緑色の球体

 高校前のバス停に戻った三人は、公園のにそびえ立ったそれを、餌を待つ雛のようにあんぐりと口を開けて見上げていた。

「おっきいなー」

「なんでもアリだな……」

 つい先ほどまでそこにあった公園は、もはや芝生の一本さえも残さず忽然と消えていた。

 入れ替わりに現れたそれは、おとぎ話の巨人が落とした豆を思わせる、あまりにも巨大な緑色の球体だった。今にも転がり出しそうな鋼鉄の球が、外周にぐるりと立てられた細い支柱によって危なげに支えられている。

「都市ガスのタンクね。名前は確か……、ガスホルダーだったかしら。もっと海側にあったはずだけど、ここまでワープしてきたんだわ」

「これ、すぐ下の家に住んでるやつ、生きた心地がしねえだろうな」

「かなり堅牢に作られてるはずよ。でも、こんな傾斜地にあるのは少し怖いわね」

「これ以上ヤベえことになる前に、とっととバスに乗って戻ろうぜ」

 その時、辺りを見回していた朝葉が、素っ頓狂な声を上げた。

「ない!」

 まるで先祖の霊を降ろすかのように、おかしなポーズのままうろつきながら、何やら必死に探しているようだ。

「どうした?」

「ないよ、バス停が、どこにも」

 聖とつゆも、ようやく事態を飲み込み周囲を見回した。

「ここに、あったはずよね」

 つゆが歩道の一部を指差す。

 標識とベンチがあったはずの地面は、そこだけ石畳がめくれたように地肌が露出している。

「くそっ、バス停まで行方不明かよ」

「またどこか別の場所と入れ替わってるのだとしたら、この土の地面があった場所に飛んでるはずだわ」

「場所つっても、ただの土だろ、これ」

「どこの土でしょうね。見覚えない?」

「いや、陶芸家じゃねえんだから……」

「なんか落ちてるよ」

 朝葉が片目をつぶり、その手で何かを拾い上げる。

「花びら」

 全体が白く、先の尖った鶏卵ほどの大きさの花弁だ。

「ずいぶん大きいな」

「何枚か落ちてるわね。ハナミズキに似てるけど、形が少し違うわ」

「花壇の花っていうよりは、木に咲く花ってサイズだな」

「何にせよ、これだけじゃ、わからないわね」

「けど、この花が咲いてるところにバス停があるかもってことだよな」

「この街全体から、この花が咲いてる場所を探すなんて、不可能だわ」

「聞き込み捜査だね」

「この世界の言葉わかんねえだろ」

「そうなの?」

「おまえが授業聞いてないってのが、すんなり腑に落ちるわ」

「とは言え、手掛かりになるのもこの花びらだけね」

 聖が腕組みして考え込む。

「ここで待ってたら、来ねえかな、バス」

「どうでしょうね。今まで見てきた感じだと、物同士が入れ替わったら、それに付随する構造も、他の物事との関係性も、自然に入れ替わっているように思えるわ。まるで元からそうだったみたいに」

「路線がめちゃくちゃになるじゃんか」

「路線どころじゃないでしょ、これとか」

 つゆが再び緑色の球体を見上げる。球体は素知らぬ顔で青い空に寝そべっている。

「ガスの配管とか、どうなってるのかしら。不思議だわ」

「ネットで調べてみるか、この花びら」

「何の花かわかったところで、どこに咲いてるのかまでわかるかしら」

 ぼんやりと球体を眺めていた朝葉が、ふと、花びらをつゆに手渡した。

「はい、姫」

「どこ行くのよ」

 歩き出した朝葉が、不敵に笑って振り返る。

「捜査は、足でするもんだよ」

 朝葉は球体の方に歩いていくと、きょろきょろと見回してから、球体の足元に取り付けられた鉄の階段に向かっていった。

「おいおい、まさか……」

 聖とつゆが駆け寄ると、朝葉は階段の登り口に据え付けられた鉄扉の前で立ち尽くしている。頭上には、球体の表面を這うように、簡素な鉄の階段が、いかにも心もとない華奢な手すりとともに張り付いているのが見える。

「おまえ、色々とマズイだろ、それは」

「大丈夫だよ、見た感じ誰もいないし」

「そういう問題じゃないでしょ」

「それだけおっきな白い花、上から探したら見つかるんじゃない? もしかしたら飛んでったバス停も発見できるかもしれないし」

 朝葉は両目をつぶって鉄柵をつかみ、錆び付いた枠に足を掛ける。だが、何度やってもその足は空を踏むだけだ。

「目つぶってやるのは、なかなか、手強いね」

 見かねた聖が横から鉄柵をつかむ。

「仕方ねえな、あたしが行くよ」

「市井さん、あなた、足がまだ……」

「大丈夫だろ、一応階段になってるし」

「だからって……」

「それに、あんなポキッと折れそうな手すり、今の朝葉に行かせる方が危ねえよ」

 つゆが聖の体操服を握りしめる。

「……ダメよ、絶対」

 強い非難を込めた眼差しが、二人をにらみつける。

「ひじりん、ありがと。でも、わたしなら、頂上から両手を伸ばせば、もっと遠くまで見渡せると思うんだ。もしかしたら、この時のために、こんな体になったのかもしれない」

「いや、おまえの腕くらいじゃ大して変わんねえだろ。どんな計算してんだ」

「高羽さん、まだその目に慣れてないんでしょ。危険過ぎるわ」

「じゃあ、二人で登る? ひじりんが、わたしの目になってさ」

「おまえが、あたしの足になるのか?」

「や、それは無理」

「それあたし一人で行った方がマシなやつじゃねえか」

「二人とも、いったん冷静になって」

 必死に説得しようとするつゆを、聖と朝葉が振り返る。

 しばらく、無言で見つめ合う二人と一人。その二人の頭に同時によぎったものを、つゆは遅れて察知した。

「何よ、その目……。無理よ、無理、絶対無理」

「つゆ」

「……何」

「姫」

「死んでも嫌」

「大丈夫だよ、死なない死なない」

「つゆ、手すりも付いてるし、いけるって」

「ポキッと折れそうって言ってたのは誰よ……」

 聖が笑う。

「冗談だよ。あたしが登る」

 そう言いながら、両手を鉄柵に掛ける。それから足の調子を点検するように、何度か柵にスニーカーの底を押し当てる。

「……待って」

 つゆが鞄を下ろし、鉄扉に立てかけた。

「非常事態だし、仕方なくよ。本来なら、絶対やらないから」

 独り言のようにつぶやきながら、柵をつかむ。

「いいよ、つゆ、無理すんなって」

「無理しようとしてるのはどっちよ」

 弾みをつけて柵を越えようと跳び上がるが、なかなか上手く越えられない。何度目かの跳躍で、ようやく柵の向こうに転がり落ちた。

「大丈夫か?」

「すぐ降りてくるから、鞄、見ておいて」

 ずれた眼鏡を直し、制服の埃を払い、つゆは階段を登り始めた。

 ローファーの硬い靴底が、鉄板とぶつかって、乾いた音を立てる。踏み板の隙間を抜ける風が、緊張して強張った足首を、からかうように撫でていく。

「そういや、姫、高いところ苦手じゃなかったっけ」

「マジ?」

「ま、いけるっしょ」

「おいおい、結構でかいぞ、これ」

 二人は、スロー再生のようにじわじわと遠ざかっていくつゆの後ろ姿を不安げに見つめている。

「それにしても、どっかで見たことある気がするんだよね、この花びら」


 タンクの球面に沿って設置された階段は、ゆるやかなカーブを描いて、行く先を球体の裏側に隠している。そのせいで、階段が青空の中に突然かき消えているように見えて、つゆの心をぞっとさせた。

 つゆは止まりそうな心臓を無理やり動かしながら、一段一段と、ゆっくり、着実な足取りで登っていった。

 地上から離れるにつれ、街は立体的に姿を変え、垂直に立ち上がっていた街の景色は、やがて水平に広がる一枚の地図となる。頂上に近づいたつゆの体は、既に街を離れ、彼方まで伸びる青空の一部となっていた。

「おーい、なんか見えるかー?」

 恐る恐る見下ろすと、人形のように小さくなった聖が手を振っている。つゆは汗ばんだ両手で手すりを握りしめ、無言でまた登り出す。

 巨大であるとは言え、高さ三十メートル程度のタンクである。せいぜい十階建てのマンションの屋上から見えるほどの眺めに過ぎない。

 しかし、立地が山裾の傾斜地であり、海に向かってのなだらかな勾配を見渡せる場所であったために、その眺望は、つゆが想像していたよりもはるかに高く、遠大なものだった。

 

 それなのに、頂上に立った時、つゆは恐怖を忘れた。

 掛けていたシーツがはらりと落ちるように、身体を強張らせていたものが、ふいに流れ落ちた。細い手すりを、それよりも細い指先でそっと握る。

 たった今まで破裂するように動いていた心臓も、締め付けられていた下腹部も、いつのまにかどこかへ消えていた。足の先から、頭の先まで、からっぽになった身体に、青い空が入り込んでくる。その青さが全身を満たしてから、つゆはようやく、頂上に着いて始めて息をした。

 足元から、ゆるやかに下りていく街並み。遠くには、和岐原わきがはらの海が広がっている。振り返れば、段々と続く木良山のブルーベリー畑が見えた。

 つゆはもう、ずっと長い間、こんな景色を目にしていなかった。

 風光明媚なこの都市で暮らしながら、見飽きた街と道とにへばりつき、ただ学校と自宅を往復するだけの日々。その中にいて、この世界には、こんなに遠くから吹いてくる風があるのだということを、つゆは久しく忘れていた。

 つゆは視界に収まりきらないほど、途方もなく広がる海を見た。

 海はいくつかの船影をのんびりと浮かべて、ときどき、陽光をきら、きら、と反射した。

 つゆはもう一度、大きく息をした。


「おかえり、姫」

 階段を降りてきたつゆは、二人の助けを借りて鉄柵を乗り越えた。着地に失敗してよろけたところを、聖がその大きな体で受け止めた。

「おつかれ。なんか、見えたか?」

 つゆは置いていた鞄を取り、底に付いた砂を払った。

「バス停は、なかったわ」

「あちゃー、残念」

「けど、さっきプールがあった場所の近くに、白い花で満開の並木道を見つけた」

「この花なのか?」

「あの辺りには、確かヤマボウシの並木が植えられてたはずよ」

「ヤマボウシ?」

「ハナミズキの近縁種で、さっきの花びらみたいな、ハナミズキによく似た大きな白い花を付けるの」

「へえ。道に生えてる木の種類なんて、気にしたこともなかったよ」

「ちょうど今が開花時期みたいね。遠くからでもよく見えたわ」

「じゃあ、そこにバス停が飛んでる可能性があるってことだな」

「百パーセントではないけど、行ってみる価値はあると思う」

「あ……、あーっ!」

 その時、二人の会話をぼんやりと聞いていた朝葉が、大きな声を上げた。

「プールプール! プールだった! あーっ、プールだったかあ……」

「なんだ、急に? 脳みそがアメンボと入れ替わったか?」

「ちがうちがう。この花びら、どっかで見たと思ったら、プールだったんだよ」

 つゆの表情がぴくりと動く。

「さっきプールで着替えた時にさ、物陰から、見たんだった。その並木道。はー、すっきりした」

 聖が苦笑いを浮かべて、つゆを横目でうかがう。

 つゆは薄暗がりの蝋人形のような顔で朝葉を見つめたまま、

「思い出せて、よかったわね」

 そう言って、くるりと向きを変え歩き出した。

「あ、姫……」

「おまえ、そういうことは黙っとくもんだぞ」

 つゆはそのまま数歩だけ歩いて、ふと、立ち止まった。

 ゆっくりと振り返ったその顔は、二人がぎょっとするほど、穏やかに微笑んでいた。

「次は三人で登りましょう。もっと眺めがよくなるわ、きっと」

 歩き去るつゆの後ろ姿を見ながら、朝葉が小声でつぶやく。

「ねえ、今の、どうゆう意味……?」

「さあ……」

「わたしたちが、殺される的なやつ……?」

「かもな」

 バス通りに出たつゆが再び振り返って、二人を呼ぶ。

「妙に張り切ってるな」

「怖い……」

「ま、とりあえず行こうぜ。バス停がまたどっかに消えちまう前に」

 三人はまた、今日何度目かわからない同じ坂道を下り始めた。

 珍しく先頭を歩くつゆが、遠くのビル群の隙間に光る海を見て、誰にも知られないくらい、また、かすかに笑った。

 

 

 

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