ン界周覧ブルーベリーバス

細井真蔓

第一話 でたらめミーツガールズ

三人

 ひとつぶの果実が、折り重なったビロードのひだを転がっていく。

 よく見るとそれは、一台のバスである。わずかに紫を溶かした深い青一色の車体を、朝露に光る若葉の丘に滑らせて、一台のバスが走っている。


 高羽朝葉たかはあさはは、窓枠に頬杖をついて、流れる風景を眺めていた。

 一面に広がる緑の丘、なだらかな斜面に段々とつづく果樹園、その中に、ぽつりぽつりと浮かぶ人家の群れ。のどかで、清らかな景色だ。しかし、毎朝同じバスに揺られている朝葉にとって、それは単調な色の繰り返しとして、ただ目の前を流れていくだけだった。

「まもなく、木良山きらさん登山道入口です」

 車内のアナウンスが告げる。

 こんな朝早くに、山の上から登山道めがけてやってくる人はいない。この時間に山道を抜けてくる人もいない。運転手はのろのろとバス停を通過する。朝葉は人のいないベンチの上に、二羽の雀が戯れるのをぼんやりと眺めやる。

 視界の奥に広がる緑色の風景。

 草に覆われた緑のカーペットに、溶け込むように整然と並んだ、人の背丈ほどの低木。それはこの黄水市こうすいしが国内でも指折りの名産地として知られる、ブルーベリーの果樹である。

 木良山中腹から段々に整地されたブルーベリー畑に、見渡す限りずらりと櫛比した小さな樹木。その異国的とも言える山あいの景観は、裾野に広がる市街地との鮮やかな対比によって、目の覚めるような美しい景色を作り出していた。

 だがその美しさも、朝葉の眠たげなまぶたを持ち上げることはない。


 やがて緑一面の風景に、灰色の瓦屋根が混じり始めた。木良山の斜面を覆っていた果樹と草はらの風景は、このあたりから次第に人の気配を増していき、遠くに霞んだ人口十万人ほどの黄水市中心部へと繋がっていく。

 市の北東に位置する木良山から、南西の中心市街地へ、自然から都市へのグラデーションのちょうど混ざり合った部分にあるのが、黄水市山手と呼ばれるこの地域である。

 山手といえば、横浜や神戸など、古くから開港していた港町にある旧外国人居留地に由来した、いわゆる高級住宅地としての山手が想起されるが、この山手はそれとは違い、都市化から取り残され、古びた街並みが残る郊外の一地区に過ぎない。

 朝葉は相変わらず退屈そうに、流れる軒並みに視線を遊ばせている。

「まもなく、三尻みつしり神社前、三尻神社前です。お忘れ物のございませんよう、足元にお気をつけて、お降りください」

 バスが砂利を踏みながら、ゆっくりと停止した。

 ドアが開く。

 長い金髪を揺らして、背の高い女学生が乗ってきた。朝葉の方をちらりと見やると、朝葉の前の席にどっかりと腰を下ろした。

「ひじりん、おはよ」

「おう」

 ひじりんと呼ばれた女学生は、名を市井聖いちいひじりと言った。

 朝葉とは同じ高校に通う同級生であり、通学にこの木良山手きらやまて線を使う数少ない学生の一人である。きれいに染められた金髪で、整った顔立ちをしているためか、外国人やハーフに間違えられることもしばしばある彼女だが、生粋の日本人だ。

「ひじりん、一限、数学小テストらしいよ」

「らしいも何も、昨日寺本がさんざん言ってただろ」

「そうみたいなんだよね」

「いや、だよねって、あんだけしつこく言われて聞いてなかったのおまえくらいだぞ」

 朝葉は頬杖をついたまま、振り返った聖の横顔に、気怠げな言葉を投げかける。

「だってさあ、寺本先生の声、頭に入らないんだよね。なんていうか、心地よいノイズっていうか」

「教師の声をノイズ呼ばわりは、さすがに同情するわ……。で、結局誰に聞いたんだ、テストの話」

「姫だよ」

「珍しいじゃん。あいつがわざわざ教えてくれるとか」

「や、ついでというか、なんというか」

「あー、だいたい想像ついた」

「メッセージ送ったんだ、夜中に。そしたら、寝不足になって公式忘れたらごにょごにょ……って、怒られちゃった」

「何て送ったんだ?」

 朝葉はスマホを取り出し、画面を聖に向けた。

 見ると、深夜三時前に一言「やっほー」という吹き出しが浮かんでいる。その後には相手からの長々とした非難の文句が並ぶ。

「まあ、こりゃ、キレるだろうな」

「だって、姫が何してるか気になったんだもん」

「寝てるに決まってんだろ。律儀に返信してくるところはあいつらしいけど」

 わずかに開いた窓から、初夏のあたたかい風が入り込む。金色の長い髪と、きれいに切り揃えた鳶色の髪が、同じように揺れる。

「まもなく、鞠里まりのさと、鞠里です。お降りの方は……」

 バスが、また停まった。

 黒髪から銀縁の眼鏡をのぞかせた女学生が一人、乗り込んできた。学生は、朝葉と聖がそれぞれ隣を空けて座った二人掛けのシートを一瞥すると、通路を挟んで反対側の席に座った。

「おはよ、姫。ぐっすり眠れた?」

 ほがらかに声をかけた朝葉の前で、聖が鼻息を噴き出す。姫と呼ばれた女学生は、鞄から教科書を取り出しながら、

「おかげさまで」と冷たく答えた。

 教科書の表紙には『数学B』と書かれている。

「つゆ、いけそう?」

「……いけるわけないじゃない」

「数学、苦手だもんな」

 細い楕円形のレンズ越しに、切長の目がちらりと聖を見る。

「寝不足なだけよ。それより、二人はどうなの。ずいぶん余裕みたいだけど」

「まあ、赤取らないくらいにはな」

 言いながら、聖は朝葉を横目で見る。

 朝葉は達観したように微笑み返す。

「わたしは、習ったことを、ぶつけるだけだよ」

「ぶつけるもなにも、聞いてねえだろ、授業」

 黒髪の学生は眼鏡を外し、浅く息を吐きながら眉間を揉んだ。

 彼女は二人と仲の良い友人であり、朝葉からは姫と呼ばれているが、本名は九頭竜くずりゅうつゆと言う。

 この朝葉、聖、つゆの三人が、彼女らの通う比良金女子高等学校ひらがねじょしこうとうがっこうで木良山手線を利用してバス通学する生徒のすべてだ。たまたま同学年で、みな二年三組である。


 比良金女子高等学校、通称『比良女ひらじょ』は黄水市中心市街地の北東のはずれに位置する私立の女子校である。

 市街地から通学する生徒がほとんどで、三人のように木良山方面から通う生徒は滅多にいない。現に今も全学年で三人だけだ。特に名門というわけでもなく、偏差値もごく平均的で、周りに有名な私立高校や公立高校もあるため、お世辞にも人気のある高校とは言えない。

 ただひとつ他校に誇るところがあるとすれば、バレーボール部が高校総体常連の強豪であることぐらいだろう。今はわけあって顔を出していないが、聖もその所属である。

「そういえば、山脇先生に会ったわ、昨日」

 つゆが教科書から聖の横顔に視線を流す。

「へえ」

 聖は興味もなさそうに答える。

「また話してたわ。マネージャーの件」

 つゆはまたちらりと聖の顔をうかがうが、その表情はぴくりともしない。

「いいよ、その話は」

「考える気はないの?」

「あいつ、マジで、関係ないやつを巻き込むなっての」

 聖の言葉に怒気がこもる。つゆが反射的に目を伏せる。

「……ごめん」

「ああ、悪い。つゆはいいんだ。悪いのは……あたしだよ」

 金髪を掻き乱しながら、聖がぼそりと言う。つゆは教科書に視線を落としたまま、ページの端を握りしめる。

「ひじりんは、悪くない!」

 とつぜん、朝葉が立ち上がる。

「ひじりんは、悪くないよ」

 微笑みをたたえた顔で、聖を見下ろしながら、朝葉は繰り返した。

 ふと、バスが左右に揺れ、棒立ちの朝葉は体勢をくずした。とっさに聖が手を伸ばす。宙を泳いだ朝葉の指が、窓枠をとらえる。組み付く直前の柔道家のような姿勢で、朝葉は静止した。

「座ってろよ」

 朝葉が座り直すと、聖はつゆに笑いかける。

「余計なこと考えてたら、また公式が逃げてくぞ」

 つゆは決まりが悪そうにまた目を逸らす。

「次は、比良金女子高等学校前、比良金女子高等学校前です」

 三人が話している間に、バスは目的地に迫っていた。

 つゆはほとんどページの進まなかった教科書を再び鞄にしまい込み、代わりに定期入れを取り出す。朝葉はまた頬杖をついて、すっかりにぎやかになった窓外を眺めている。

「テストかあ……。このまま、今日の学校を通り過ぎて、明日の学校に着いたらいいのに」

「なんだ、急に弱気だな。ぶつけるんじゃなかったのか?」

「何をぶつければいいのか、それが問題だよね」

「マジで何も聞いてないんだな、授業」

 バスが角を曲がると、道の向こうに大きな校舎が見えてきた。

「あれは、今日の学校か、明日の学校か……。願わくば、明日の……」

「言っとくけど、明日は古文の小テストよ」

 つゆが冷たく言い放つ。

「神も仏も夏の風、か」

 朝葉の声は、排気ガス混じりの風にさらわれていく。

「比良金女子高等学校前です。足元にお気をつけて、お降りください」

 バスが停まる。

 聖、朝葉、つゆの順番に、三人は並んでバスを降りる。

 ずっと景色を変えない山の上のブルーベリー畑のように、昨日も、今日も、それから明日も、きっと続いていく日常の光景だ。

「つゆ、明日の古文はどのへん狙い?」

「何の作品が出るかはわからないけど、前回までの流れからすると、活用表の動詞のところを眺めとけばいいんじゃないかしら」

「姫は国語得意だから、ずるいよね」

「おまえは何かひとつでも得意になれよ」

「料理が得意です!」

「ま、でもつゆは完全に文系だよな。全教科いけそうな顔してるのに」

「どんな顔よ」

「姫はかわいいからずるい」

「市井さんは数学得意じゃない」

「いやいや、マシなだけだよ」

「ひじりんは、背が高いからずるい」

「そこはかわいいでいいんじゃねえか、おい?」

「やめて、やめて、かわいい、かわいい」

「ねえ」

「ん?」

「学校は?」

 つゆが、ふと、立ち止まる。

「え?」

「どうした?」

「学校が……」

 その視線の先には、何もない。

「あれ? 道間違っちゃった?」

 学校があるはずの場所に、開けた景色が広がっている。

「もしかして、降りるバス停間違えたか?」

「でも、この道、学校の前の道でしょ……?」

 困惑しながらも、聖は記憶の中の学校に近づいていく。

「公園だ……」

 学校のあった敷地には、公園があった。

 だだっ広い芝生広場と、その奥に色鮮やかな遊具がぽつりぽつりと並ぶ。

「犬が……歩いてるじゃん」

 聖の肩越しに、朝葉がおずおずと顔を出す。散歩する犬と飼い主のそばに『フンは持ち帰りましょう』と書かれた看板が立っている。

「なんだ、これ……」

 聖が辺りを見回す。と、やにわに走り出す。

「おい、このバス停……」

 たった今降りてきたばかりのバス停の前で、聖が立ち尽くしている。

 慌てて駆け寄った二人が、聖の指差す標識を見る。

「なにこれ、なんて書いてあるの?」

「見たままだろ……」

「うがまっ……しょらとじね……うがうえこ……ひこ……。バス停の……名前だよね」

 つゆが読み上げた通り、標識には三人が聞いたことのない停留所名が表記されている。

「こんなバス停、あったっけ?」

「あるわけねえだろ」

「ねえ……、どういうこと?」

「あたしが知るかよ……」

 見知らぬバス停。消えた学校。日常の中に入り込んだ、異質な何か。

 目の前で起こることを、なんとか咀嚼して消化しようとしていたのか、あるいは、飲み込めない事実を吐き出すタイミングを計りかねていたのか、三人はしばらく呆然と立ち尽くしていた。

 ようやく、朝葉が口を開いた。

「学校、あったよ」

「は?」

「バスの中から、見たんだ」

「そういや、言ってたな」

「明日の学校に着いたらいいのに、って、そのときは、あったよ、学校」

「バスを降りたら、なくなってたってこと?」

「こいつの話がほんとなら、そうなる」

「ひょっとして、わたしが思ったから? 今日の学校に行きたくないって、そう思ったから? 消えちゃったの?」

「ばかばかしい。あるわけねえだろ、そんな話」

「でも、現に消えてるわよ。学校」

 三人はまた黙り込む。

「さっきのバスはどこ行った?」

「行っちゃったわよ、とっくに」

 聖は歯を食いしばり、三人を取り囲みつつある得体の知れない何かを振り払うように、頭を振った。金色の髪が、早朝の透明な光にきらきらと舞う。

「ああ、もう! とりあえず行くぞ」

「行くって、どこによ」

「学校だよ!」

 聖は公園に向かって大股で歩き出す。

「待って!」

 つゆが追いかける。遅れて、朝葉もついていく。

 三人を運んできたバスは、ちょうど坂の下の角を曲がり、ビルの影に隠れるところだ。

 熟れて落ちるのを待つばかりの、まるまると肥った果実の色。その車体は、慌ただしく動き出した三人を置き去りにして、たった今、朝の街の中に消えていった。

 

 

 

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