5
木にぶつかって無様に倒れはしたものの、不幸中の幸いというべきか、懐の中身をぶちまけてしまったらしい。
すぐそこに武器があるという希望を見つけた僕は、必死でそれに手を伸ばす。
しかし迫る足音と振動で、そこまで奴が来ているのが感じとれる。
——もう少しッ……、やった!——
希望をつかみ取ったその瞬間、ドンと地面が揺れた。
やられたと覚悟するが、どうしたことだろうか、身体に痛みはない。
いや、それどころ獣は僕の目の前で夢中になって何かに喰らいつているではないか。
——今しかない!——
僕はすべてを右手のナイフに賭け、飛んだ。
——あの赤い瞳をッ!——
ついに自分の攻撃がケルベロスに届く。
硬い皮膚は貫けずとも、血の色の瞳を守るものはない。
何かに気を取られていた魔獣の瞳へとナイフが吸い込まれ、深々と刺さった。
「ギャワンッ」
耳をつんざく絶叫と、激震。
ナイフを伝って身体は激しく揺すられる。
だが勝機はここしかない、絶対にナイフを離すわけにはいかなかった。
しっかと両手で短い柄を握って抵抗する。
——こいつが死ぬか、僕が死ぬかッ——
竜巻によって宙に巻き上げられたならかくも……、そう思わせるような激しい力が、僕の身体を右へ左へ、上へ下へと乱暴に振り回す。
ひたすらに耐えた。耐えるしかない。
千切れそうになりながらも、耐え難きを耐え続けた。
そしてとうとう決着のとき……
ついに、魔獣は動きを止めてくず折れたのだ。
——やった……か。ド・フェラン、次はおまえ、だ……——
「おい、生きてるか、返事をしろ!」
「ぅ……うん、……クッ」
「大丈夫だ、なんとか生きてるぞ」
「良かった、キラン大丈夫なのね」
目をあけるとそこに、オルテガとティファネの顔があった。
——ああ、気を失って……——
ティファネの目尻には涙が見えた。
一方のオルテガは呆れた様子。
「重いんだよ、気づいたなら自分で立て!」
言われて我が身を振り返れば、オルテガに上半身を抱えられていた。
腕を引かれて立つと、離れたところにケルベロスの白い巨体が横たわっている。
その瞳には突き立てたナイフが誇らしげに光って見えた。
「僕が、やったのか」
「……馬鹿言え、あんなのは相討ちと同じだ。なんの意味もない。こいつに連れがいれば死んでたな。
それに最後にとどめを刺したのは俺だ。あの一撃だけじゃ、数日後にはくたばるだろうが、すぐには死なねぇよ。自分だけの力で倒したと思ってるなら、そりゃ大きな勘違いだからな」
「そう、ですか……」
僕はうなだれるよりほかにない。
自分ひとりで倒せたと思って喜んだのは、早とちりのぬか喜びであったとは……
「こっち向け、キラン」
オルテガに声をかけられ、顔をあげてそちらへ向く。
「グッ」
無防備な腹に、拳が鋭く突き刺さった。
「ちょっと! オルテガ!」
「ティファは黙ってろ、こいつのためだ。こんなんじゃおまえが救ってやった命だってな、すぐに消えてなくなっちまう。自分のうかつさを忘れないように、その身体に叩き込んでやっただけだ。
キラン、感謝しろよ。気を失ってたから頭を打ってるかも知れねぇ。顔をブン殴りたいところだが今日は勘弁して腹にしてやったんだからな」
「ゴホッ、それのどこにッ、感謝の要素が」
「それともあれか、衝撃で記憶が戻ったか?」
「え! そうなの」
「冗談だよ、ティファ。こいつはそんな単純な馬鹿じゃねぇからな」
腹を殴られた僕は身体を折って膝をつく。
オルテガのやりように腹は立つが、自分に落ち度があったことも確かで、否定しようもない。
自分は戦力外と決めつけていたし、周囲に気を払うこともなかった。
ここは魔獣の森で、見せ物のための安全な観客席ではない。
剣を手放すなど、絶対にあってはならないこと。
三人を見守るにしても、最低限の警戒だけは怠ってはいけなかったのだ。
「とっとと立って手伝えよ。これからがおまえの本番だからな」
オルテガはそう言い捨てると、僕の近くに残りたそうにしていたティファの肩を押し出し、向こうで作業をしているダービッドの方へと歩いていった。
僕は膝つきのままで、焦ってあとを追わずに二人の影を見送る。
——オルテガの言う通りだ。僕は学ばなきゃならない。だったら……——
ようやく呼吸が楽になって立ち上がると、さっきのケルベロスの元へと向かった。
たしかに白い獣の横っ腹には、オルテガが斬ってつけたであろう『とどめ』の傷がぱっくりと開いている。
僕は瞳に突き刺したナイフを揺すって引き抜くと、魔獣の白い毛にこすりつけて血を拭い、懐にしまった。
まわりを見渡せば、えぐれた地面にかき寄せられた枯葉といった、ケルベロスと僕が暴れまわった跡が地面に刻まれている。
襲われる前に僕が座り込んでいた場所に戻り、そこから戦った跡をたどって歩く。
この失敗を、忘れぬように……
途中で吹っ飛ばされたままだったオルテガの剣も忘れずに回収し、最後の場所へとたどり着く。
——一頭の魔獣を倒せぬ程度なら、今の自分がド・フェランを倒すなど、とても無理だ——
妄想は妄想でしかなく、現実は自分の手で積み上げてつかみとるしかない。
そんな当たり前のことに、今さら気づかされたのだった。
唇を噛みながら、三人の元へ行くと彼らを手伝う。
牙を抜き、爪を剥ぎ、柔らかい腹の皮を裂いて持てるだけ回収し、陽が落ちるころに僕らは家路についた。
この日、僕は苦い思い出と共に、オルテガの強さを知った。
そして決意するのだった。
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