4

 頼みの綱の剣を一瞬にして失う。

 さらに悪いことに、敵はまさに目の前で手の届く距離だ。

 白き魔獣の雄々しいたてがみの一本一本まで、はっきりと見てとれる。

 助けを呼ばねばと思うが、上手く声が出ない。

 こんな間近で悲鳴をあげなどすれば、一瞬で喰い殺されてしまうだろう。

 間違いない。

——虚勢でも向き合わなければ、やられる——

 愚かにもド・フェランに重ねて妄想などしていたせいだ。

 赤い瞳から目を逸らせず、僕は心の中で自分を責めた。

 ド・フェランと自分。

 今の互いの関係性とは、まさにこの状態なのだろう。

 圧倒的に迫るケルベロスと、消し飛びそうな僕の小さな命。

 しかしこうして睨み合っているあいだ、魔獣は僕に襲い掛かってはこなかった。

 攻めてきたのは剣を拾おうとして目を逸らした、そのときだけだった。

 そうだ、すでに僕は裁きの滝をくぐり抜け、奇跡を起こしている。

 ならばここで簡単にやられるはずがない。

 オルテガも言ったではないか。

 『ツキのある奴ってのは、どうやって殺そうとしても死なん』と。

 それは精一杯の虚勢だ。

 そんなことはわかっているが、自分を励ませるならもう、なんでもよかった。

 なんの根拠にならないことでも、とにかく自分を保つために頼れるものならなんでもいい。

——とにかく一歩踏み出すんだ。本当の意味で——

 根の生えたようで動かぬ足。

 それを、引きずりながらも前へと強引に出す。

 右足を少し、次は左足を少し、また右足を少し……

 そうして一歩にも満たぬ前進を何度も繰り返すうち、ようやく合わせて一歩ほどになる。

——出られた、前に。僕は震えてなんかいない。そうだ、もう一歩——

 今度は足を地面から上げ、本当に一歩、前へと進んだ。

 するとどうだろうか、驚くことが起こった。

 なぜか、圧倒的なはずの白い獣のほうが、逆に一歩下がったのだ。

 素手の僕に対し、鋭い爪に凶悪な牙で武装しているはずのケルベロス。

 ただのはったりにすぎない自分の前進から、わずかでも敵は後ろに退いたのだ。

 その事実に僕は昂った。

 そして、同時に思い出す。

 武器といえるほど立派なものではないが、懐には雑事に使うナイフがあることを思い出したのだ。

——やれるかもしれない。もう一歩踏み出してみよう。それで退がるなら、こいつは僕にのまれているってことだ。そのときは……——

 僕は懐に手を差し入れつつ、道を切り拓くべく、もう一歩踏み出そうとした。


「馬鹿野郎がッ!」

 片足を踏み下ろそうとしたその時、不意に横から突き飛ばされる。

 そのまま枯れ葉を巻き上げつつ転がった。

 バッと顔を上げると、さっきまで僕が立っていた場所にオルテガがいた。

 オルテガは剣を振り上げてケルベロスの前足を受け止め、力比べのようになっていた。

「死ぬ気かッ、素手で何ができるッ ずる賢い奴だと思ったが、ただの馬鹿かよ!」

 一瞬で僕は理解した。

 オルテガが突き飛ばしてそこに立たなければ、僕は呆気なく叩き潰されていたのだ。

 自分の愚かさに思い至ったが、このままでは終われない。

 僕は走り出した。

 弾き飛ばされた剣を拾い、オルテガを援護しなければならない。

「余計なことをするな、逃げろッ」

 そう言われて、はいそうですか、とはいかない。

 僕にとっては目の前の獣はド・フェランと同じに見えていた。

 本当にド・フェランを討つ気ならば、これぐらいの不利で怯んではいられないはずなのだ。

 意気込んだ僕はケルベロスの横へと回り込み、渾身の力で斬り下ろす。

「クッ!」

 オルテガがあんなにあっさりと首を斬り落としたのだ、僕にだって傷の一つくらいは簡単につけられる。

 そう思っていた。

 だが、現実はほど遠い。

 魔獣はオルテガとの対峙に精一杯でこちらに構う余裕などなかった。

 だから為す術なく簡単に斬れると思ったのだが、魔獣の皮膚は硬く、弾かれはしないものの斬ったという感触はまったくない。

「一度でダメならッ」

 もう一度と斬りつけるが、やはり手応えはない。

 その後も遮二無二繰り返すが、わずかに毛の奥が赤くにじむ程度。

「なんで僕じゃダメなんだ」

 成果のない斬撃に手が止まり、失望の声が思わず漏れた。

「気を抜くな!」

 ハッと我にかえるが、遅かった。

 襲う強烈な打撃に意識が途切れる。

 次に気づくと枯れ葉を枕にしたようになっていた。

 はっきりしない頭ではあったが、目の端に白い影がチラッとよぎる。

 止まっていてはまずいと、心が僕に命じた。

 あわてて必死に身体を動かし、とにかく転げ回る。

 すると近くで枯れ葉が舞い上がった。

——すぐそこかッ——

 このまま喰らえばひとたまりもないと、無防備な自分の状況に恐怖を覚える。

 止まれば死ぬと立ち上がって走り出すも、さっきはじき飛ばされた衝撃が残っていた。

 いくらも進まぬうち、よろけて幹に体当たりする始末。

 情けなくもまた地面に身体を投げ出してしまった。

 しかしそのとき、キラッと光るものが近くにあることに気づいた。

——あれは、懐のナイフかッ——

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