4

 どうにか敵を背負いつつ、竜の口と呼んでいる大岩まで後退した。

 いや、逃げた。

 ここは大きく突き出している崖の下がえぐれていて、洞窟のようになっている場所だった。

 先に入り口さえ押さえてしまえば、横や後ろからの攻撃はない。

 正面に注力しての、防衛戦。

 消極的ではあるが、現在取りうる最善の手だと思えた。

 事実、穴の前に独り立ち塞がって奮闘する俺を、ケルベロスは攻めあぐねた。

 数度にわたる魔獣の波状攻撃をなんとか凌ぐと、魔獣は一旦下がって遠巻きにした。

 監視の数頭と、入口を守る俺。

 互いに動きが止まり、そこからは膠着状態が続いていた。

 いつしか夜も更けていく。

 興奮が冷め、夜の冷気の中で落ち着いてくると、どっと疲労を感じる。

 敵の攻撃を凌ぎやすいというのはこの洞窟の非常に良い利点だが、気持ちのうえではひどくしんどかった。

 白い魔獣たちに動きがなくても警戒し続けねばならない。

 けれども敵に動きがなければ緊張感を保ちにくい。

 立ち塞がる俺は一人きりで、座って休むことなどもちろんできないのだ。

 対する相手は複数だ。

 前に立つ者は適当に交代し、下がったものは休みをとっているのだろう。

 自分自身の気力と体力がいつまで保つかと先を思うと、気持ちはさらに落ちていく。

 ティファネは剣は使えないから、交代してくれる奴はいない。

 さっき確かめたとおり、弓矢もここにはない。

 よってティファネからの援護は期待できなかった。

 もっともティファネは怪我を負ったケルベロスの子供にかかりきりだ。

 弓矢があったとしても、どうだろうか。


——果たして奴らが引くなどという、運のいいことが起こる、か?——


 答えの出ない問い、思いつかぬ方策、泥のように重く感じる身体……


「ねぇキラン、どうにかならないの」

「……どうにかって?」

 正面の警戒を緩めるわけにはいかないから、振り返らずに答えた。

「ここじゃ手当ができないよ。早く傷に薬草でもつけてあげなきゃ、この子は死んじゃう」

 その言葉に、背を向けているから俺の顔を見られずに済んでよかったと思ってしまう。

——馬鹿言うなよ、誰のせいでこうなったと? そんな心配してる場合か。先に死んじまうのは俺らのほうかもしれないんだぞ——

 自分の心の中だけに収め、決して彼女には言えぬことを毒づく。

 ティファネ喰ってかかりたいところだが、決してそうするわけにはいかない。

 なぜなら……

 こんな状況でそんな夢のようなことを言い出す彼女だからこそ、川岸に打ち上げられていた見知らぬ俺なんかを助けてくれたのだろう。

 そう思うともう何も言えなかった。

 ひどく喉が渇く。

 こうしているあいだにも、子供の魔獣はさらに弱りつつあるようだった。

 同じく手を差し伸べられた者としては、もちろん助かってほしい。

 それがたとえ自分を襲うケルベロスと同じ種族であろうとも、だ。

 しかし、この現状では夢のまた夢であった。


 いつしか濃密な夜が薄まりはじめていた。

 もう日の出が近いのだろう。

 いまだ手元足元は暗いが、時間の問題だ。


 そのとき、ふと、異変に気づく。

——ん? なぜだ? 自分の前にうすい影?——

 竜の口が開いている方向とは、東の方角だ。

 つまり、日の出は正面方向のはずだった。

 そうなれば当然、影は俺のうしろにでき、見えるはずがない。

 それなのに今、自分の前にうっすらと影ができているではないか。

——そんなはずない。俺は自分で思うよりも疲れているのか?——

 自分がちゃんと起きていられているのかどうか、いささか不安になった。

——確かめる必要がある、か——

 左足を引いて半身になり、横目でチラッとうしろを見る。

 するとこれはどうしたことだろうか、うっすらと明るさを感じる。

 よく見ればそれは、ティファネの身体から放たれていたように見える。

——こんな大事な時に、俺は寝ぼけているのだろうか——

 目の前の出来事に自分が信じられなくなり、自然と口が開く。

「ティファ、大丈夫か?」

 彼女の胸元には、白い毛皮が丸まって抱かれていた。

 あれほど大きく恐ろしく感じた魔獣ケルベロスであっても、彼女に抱かれる今は人の赤子と変わらぬように思えてしまう。

 彼女は俺の問いかけに、力なく首を左右に振る。

 小さく丸まったそれを優しく撫でながら、「駄目かもしれない」と。

 俺は異常事態が起きているように見えた彼女の具合を尋ねたつもりだったが、この『駄目』とはケルベロスの子供の様子のことだろう。

 俺の問いかけの意味が、どうやら伝わっていないようだった。

「いや、ティファの傷は? 噛まれたりしてない?」

「あたしは大丈夫。へんな事聞くね。それって、あたしがキランに聞くことじゃない?」

「いや、俺が見つけるまでどうだったかと思って。傷がないならいいんだ。気にしないで」

 どうやら明らかな怪我はしていないらしい。

 事態が動かなくなって、もうだいぶ時間が立つ。

 興奮して自分の怪我に気づいていない、という可能性は少なそうだ。

——なら病気か? もしかしてケルベロスから何かうつされた、とか。

 まさか……、ティファネは死ぬのか?——

 自身の理解が及ばぬ光景を見たあまりに最悪の事態を想像してしまったが、それを慌てて振り払う。

 光っているだけで、傷も出血もない

 ティファネ自身にも自覚は無いのだ。

 ならば急を要するほどに体調が悪いわけではない。

 俺はとにかくそう信じることにした。

 気を鎮め、改めて前を見る。

 それにしても、まずい状況だ。

 外の魔獣の数はいつの間にか増えていた。

 敵に増援。子犬は死にそう。

 おまけにティファネにもなにか異変が起きている。

 洒落にならないが、真剣に考えたところでどうにもならないだろう。

 俺は考えることの一切をやめることにした。

「ウッ!」

 いつのまにか昇った朝陽が俺の目を撃つ。

 顔をしかめてそらし、慌てて左手で差し込む陽をさえぎる。

 が、わずかに生まれたその隙を、奴ら見逃さなかった。

 一気に飛びかってくる白い塊に、遅れて剣を振り下ろす。

 ガキンッ!

 刀身と歯がぶつかりあう音が響き、力を込めてそれを押しそらす。

 かろうじて間に合ったが、それは右からのケルベロスのみ。

 光を遮ったときに上げた腕で生まれた死角、左方から、もう一頭飛びかかっていたのだ。

 気づいたときには顔同士がぶつからんほどに目の前で、とっさに左腕をねじ込むのが精一杯。

 小さな刃が並んだような舌の端をつかみ、力一杯握り潰さんとする。

 が、そのまま噛まれた左腕にとんでもない激痛が走った。

 とにかくどうにか逃れようと、無我夢中で右手を振り剣の柄を魔獣の鼻へと何度も叩き込む。

「離せよッ、この!」

 魔獣の鼻筋から血が噴き出し、白い毛が朱に染まる。

 すると相手の圧が弱まった。

 すかさず無理矢理に力を込めて引き抜くと、左腕が解放された。

 代わりに剣を口に突っ込んでやろうとまっすぐ突くが、逃げられてしまい、それは叶わない。

 左腕は痺れるような激痛だ、しばらく使えそうになかった。

——厳しいな——

 右手一本で立ち向かえる相手ではない。

 それでもやらねばならないのだ。

——最低でもティファネは逃すッ——

 だらりと左腕を垂らしたまま、右手一本で剣を掲げたそのとき——

「——ギャウン!」

 突然、後方で見物していたうちの一頭が血飛沫を上げ、悲鳴と共に崩れた。

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