バス停
「半魚人より、ヤバい?」
自らの状況を知った朝葉は、手に埋まった目を閉じたまま、残り四本の指で、顔から生えた人差し指を恐る恐る触っている。
「まあ……、見慣れないビジュアルではあるな」
「左右の目が独立して動くから、視界がめちゃくちゃになって、平衡感覚が狂うんでしょうね」
「姫の頭脳で、どうにかならない?」
「元に戻さないことには、どうにも……」
「手を顔の横に持ってきて、こうやって、くっつけとくしかないんじゃねえの」
聖はまるでゾンビか幽霊のように両手を体の前に伸ばすと、そのままこめかみの横に持ってきた。
「それより、寒いな」
「全身ずぶ濡れだからでしょ。まだ六月よ」
「朝葉は、体操服だよな、その袋」
「え、わたしの目の話、終わり?」
「だから、手を顔の横にくっつけとくんだよ。それでだいたい同じように見えるだろ」
朝葉は聖の言う通りに構え、目を開けた。
「おお、見える!」
「寒いから、着替えろよ。目つぶってても着替えくらいできるだろ」
「ここで……?」
「そのへんの物陰でちゃっちゃとやってこい」
朝葉は両手をこめかみに固定し、奇怪な儀式から抜け出てきた呪術師のようなポーズで、近くの建物の影に消えた。
「市井さんは、体操服持ってないのよね」
「ああ、本気で走ったりは、まだ、ちょっとな」
「わたしのでよかったら……、使う?」
「いいよ。つゆが体育出れなくなるじゃん」
「出れないも何も、学校がないじゃない。それに、そんなびしょびしょじゃ、動きづらいでしょ。今は行動力を落とすべきじゃないわ」
「そうか? まあ、じゃあ、悪いな。借りるわ」
「サイズ合わなかったら、ごめん」
聖は体操服を受け取ると、その場で濡れた制服を脱ぎ始めた。
「ちょっと……、ここで着替える気?」
「いいだろ。素っ裸になるわけじゃあるまいし」
「でも、どこで誰が見てるかわからないわよ」
「上だけパッと着替えるよ。下はスカートはいたままでいけるし」
聖は構うことなく制服を脱ぎ捨てると、体操服の袋を開けようとするが、なかなか開かない。
「つゆ、きつく結びすぎだろ、これ」
「何やってるのよ、もう、せめて服用意してから脱いだらどうなの」
「固結びにしてんじゃねえのか」
「貸して」
つゆが垂れ下がった紐を引くと、結び目は簡単にほどけた。
「おお」
「早く着て」
つゆが、聖の体を隠すように立ち上がる。眼鏡を光らせて、どこからか聖の着替えをのぞく不届き者がいないか、獲物を探す猛禽類の顔で全方位に目を光らせる。
「人が来る前に終わらせてよ」
「やっぱちょっとちっちゃいな」
聖は筋肉質で均整のとれた上半身をまるで隠すことなく、のんびりとつゆの小さな体操服に袖を通している。
その時、陰で着替えていた朝葉が妙なポーズのまま戻ってきた。
「なんだ、ひじりん、ここで着替えてんじゃん」
「高羽さんも隠すの手伝って」
「うわっ、それ姫の体操服! わたしもそっちがいい!」
「交換するか? ……って、おまえ、Tシャツ前後ろ逆だぞ」
「あれ、そう? ま、いいじゃん」
「よくはねえだろ」
着替えを終えた三人は、荷物を集めて、再び並んでプールをのぞき込んだ。
「半魚人は、あきらめる?」
「そうね。半魚人というより、学校をあきらめた方がいいのかもしれない」
「おっ、つゆからサボり発言が出たぞ」
「そうじゃないわよ。学校を探すより、元の世界に戻る方法を探す方が先決じゃないかってこと」
「つまり?」
「わからないけど、バスから降りてこのでたらめな世界に入ってしまったのなら、またバスを探して乗ってみるとか」
「じゃあ、公園に戻る?」
「そうだな。じっとしてても濡れたパンツが気持ちわりいし、とりあえず歩こう」
三人は、来た時と同じ道をたどりながら、すっかり様変わりした風体で歩いていった。
明らかに窮屈な体操服の聖が先頭に立ち、変わらず制服姿のつゆが続き、その後ろからTシャツを前後ろ逆に着た妙なポーズの朝葉が追いかける。
「ちょっと、速いよ、きみたち」
「ああ、すまん。まだ歩きにくいか?」
「さっきよりはマシだけど、頭がくらくらするんだよね」
「でも、どうして高羽さんだけがこんな姿になったのかしら」
「影響されたんじゃないか? 素直なだけが取り柄だからな、朝葉は」
「目から指が生えるほど素直です! って言ったら、オシャレなカフェのバイト受かる?」
「いや、まず目から指生えてる時点で無理だろ」
「えっ……、これいつまで続く想定……?」
「そうよね。元の世界に戻れたからといって、高羽さんも元に戻るとは限らないわね」
「うそ……、戻らない未来、ある?」
「どうだろうな」
「手術で、治る?」
「その目が見えてるってことは、視神経が腕から脳に繋がってるってことでしょ。さすがにどんな名医でもお手上げじゃないかしら」
「どうしよう……。もう一生映画見ながらポップコーン食べれないじゃん……」
バス停に戻ると、相変わらず学校の場所には公園があった。小学校が始まる時間になったからか、子供たちの影は消えている。
「さて、どうする」
「次のバスは、十分後だよ」
朝葉がバス停の時刻表を見ながら言う。
「乗るしか、ないでしょうね」
三人は並んでベンチに座る。
端に座った聖は、両手を頭の後ろで組み、短いズボンから伸びた長い足を放り出している。もう一方の端には、背筋を伸ばして彫像のようにじっと固まったつゆがいて、その間に朝葉が座る。
三人は不思議と言葉もなく、しばらく静かな朝の風景に溶け込んでいた。
青々と葉をしげらせた桜並木が、三人の足元に、さらさらと水面のような光をこぼしている。聖の金色の髪をすり抜けた風が、朝葉の鳶色の髪を揺らし、つゆの黒髪を撫でていく。
「みんな、テスト受けてるかな」
朝葉が口を開く。
「案外、テストもどっか別の日にワープしてるかもな」
「いいね、それ」
時折聞こえる子供の声と、遠くからかすかに響く車のエンジン音以外には、何も聞こえない。
「何が起こってるんだろうね」
朝葉がつぶやく。両手をベンチに投げ出し、目を閉じている。言葉とは裏腹に、その響きからは何の感情も浮かび上がってこない。
「さあな」
自転車に乗った親子が、ベンチの前を通り過ぎる。親子の姿は見たところ変わった点もないが、自転車のペダルとハンドルが入れ替わっていた。
「あたしとつゆも、そのうちどうにかなっちまうのかな」
「催眠術みたいなものじゃないかしら。初めから不思議なことを信じてない人は、影響が出ないのかも」
「家族はどうなってんだろうな。兄貴はいいとして、
「ここがどこか別の世界なのだとしたら、わたしたち以外は、元からこの世界に適応した生活をしてるでしょうね」
「そっか。影響がどうのって話は、あたしらだけの話だよな」
朝葉が、目を閉じたまま背伸びをする。
「んー、今ごろ、この世界のわたしは、何してるのかな」
「いや、おまえは、一人だろ。だよな、つゆ?」
「それは、考えてなかったわ……。もし学校を見つけられてたとしても、そこでおかしな姿のわたしたちが授業を受けてた可能性もあったかもしれない、ってことよね」
「けど、こいつはもうこっちの世界の姿してるぞ」
「うらやましい? ひじりんも、おいでよ」
「まあ、なんにせよ、元に戻らなきゃな」
「そうね」
「もし戻らなくても、友達でいてね?」
「おまえ次第だよ」
「えーっ、どうゆうこと?」
つゆが、空を見上げて、小さなため息をつく。
「優しいわね、市井さんは」
「なに、どうゆう意味?」
「それより、もう十分経ったんじゃねえか」
つゆが腕時計を見る。
「とっくに過ぎてるわ。バス、来ないわね」
「朝葉、ほんとに十分後だったのか?」
「時刻表くらい読める自信はあるんだけどなあ……」
すっかり板についた例のポーズで、朝葉は再び時刻表を確認しにいく。
「あれ? おかしいな、次は一時間後って書いてる」
「読めてねえじゃん……」
「いや、ほんとに、さっきは十分後の時間が書いてあったんだって」
「よくわからないけど、一時間もここで待ってるわけにはいかないわね」
聖が大儀そうに立ち上がる。
「そうだな。もうちょいそのへん歩いてみるか」
「おかしいなー、確かにさっきは書いてたはずなのに」
朝葉の両手が時刻表をにらみ付ける。
「文字がワープしたのかな」
「おーい、置いてくぞ」
「あ、待って」
慌てて二人を追いかけようとした時、朝葉の背後でエンジン音がした。
振り返ると、バスが坂を降りてくるのが見える。
「ヘイ! 二人! カムバック!」
聖とつゆが同時に振り返る。
「なんだ、バス来てるぞ」
「乗るわよね?」
「当然」
ドアが閉まる直前のバスに、三人は滑り込んだ。
他に、乗客はいない。最後部の席に、並んで腰掛ける。
「ほらほらー、やっぱり来たじゃん、バス」
「一時間後って言ったの、おまえだろ」
「あれ? そういや変だね」
「この世界、思ったより厄介だわ。単純に物同士の位置が入れ替わるだけかと思ったら、形のない情報もでたらめに入れ替わってるみたい。それも常に」
「そういや、バス停の名前もめちゃくちゃだったな」
「高羽さんが見た時刻表も、きっと何度も書き変わってたんだわ」
「ま、いいじゃん。とりあえず乗れたんだから。見て見て、元のかわいいわたしに戻ってる?」
朝葉の能天気な呼びかけに、つゆの冷たい視線が答える。
「うっそ……。まだそのまま……?」
その時、車内のスピーカーからアナウンスが流れた。
次の停留所を知らせる案内だろう。耳を澄ましていたつゆが、聖に問いかける。
「市井さん、今の聞き取れた?」
「いや……。朝葉、わかったか?」
顔に生えた指を不器用に触診していた朝葉が、顔を上げる。
「え? ごめん、聞いてなかった」
「……次のバス停の名前を言ったはずだよな」
「でも、日本語じゃなかったわ」
「ところどころ日本語にも聞こえたんだけどな」
「まだ、戻ってはいないみたいね」
ゆっくりと、バスが停止した。
開いたドアから、老婆が乗り込んでくる。首も見えないほどに曲がった背筋で、のっそりと座席に腰を付けた。しかし、前から見ても、老婆の首は見えない。よく見ると、背骨の上端には、頭の代わりに、腫れ物のような赤い塊が盛り上がっている。それはどくどくと、まるで心臓のように規則的に脈動している。
老婆はいくつか外した胸元のボタンの隙間から、異様な形をした別の膨らみを取り出して、さも暑そうにパタパタとあおいだ。その膨らみは、じっと前を見つめたまま、だるそうにため息を吐いた。
「降りよう」
三人は示し合わせたように立ち上がる。聖が朝葉の肩を支えながら、転がり出るようにバスを降りた。
遠ざかっていくバスを見ながら、つゆがつぶやく。
「ダメだったみたいね」
「いける気がしたんだけどな」
「でも、この世界に入れたのなら、きっと出る方法もあるはずよ」
朝葉は目をつぶって、疲れた腕をほぐすように、ぐるぐると肩を回している。
「方向が、逆なんじゃない?」
何気ないその一言が、二人の言葉を止めた。
ほんの数秒の無言のあと、聖が朝葉の背中を思い切り叩く。バランスを崩した朝葉がつんのめる。
「ナイス、朝葉」
「単純だけど、あり得るわね」
「え、あ、そう?」
「乗るとしたら、やっぱり降りたバス停だよな」
「そうね。その方が自然だわ」
「えーっ、また戻るの?」
聖は既に歩き出していた。
「当たり前だろ。戻るんだよ、元の世界に」
「待って、速いって」
太陽は、そろそろ真上にのぼる頃だ。濡れた二人の髪の毛は、あたたかい風に梳かれながら、やがてやわらかく乾くだろう。
坂道をのぼっていく三人の影が消えると、バス停の標識に止まっていた一匹のてんとう虫が、透き通った硬い羽根を持ち上げ、赤と黒の水玉に塗り分けられた薄い羽根を広げると、青空にまぎれて消えていった。
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