第3章 妖精の里 ②


 つんと夏草の、むせるようなにおいが鼻をつく。一年中、寒い季節の続くこの村にも、この時期だけは夏の花が咲く。外界との結界がゆるむせいだと昔、聞かされたことがあった。

 この季節にだけ見られるという、薄紫の百合水仙の花をセフィルは今年こそは手に入れたかった。


「ねぇ、今日も行くの?」


 家を出た途端、声をかけられた。金色の髪を後ろで束ねた小さな顔がひょこっと覗いた。


「マルスか。何か用?」

「何か用かじゃないよ。兄さまがお呼びなんだけど、いいかげんに顔を見せた方がいいんじゃないかと思って」

「ああ、そうだなぁ」


 少し考える様子を見せたが、セフィルはすぐに返事を返す。


「マルスからよろしく言っておいてよ」

「またぁ…。昨日もそれだったじゃない。いくら僕でも言い訳がもうないよ」

「そこを何とか頼むよ」


 にっこり笑ってそう言われたのでは、マルスとしてもつい折れてしまう。自分でも甘いなと思いつつ、承知の意を返していた。


 マルスとセフィルは幼い頃からこの村で一緒に育った。同じ年頃の子供が他にはいなかったので、遊ぶ時はいつも一緒だった。それがある時期を境に、どこがしっくりいかなくなってしまった。原因は分かっている。


 自分があの事実を知ってしまったから。


 最近、マルスはセフィルがどこか遠くへ行ってしまうのではないかと不安にかられることがよくあった。そんなことがある筈もないと思っても、セフィルの姿に酷く不安に思うことが多かった。


「その代わり、今日は僕もいっしょに行くからね」


 マルスはそう言うと、セフィルの腕を取った。


 いつの頃からか、こうして肩を並べて歩くことが少なくなった。マルスよりまだ少しだけ上背のあるセフィル。それをちらりと盗み見して、マルスは小さくため息をついた。そんなマルスに気づく様子もなく、セフィルは元気に歩いていった。

 やがて目的の場所へとたどり着く。

 村の外れのその湖は、夏の風を受けて青くさざ波をたてていた。


「ここに花が咲くの?」


 マルスは横に立つセフィルを見上げた。が、セフィルはそれには答えず、湖面を見つめたままだった。


 ここへ来ることが日課となって、どれくらい経つだろうか。草の根を分けてまでも探し回った日もあった。しかし、求めるものは、今日も見つかることはなかった。


 セフィルの横顔に浮かぶがっかりした表情が、マルスの目に映る。


「やっぱりおとぎばなしなんだよ。そんな花、咲かないもん」


 ――誰も見たことのない花、薄紫色の百合水仙の花。


 この村の子供の寝間の語り物として、伝えられるおとぎばなしに出てくる花だった。夏の光を受けてわずかな時間だけ咲く小さな花。その花粉をあびて自らの願いをかなえたという、少女の物語にでてくる花だった。しかしそれは村の誰もが知っているおとぎばなし。現実には有り得ないことなのだ。セフィル自身も頭では分かっている筈なのにと、マルスは悲しい思いでいつもセフィルを見ていた。


 マルスはセフィルが何をかなえたいのか、薄々分かっていた。何も言わないが、セフィルはずっと自分を卑下していたから。


「ね、もう帰ろう。今日は咲かないよ。だって、つぼみひとつないんだから」


 きっと、明日も明後日も咲かないのだ。

 セフィルだって分かっているのだ。逃げられる運命と逃げられない運命がある。セフィルのものは後者なのだと。


「兄さまが、待っている」


 放っておくと、きっと日が暮れてしまうまでセフィルはここで花の咲くのを待っていることだろう。昨日もそうだった。ここのところ毎日のようにセフィルはそうして日を過ごしていたことをマルスは知っていた。それほどにセフィルは切羽詰まっているのだ。


 膝をかかえるようにして草の上に座るセフィルの腕を、マルスはそっとつかんだ。


 救ってあげたいと思った。が、今一歩、それができずにいる自分。

 幼なじみで、ずっとずっと思っていたのに。

 何も知らなかった子供の頃が、ひどく懐かしい。一緒に、泥だらけになって遊んでいた日々。だのに、ある日突然言い渡された事実。


 セフィルは一族でも酷く稀で、貴重な両性具有者だと。


 もともとこの村には子供が少ない。その事実の裏には女性が短命で一人子しか成すことができないという現実があった。マルスの母もマルスを産んだ後、一度も床を上げることがなく天へ召された。セフィルの母も彼を産んで間もなく亡くなったと言う。この地の寒さが最大の原因だと言われている。


 その昔、人間に追われてこの地へ移り住む以前には、このようなことはなかったのだと長老は言う。このままでは絶滅もそう先のことではないだろうと。

 しかし絶滅させるわけにはいかないのだ。種を守るため、せめてここよりもより良い地を探し、移り住む為にも命を引き継がなければならないのだと、母の違う兄であるルシフェルがマルスに語ったのは、何年前のことだっただろか。そして彼は、その為にセフィルを一族の王である自分の妃とすることが必要なのだと、締めくくった。


 セフィルのような両性体は、半分を男性体の因子が占めているためか、完全な女性体に比べてここの気候にも強いのだと長老は語った。よって女性体よりも安全に、多くの子を成せるのだと。


 セフィル個人を無視したこの事実に、マルスは怒りを覚えずにはいられなかった。人を『道具』としか見ていない現実に憤った。が、それなのにルシフェルの言にマルスは抵抗できなかった。何よりも「一族の為」という大義名分の前に。

 そして、芽生えかけていた自らの思いをも、押し込めることを選んだのだった。


 そのセフィルが、薄紫の花に何を望むのか。マルスはそれを思う度に胸の奥にしまったものが、ちりちりと痛くなった。



   * * *


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