花はすつかり散つてしまつた
黒井瓶
i 芽衣子
「怒ってなんかないよ」
ソファのはしに座ったまま、芽衣子はそう言葉を発した。その言葉は圭に向かって語られたというより、うみ落とされた無精卵のようにただころんとリビングを転がった。
「怒ってるわけないじゃん」
芽衣子の声色には抑揚がなかった。圭はただうつむいて芽衣子の次の言葉を待った。怒っていないわけないじゃないか。圭は一瞬、自分の頭の内にそのような思いがおどり出るのを感じた。しかしすぐに圭はその思いを取り消した。いや、芽衣子は本当に怒っていないのだろう。彼女はただ問いかけているだけなのだ。調書を持った検察官のように、いたって職務的に。
「私はただ知りたいだけ」
圭の想像を裏づけるように芽衣子はそう言葉を放った。その声からは一切の抑揚がぬぐい去られていた。その声は、たとえば日本語学校の学生が教科書の文言をたどたどしく読み上げるさまに似ていた。
ついに圭は顔を上げ、ソファのはしの芽衣子に向かって問いを投げかけた。
「何を?」
すると芽衣子は窓に目をやったまま、ただ一言
「ね」
と答えた。
圭はふたたびうなだれてしまった。正直なところ、はじめから圭は芽衣子がどう答えるかを知っていたのだ。それなのになぜ自分は質問など飛ばしたのだろう。馬鹿じゃないか、と圭は心のどこかで自らを冷たく笑った。
「あの、ね、について私は聞いてるの。あの、ね、はどういう意味だったのか、って」
それだけ言うと芽衣子は口を閉ざした。圭も口を閉ざした。ただ窓を打つ水の音だけが部屋を満たした。
やたらと雨が降っている。庭の木が横から風にあおられて動物のように身をゆすっている。往来には誰も人がいない。
圭は芽衣子の隣に腰をおろすと、その大きな身体をソファの背もたれに預けて天井を見上げた。そして圭は、父が娘に語るような声で
「芽衣子が可愛いからだよ」
と言った。
「芽衣子が可愛いから、つい自慢したくなっちゃったんだ」
「……はは」
はは、という二文字のひらがなを2Hの鉛筆で走り書きしたような声で芽衣子は笑った。圭は芽衣子の肩に手をかけ、その顔を覗き込んで
「ごめんね」
とささやいた。
「ううん。いいよ」
芽衣子はそう言って圭の唇に口づけした。そしてそのまま二人は抱き合い、しずかにソファへと倒れ込んだ。
芽衣子の身体にはこわばった所がどこにもなかった。その身体をやさしく抱きしめ、圭はやはり芽衣子は怒ってなどいなかったのだという確信を強めた。しかしそれは圭が許されたということを意味してはいなかった。芽衣子はただ追及をやめただけなのだ。追及がないことと許しのあいだの違いを、圭は深く承知していた。
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