ii 根須
そもそも事の起こりは根須なのだ。
仕事でこのあたりに来るから二人に会いたい、という連絡が根須から来たとき、芽衣子はとても嬉しそうにしていた。
「だって根須くんだよ? 私たちの青春の主要キャラじゃん!」
圭はただうんと相槌だけを打った。たしかに根須は二人の青春の主要キャラだった。しかし、圭は根須と会うことにどうしても気持ちを乗せることができなかった。
「なに、圭くん怖がってるの?」
そう言って芽衣子は圭をからかいすらした。いや、恐れてなどいない。さすがの圭も、芽衣子が自分ではなく根須を選ぶのではないかと恐れるほど自信を欠いてはいなかった。圭の乗れなさの原因はそこにはなかった。
もちろん、根須が芽衣子のことを恋い慕っているということは仲間内では有名な話だった。そのころの根須は芽衣子を女神として称える詩を作り、その詩が書かれた栞をはさんで芽衣子に本を貸すなどといったことを繰り返していたのだ。そればかりではない。彼は一度、とつぜん芽衣子の前にひざまずいてその手の甲に接吻するということすらやらかしている。さすがにその時は本気で嫌がったが、おおかた芽衣子は根須のさまざまな行為を笑って受け流していた。仲間内において根須の片思いは、笑うべき恒例行事としてある程度容認されていたのだ。そうして圭たちの青春は過ぎ去っていった。
圭は、その頃の根須の行動をとりたてて異常だとか気持ち悪いとか思っているわけではなかった。圭自身ふくめ、あの頃はだれもかれもが極端だったのだ。おそらく今では根須も落ち着いたつまらない大人になっているのだろう。そう分かっているにもかかわらず、なぜか圭は根須と会うことにいやな感じを覚え続けていた。
喫茶店は圭たちが押さえた。乾いたプティングが評判の喫茶店だ。窓ぎわのボックス席に座って色々なことをだらだらと喋りながら、二人は根須が到着するのを待っていた。
根須は季節はずれの重い外套を着て現れた。雨も降っていないのに暗い色の傘を持っている。その姿を一目みた瞬間、圭はああ会わなければよかったと強く思った。しかし芽衣子はむしろ顔を輝かせ、立ち上がって入口の根須に手をふった。
「ここ、ここ」
「ああ」
そう言って根須は二人のもとへ歩み寄ると、
「おまたせ」
と言って圭の向かいに腰を下ろした。奇妙な歩き方だ、と圭は思った。根須は靴底を引きずるように歩いていたのだ。足が悪いのだろうか。
「二人とも変わらないね」
「ありがと。根須くんも変わってないよ」
芽衣子はそう言って快活に笑った。圭は耳を疑った。根須くんも変わってない? 芽衣子はいったい何を見て変わってないなどと言っているのだ?
「え、なんで今日そんな分厚い上着なの? 暑そう」
からかうような声色でそう芽衣子が言うと、根須ははじめて自分に首から下があることを知ったような顔つきで自分の外套を眺めた。
「ああ、最近暑いとか寒いとかよく分かんないんだよね。すぐ変わっちゃうしさ。今日も朝は冷えてたんだよ。天候がおかしいんだか、こっちの感覚がおかしいんだか」
そう言って根須はかさかさと笑った。芽衣子も笑った。圭も笑ったふりをした。おそらくこれが根須の冗談なのだろうと圭は思った。しかし、どこをどう笑えばいいのか圭にはまったく理解ができなかった。
「最近はお仕事も順調そうで」
そう根須が慇懃な口調で芽衣子に言うと、芽衣子は
「あ、もうばれちゃってた? ありがと」
と言って嬉しそうに珈琲をすすった。芽衣子はもうすぐ新作を出すのだ。
「ばれてるも何も、仲間内じゃ有名だよ。海外からも声がかかるんでしょ? こっちのみんなも芽衣子さんのことすごいって応援してるから」
「へえ、それはいいね」
そう圭は相槌を打った。しかしその裏で圭は、根須の言葉への違和感を抑えきれずにいた。仲間内じゃ有名? みんなも応援してる? 根須は、こいつは本当にあの頃の仲間たちと今でも会っているのか?
「てか、そっちの連中は今でも集まって飲んだりしてるの? 羨ましいんだけど」
ついに圭は抑えきれなかった違和感を疑問という形で口に出した。圭は明るい声色を心がけたつもりだったのだが、そのとき一瞬だけ根須の顔に影が差した。
「……たまにはね」
そう言って根須は軽く肩をすくめ、
「今じゃみんな忙しいしさ」
と付け加えた。
「そうだね、今はみんな忙しい」
圭はそう根須の言葉を繰り返し、カップを持ち上げて珈琲に口をつけた。ここの豆はやけに酸味が強い。芽衣子からは「この酸味がプティングに合うんだよ」とよく言われるが、いっこうに圭はここの珈琲の酸味を好きになれずにいた。
「圭くんは最近どう、仕事」
根須はそう言って圭にサーブを飛ばした。
「ああ、芽衣子ほどじゃないけど順調だよ」
「いいじゃん」
「一応もう主任だからね、名前だけだけど。このあたり全部と隣町まで任されてる。まあ、下の教育もやらなきゃだから結構大変だよ」
「へえ、凄い」
そう言って根須は少しだけ眉を引き上げた。依然として圭は根須になんとも言いがたい不信感をいだきつづけていた。しかし、それにもかかわらず圭の口からは自慢の言葉がつらつらと流れ出た。圭はなぜ自分がこれほど自慢をしているのか理解ができなかった。根須に対して何を誇ろうというのだろう。自分が根須に負けることなど、どの土俵においてもありえないのに。
「忙しくない? 二人の時間は取れてる?」
もちろん。と圭が答えようとしたとき、それをさえぎるように芽衣子が口を開いた。
「ええ、まあ、一応」
芽衣子がそう言って軽く口角を上げると、根須は
「ふうん、よかった」
と言って笑った。そのとき圭は、芽衣子が自身と根須とのあいだに薄い一枚の膜をはったのを感じた。それは圭にとって好ましいことであった。芽衣子が根須との会話を楽しんでいるのを見ているといやな気持ちがしてくる。むろん嫉妬ではない。嫉妬ではないのだが……
「根須こそ最近どうなの。仕事」
圭は友好的な表情を浮かべながら根須に対して探りを入れた。
「あー」
そう低くつぶやいて軽く天井を見上げたのち、根須は
「今は特に何もしてないんだよね」
と答えた。
「え?」
圭より先に芽衣子が声を漏らした。
「……何も?」
圭も一拍遅れて聞き返した。
「うん。恥ずかしい話だよ」
そう言って根須はふたたびかさかさと笑った。すじ張った未知の虫が羽を互いにこすり合わせているような、気味の悪い笑い声だった。
「でも、仕事でこのあたりに、って」
そう芽衣子が当然の疑問を口にすると、根須は
「ああ」
と言ってしばし目を見開いた。そして根須はぼりぼりと頭を掻くと、
「何もしてない、っていうのは言い過ぎだったわ」
と言ってふたたび肩をすくめた。
「やっぱしてるじゃん。何やってるの?」
芽衣子は安心したような声色でそう根須に問いかけた。すると根須の顔色はなぜか少しだけ曇った。
「そうだね。今は、どっかからどっかにものを運ぶ、っていう仕事をやってる。別に宅配便とかじゃないんだけどね。広義の運送業なのかもしれない。ネットで仕事を取ってくるんだ。便利な時代だよ」
先ほどまでとは打って変わって、根須はいかにも話したくなさそうな口ぶりで自らの仕事を語っていた。そして圭もまたその話には興味が持てなかった。正確に言うと興味はあるのだが、なにかその先には知るべきでないものが横たわっていそうだと感じたのだ。
「オーケー。分かった。ま、お互い色々あるよね」
圭がそう言って話を切り上げると、根須はほっと息を吐いて額をぬぐった。芽衣子もややこわばった微笑を根須に向けた。
「でも、二人が仲良さそうでほんとよかったよ」
そう根須がお世辞を言うと、芽衣子はまた最初のように
「嫉妬した? 私のこと好きだったもんね」
と冗談めかした口調で言った。
「あの頃かあ。あの頃のことを言われると困っちゃうなあ」
根須は笑いながら、しかし全く困っちゃうように見えない表情でそう言った。
「別にいいんだよ? またここで詩を読んでも」
そう圭は根須に追いうちをかけた。根須は頭を掻いて照れ、三人はひとまず明るく笑い合った。
三人の笑い声が収まったとき。
「差し出がましい質問かもしれないけど、――子供とかは?」
根須は唐突に、そう一つの質問を圭に投げかけた。圭は虚を突かれた。
「あー、子供、ね。今のところは無いかな。欲しくないわけじゃないけど」
そう言うと圭は親しみ深そうに芽衣子に目をやり、
「お互い忙しいしね」
と言った。
「ああ。まだ若いもんね」と根須。
「そうだね」
そう圭は相槌を打った。そしてその刹那、圭は「今こそ反撃の好機なのでは?」という直感を得た。傘を持ってやってきた根須の姿を見たときから、圭はずっと根須の目の奥にそこはかとない敵意のようなものを感じ続けていた。こいつ、ひょっとしてまだ芽衣子のことを? いや、そんなはずはない。根須の目からそのような色気は感じられなかった。しかし、もし仮にそうだとしたら……そして今、根須は三人の中で会話のサーブ権を握りしめている。
圭の身体に力がみなぎった。そうだとしたら根須は恐れるべき相手ではない。自分が根須に負けることなど、どの土俵においてもありえないのだ。今だ。いま根須に一発かましておけば、もうこいつは無駄な望みなど持たなくなるだろう。圭は口角を上げて白い歯を見せ、冗談めかした口調で次の言葉を放った。
「そうだね、それに、作ろうとすればいつでも、ね」
決まった、と圭は思った。会心のスマッシュ。これで根須は一切の希望を捨てるに違いない。勝利の確信に酔いしれつつ、圭はゆっくりと瞬きをした。
目を開けたとき、圭は何かがおかしいことに気づいた。何かがおかしい。なにか、空気の構造のようなものが根本的に変わってしまっている。圭はいやな予感をおぼえて芽衣子の方を見た。
圭は息をのんだ。芽衣子の口元はたしかに笑っていた。しかし、その目は二個の黒豆のようにうつろなままこちらを向いていた。芽衣子は少しだけ、ほんの少しだけ首をかたむけていた。圭はその首の角度から、芽衣子がね、に対してこちらに問いを突きつけていることを悟った。ね? なにが、ね、なの?
「ね、か」
そう言って根須はかさかさかさと笑い、ここではじめて珈琲カップに口をつけた。珈琲の黒い液から白いもやが立ちのぼって根須の顔を覆う。
それからの会話を圭はほとんど記憶していない。昔の思い出話をしたような気もするが、すべてはかすみの向こうに消え去ってしまっている。圭はただいちばん最後の会話しか覚えていない。最後、根須が帰る直前に圭は次のような冗談を飛ばしたのだ。
「なあ根須、やっぱりまだ芽衣子のこと好きなんだろ?」
圭がそう言うと根須はしばらくかさかさと笑ったあと、
「いいや、別に」
と答えた。そして根須は重い色の傘を持って圭たちの住む地方をあとにした。
最後のいいや、別に、を聞いた瞬間、圭は自分の中でなにかが崩れる音を聞いた。そしてそれとともに、圭は自分が根須に対して「自分は今も芽衣子さんが好きだ」という言葉を期待していたことに気づいた。自分は今も芽衣子さんが好きだ、だからこうして遠路はるばる復讐にやってきたのだ、と。しかし、そのようなことを根須が言うはずはなかった。
そしてその日の夜、芽衣子は声の抑揚を失った。
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