水面

 公園の入口を前にして、ふいに聖が立ち止まった。

 その顔は、彼女の足元の、歩道と公園の境界に向けられ固まっている。

「……どうしたの?」

 つゆが、ためらいがちに声をかける。

「ほんとに、いいのか」

「……何が?」

「この公園、あたしたち、入ってもいいのか?」

「犬も子供も、普通に歩いてるよ」

 朝葉が眩しそうに、手のひらをかざしながら答える。

「大丈夫だよな……。越えてはいけない一線とか、ないよな」

「怖いこと言わないでよ」

「ほいっと」

 二人の視線が注がれたその一線を、朝葉が軽々と飛び越えた。

 呆気に取られる聖に、駆けていった朝葉が手を振る。

「行こうよ、学校始まっちゃうよ」

 目を丸くして見つめ合う聖とつゆを、朝葉の声が急かす。

「あいつは、何考えてるんだろうな、ほんと」

「うん」

 不安そうに固まっていたつゆの口角が、ほんの少しだけ上がった。


 三人がリズムよく芝生を踏む音に、小さな子供たちの喧騒が混じる。

「こんな朝っぱらから、わざわざ公園で遊ぶもんかね」

「学校が始まるまで、遊んでるんだよ」

「学校にも校庭があるだろ」

「公園は、なんか魅力があるんだよね。言葉では説明できないやつ。ね、姫」

「知らないわよ」

「ほら、サラリーマンだってさ、昼間公園に集まってくるじゃん」

「他に行くとこがないだけでしょ」

 公園のあちこちで、小さなグループが思い思いの様子で戯れている。

「朝から晩まで走り回ってるんだろうな」

「止まったら、死んじゃうんだよ。あの子たちは、きっと」

「何よ、それ。マグロじゃあるまいし」

「姫とわたしも、そうだったよね。懐かしいなあ」

 子供たちの蹴ったボールが、ふと、三人の足元に転がった。ボールを拾い上げた聖は、それをしげしげと眺める。

「なんか、変なボールだな」

 それは一見、サッカーボールのように見えた。ただ、均等に分けられてあるはずの白と黒のパターンが、奇妙に偏っている。

 聖がなかなかボールを寄越さないので、痺れを切らした子供の一人が駆け寄ってきた。

「悪い悪い、ほら……」

 続く言葉を失った聖の手から、ボールが転げ落ちる。

 子供の両手が、それをつかみ上げる。だが、それは手ではなかった。

 肩から生えているはずの両腕は、まるで膝のように大きく突き出した関節、いや、それはまさに膝そのものによって屈曲し、ボールを挟み込んだ手のひらのようなものは、見間違うべくもなく、剥き出しの爪先だった。

 子供は三人には目もくれず、そのまま走り去った。

 言葉もなく、三人はしばらくその場に立ち尽くしていた。驚きとも、恐怖とも言えない、未知の感情が三人を浸していた。

 それはある種の覚悟に似ていたかもしれない。目の前に置かれているのに、わざと焦点を合わせず見ないことにしていた事実そのものが、今くっきりとした輪郭を持って彼女らの網膜に焼き付けられた。

「学校、探そう」

 独り言のように、聖がつぶやく。

「でも、ここには学校らしき建物はないみたいだよ?」

「この公園しか手掛かりはねえだろ」

 歩き出した聖を、ふと、つゆが呼び止める。

「待って。この公園、見覚えがある」

「なに?」

「ところどころ違ってるし、妙に広いから初めはわからなかったけど、国道の南の公園じゃないかしら」

「ほんとだ!」

 朝葉が手を叩く。

「あのステゴの顔がついたジャングルジム、あそこのやつだ!」

「ステゴ?」

「ステゴサウルスでしょ、恐竜の」

 見ると、遠くに恐竜を模した遊具が置かれている。子供たちがへばりついているが、彼らがどのような姿をしているのか、ここからでは見えない。

「国道南ってことは、ずいぶん離れてるな」

「ワープしてきたんじゃない?」

「じゃあ、ここにあった学校は……」

「そこにある可能性があるわね」

 聖がまた髪の毛を掻き乱す。

「ああ、わけわかんねえ……。けど、行ってみるしかないんだろうな……」


 国道に出るまでに、三人は、ビルの壁に刺さったエスカレーター、天面に差し込み口の開いた郵便ポスト、それから鼻の下に長い尻尾の垂れた野良猫や、その他にも奇怪な造形をした生き物や建造物をたくさん見かけた。

 広い国道には、車が行き交っている。高速で流れていく車の列に、時々見慣れない形が混じる。横断歩道の上では、歩行者信号の赤色の左半分だけが青く点灯している。青い光のあったはずの部分には、何もない余白がある。

「つゆ、こういうの、なんて言うんだっけな。ナントカ界みたいな。魔界だっけか」

「魔界って、悪魔の住むところでしょ。仏教にもそんな概念はあるけど。それよりは、魔境かしら。もしくは、異界とか」

「異界って言ったらあれだろ。異世界ってやつだろ。ドラゴンとか出てくる」

「色々だとは思うけど……」

「んー、ン界だよね。ン界」

「なんだよ、ン界って」

「だから、ンの部分に好きな文字を入れてねってやつ」

「何よそれ」

「まあ、でも、魔界とか異界って言うよりは、ン界って感じだな。これは」

 タイヤが車体の上部にくっついた車が滑るように走っていく。どのような機構で動いているのか、つゆは考えないことにした。

「そうね。初めは学校とか一部の人とか、局所的な異常かと思ったけど、どうも世界全体が変わってしまったみたいね」

 車の流れが止んだ。

 青と赤に分かれていた信号が、青一色になった。

「青になったみたいだな」

 三人は並んで横断歩道を渡る。白線の一部が、ところどころ抜けている。少し離れた車道に、ちぎれたように、ぽつんぽつんと白い線が描かれているのが見える。

「公園は、あの工場の向こう側にあったはずよ」

「学校があったとして、おはよう、って登校するのか?」

「ひとまずは、そうするしかないでしょうね」

「教師の肩から足が生えてたら?」

「うっ……」

「大丈夫だよ、二人とも。なんとかなるって」

「おまえみたいに、なんでもかんでもすぐに受け入れられねえやつだって、いるんだよ」

 工場の前で、三人は一度立ち止まった。

「いいか、行くぞ」

「なかったら……、どうする?」

 つゆが不安そうに鞄を握りしめる。

「そんときゃ、そんときだ」

「そうそう。とりあえず行こ」


 工場の裏手に回ると、従業員用の駐車場、それからコインパーキングと、その向こうに開けた空間があった。

「学校は、どこだ?」

「なさそうね……」

「あっちも見てみようよ」

 朝葉が先導して、三人はコインパーキングの先を曲がる。

 すると、とつぜん、強い光が三人の目を眩ませた。

「これは……」

「まさかの?」

 それは、夏の朝のまっすぐな光を一面に反射していた。濃紺と白銀の織りなす網目模様が、風もないのにきらきらと絶え間なく波立っている。

「これは……うちの、やつだよな」

「どこの学校のも似たようなものだとは思うけど……」

「うちのだよ。しっくりくるもん」

 三人は、恐る恐る近寄って、その水面をのぞき込んだ。

「けど、これは、ずいぶん深いぞ」

「底が見えないわ」

「なんか、こう、引き込まれるよね。引きずり込まれるっていうか」

 朝葉は手頃な小石を拾い上げ、水面に落とした。

「やめろよ。踏んだら危ねえだろ」

 朝葉は耳の後ろに手を当て、水面に向かって耳を澄ましている。

「……音が返ってこない。こりゃ、相当深いよ」

「そんな小石、水の中に落としても、音はしないわよ」

「……で、プールがあって、肝心の校舎はどこにあるんだ?」

 まもなく始まる水泳の授業のために、プールは澄んだ水をなみなみと湛えていた。しかし、その底は青い闇に隠され、どれほどの深さを秘めているのか明かそうとはしない。

「この中にあるんじゃない?」

「いや、校舎はプールに収まるほど小さくねえだろ」

「でも、底の方ががどうなってるか、想像もつかないわよ」

「そうそう。広がってるかもしれないしね」

「マジかよ……」

 水に映った三人の影が、途方に暮れる本体を笑うように、ゆらゆらと揺れる。

「ひじりん、ちょっくら底まで行ってきたら?」

「あ?」

「この中で一番泳げるの、ひじりんじゃん。よっ、万能選手」

「馬鹿なこと言ってるんじゃないわよ。中にどんな危険があるかわからないじゃない」

 つゆが横から釘を刺す。

「で、行ってどうすんだ? プールの底で授業受けてるやつ捕まえて、エラ呼吸のやり方でも聞いてくるか?」

「だって……、こないだ水泳はリハビリに、って言ってたじゃん」

「もし本当に学校のみんながこの中にいたら、もうみんな、わたしたちの知ってる姿じゃないかもしれないわね」

「半魚人と並んで昼飯食える自信はねえぞ」

「半魚人! 何人か友達に欲し……」

 言葉の途中で、大きな水音が、朝葉の声を掻き消した。大粒の水しぶきが、聖とつゆに降りかかる。

「おい!」

 水面に頭と手だけを突き出して、朝葉がもがいていた。

「ちょっ、助け……、っぷ、目が……」

「泳げるだろ、早く上がってこい!」

「ちが……、目が、おかし……」

 二人の目の前で、見る間に朝葉の体が沈んでいく。異常を察した聖が、鞄を放り投げ、飛び込む。

 朝葉の落ちた場所には、既に人の影は見えない。朝葉を追った聖が残した波紋と、大小の泡が断続的に上がってくるだけだ。つゆはプールサイドに跪き、呼吸も忘れ水面をにらんでいる。

 途切れ途切れになった泡が、やがて再び数を増し、暗い水の底から二つの人影が浮かんできた。

「ぷっはぁ!」

 つゆも必死に手を伸ばす。

「つかまって!」

「朝葉を、頼む!」

 つゆが朝葉の腕をつかみ、先に上がった聖が加勢して、ようやくプールサイドに引き上げる。

「大丈夫? どうしたのよ、急に」

 激しく咳き込む朝葉の肩を支え、つゆがうつむいたその顔をのぞき込む。

「まさか、半魚人の、真似したわけじゃ、ないだろうな……」

 へたり込んだ聖が、息も絶え絶えにつぶやく。

「みんな、どこにいる……?」

 朝葉が顔を上げる。反射的に飛び退いたつゆの顔には、恐怖が貼り付いている。

「視界が、おかしいんだ……。わたし、倒れてる?」

「なに言ってんだ? ケツ付けて座ってる……」

 聖の顔が歪む。

 二人の視線に貫かれた朝葉が、両手を上げる。途端に、地面にへばり付くように倒れる。

「ねえ、なんか……、変なんだけど……」

 プールサイドに頬を擦り付けた朝葉の顔は、誰もいない虚空を見つめていた。

 いや、見つめていたのは、彼女の両手の先に付いた、二つの目玉だった。朝葉の顔にあったはずの二つの眼球は、今、彼女の人差し指の場所できょろきょろとせわしなく動いている。

「おまえ……、顔っつうか、目から指が生えてるぞ……」

「え、なに、どゆこと」

「とりあえず、一回、目つぶれよ……」

 朝葉の指の間で、手の甲からゆっくりと皮が伸びて、まぶたのように眼球を覆った。

 二人はその様子を、苦虫を噛みつぶしたような顔で見ていた。

 

 

 

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