎を乗せた。
「昨日さー、晩ご飯に納豆出したんだよ」
聖は暑そうにシャツの胸元をぱたぱたとやっている。
「そしたら、味がない納豆なんて食えねーって、みんな文句言ってさ」
「はあ」
「豆の味がするよね? 納豆って」
「いや、何の話か全然わかんねえ」
バスが再び停まった。
乗ってきた女学生は、いつも通り、朝葉と聖の通路向かいに座る。
「ねえねえ、姫、納豆は豆の味するよね?」
つゆは黙ったまま、鞄からハードカバーの本を取り出しページを開いた。
「おーい、つゆ姫、豆の味だよね、どう思う?」
「……知らないわよ。納豆食べないから」
「そりゃ知ってるけど、でも、豆は豆だから、豆の味だよね、ってこと」
つゆは眉間に皺を寄せて本を置くと、目を細めて朝葉を振り返った。
「豆豆うるさいわね。豆が原材料なんだから、豆の味なんでしょ。知らないけど」
朝葉が得意げに鼻を鳴らして聖を見る。
「ほらね?」
「いや、ほらじゃねえし、今のやり取りなんか意味あんのか?」
「だからさ、納豆をもらったんだよ。隣のおばあちゃんに」
「で?」
「手作り納豆だよ? タレなんて付いてるわけないじゃん。それなのに、味がないとかどうとか……。醤油でも塩でもかけたらいいのに」
聖は相変わらずシャツをぱたぱたさせながら、つゆの読んでいる本に視線をやった。
「面白い? その本」
「面白いかはわからないけど、知らないことはたくさん書いてあるわ」
真っ白の表紙に、簡素な装飾で『粘菌』とだけ書かれた本だ。
「ねえ、納豆の話は?」
「なんでまた、それ読もうと思ったんだ?」
「たまたま図書館で見つけただけよ」
「ねえねえ、おばあちゃんの手作り納豆」
聖は座席の天井に手を伸ばし、空調の吹き出し口の角度を調節している。つゆは無言でページに目を落とし続ける。
しばらく沈黙が続いたあと、聖が口を開いた。
「納豆なんて、家で作れるんだな」
「こたつで作るらしいよ」
「六月だぞ? 今」
「納豆作るために、真夏まではこたつ出しっぱにしてるんだって」
「へえ」
「豆を煮て、納豆をちょっと混ぜて、藁で巻いて、こたつに入れとくんだってさ」
「納豆の材料に納豆を使うのか」
「納豆菌を使うんでしょ」
本を読みながら、つゆが口を挟む。
「豆の味がするんだよ、スーパーの納豆より。なんか、納豆って言うより、豆そのものって感じ」
「未完成の豆なんじゃねえの」
「でも、おいしいんだよ?」
聖は背もたれに片肘を掛け、遠い目つきで天井を見遣っている。
「まあ、一回は食べてみたい気もするな」
「でしょ!」
朝葉が立ち上がる。
「ひじりん、今度食べに来なよ! 絶対おいしいから」
「やだよ、おまえんち、遠いもん」
「えーっ、たまには遊びに来てよう」
「納豆関係ねえじゃん」
朝葉は後ろから聖に絡みつき、金色の頭に頬を擦り寄せている。
「ところで」
つゆが細い指で黒髪を耳にかける。
「もう体は平気なの?」
「指と目は完全に治ったよ。二人に騙された心の傷だけ、治らないけど」
「結局何もわかんねえままだったな」
「昨日のバスは何もなかったわね。今日も何もないといいけど」
とつぜん、何かを踏んだようにバスが揺れた。続けて、もう一度。タイヤが路面を踏む音が、砂利を踏むような音に変わった。
「なんだ、工事中か?」
窓の外を見ていたつゆが、驚いて声を上げる。
「ねえ、何か変じゃない?」
山手の住宅地から、既に市街地に差し掛かっていてもおかしくない時間である。
しかし、バスの周囲には、建物の影も見えない。
「変どころか……、どこだよ、これ」
三人が見つめる窓外には、見渡す限りの、赤褐色の荒野がある。草一本見えない、枯れ果てた土地が地平線まで続いている。
「いつのまに、変わったのかしら……」
「まただ……」
聖がつぶやく。
「なんだって言うんだよ、くそっ」
事態を飲み込めず困惑する三人の上に、車内のアナウンスが告げる。
「きれつまえ、きれつまえです。足元にお気をつけて、お降りください」
バスが、ゆっくりと停車する。
「なんて言った? きれつまえ?」
「聞いたこともない地名だわ」
「このまま、乗っとこうよ……」
いつだって能天気なはずの朝葉が、珍しく不安げに言う。前回と同じような、自らの身に降りかかる異常事態を恐れているのかもしれない。
「そうだな。やり過ごそう」
「でも、この前は、同じ方向のバスに乗っても戻れなかったわよ」
聖が舌打ちをし、跳び出すように座席を立つと、運転席に詰め寄る。
「おい、おっさん。どこだよ、これ」
運転手は言葉を返さない。
「聞いてんのか? さっさと引き返せよ!」
朝葉とつゆは固唾を飲んで見守るが、聖が一方的にまくし立てるだけで、運転手が答える素振りはない。
聖が運転手の肩をつかんで、反射的に手を引く。そのまま、ゆっくりと後ずさり、二人の元へ引き返してきた。
「どうしたの……?」
「だめだ。……人間じゃない」
朝葉とつゆの表情が固まる。
「なんか、花瓶か何かをつかんでるみたいだった……。人間の手触りじゃねえ」
三人の視線が、ちらりと見える運転手の後頭部に集まる。
「バスも出ないみたいだわ……。一度降りて、反対側のバス停を探した方がいいかもしれない」
「えっ、やだよ……。また前みたいにおかしくなるの……」
「朝葉、行こう。このまま乗ってても、たぶんどうにもならない」
一人だけ、運転手の異常を身をもって体感した聖が、先に立ってバスを降りる。つゆがその後に続き、朝葉が遅れて追いかける。
三人が降りると、バスはすぐに発車した。小刻みに揺れながら、道なき荒野を遠ざかっていく。
「地名じゃなかったんだな」
バス停の標識を見て、聖が言う。
標識には『亀裂前』と書かれている。
「で、亀裂ってなんだ?」
「あれじゃない?」
聖の陰に隠れていた朝葉が、遠くを指差す。
その先には、大きな川ほどの幅の崖が、黒々とした裂け目を地平線と平行に伸ばしている。
崖のそばまで近寄ると、聖が恐る恐るその下をのぞき込んだ。
「これは、相当な深さだぞ」
朝葉も続けて首を伸ばして、すぐに引っ込める。
「小石落とすとかいいからな。あんまり近寄るなよ」
まだ鮮やかに残るプールの記憶が、二人を自然と断崖から遠ざける。
高所恐怖症のつゆは、近づきもせず遠巻きに見守っている。
崖は、光も届かない真っ黒の深淵をのぞかせ、地平の彼方まで果てのない黒い線を伸ばしていた。橋らしき物も見当たらない。向かいの淵まで二、三十メートルはあるだろう。
「ねえ、あれ見て」
つゆが指差す方を見ると、対岸の少し離れたところに、何かが立っている。
「うそっ……、あれって……」
「最悪だな……」
聖が金髪を掻き乱して、吐き捨てるようにつぶやく。
対岸にぽつりと立つそれは、遠くから見ても明らかに、バス停の標識だった。
「どうする……? あれが帰りのバス停だよね」
「……どうにもならねえよ、ゲームオーバーだ」
少し離れたところから二人の様子をうかがっていたつゆは、崖の続く先に目を凝らし、続いて反対側の先にも目をやる。
「あっちの方が少し狭い気がする」
「ん?」
「バスの進行方向と、逆方向、遠くまで見比べたら、逆の方がほんの少し崖の幅が狭くなってるように見えない?」
聖と朝葉も、つゆの真似をして崖の両方向に目を凝らす。
「たしかに、そんな気もするな」
「崖の形成される原因は、地割れとか、川の侵食とか、いくつかあると思うけど、どちらにせよ、端から端まで一定の幅ってことはないはずだわ」
「けど、狭くなってるにしても、かなり遠いぞ」
「ここに留まってても、何も解決しないわ。歩くとしたらどちらか、それを決めるべきよ」
目を細めながら、聖は崖の先を何度も見比べる。
「ここで待っててさ、バスに乗って行く方が楽じゃない?」
朝葉が新たな提案を挟む。
「バスが都合よく来れば、その方が楽なのは確かね。けど、わたしが思ってる方向とは逆になる。もし間違ってたら、戻ってくる手段がないわ」
「楽だけどイチかバチかに賭けるか、きついけど目で見たものを信じるか……つーか、つゆを信じるか」
「おし、歩いて行こ」
「だな」
三人は崖に沿って、来た道を引き返すように歩き出した。
彼女らを乗せてきたバスは、既に豆粒のように小さくなっている。次の到着時刻も、三人は確認することなく歩いて行く。
しかし、つい今し方まで三人の顔を覆っていた暗い表情は、不思議とどこかへ消えていた。
日常から少し外れた三人の朝は、こうして、また始まったのだった。
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