5
ならばそれは、寝言に違いない。
うなされでもしているうち、いつのまにか僕は口にしたのだ。
「オーギュスト・ド・フェラン」と憎む敵の名を。
そうに違いない。
僕はこの身ひとつで裁きの滝へと飛び込んだ。
だからド・フェランとの因縁を疑わせる物的証拠など、なにひとつ持っているはずがない。
そもそも囚われの身となった日から、自分がフィン・デ・ダナーンであると示す証は一切身につけていないのだ。
男はしばらく森を眺めてから、窓に腰をかけてこちらを見た。
向き合う形になり、視線がぶつかる。
しかし僕は気おくれしてそれを受け止めきれず、男の背後に広がる景色へと視線を逸らした。
——どうすればいい?——
僕は緑燃ゆる木立へと視線だけをやりながら、考えた。
——逃げるか? しかしあの窓からは無理だ。男を押し退ける前に弾き飛ばされるのがオチだ。では扉から…… いや、間取りもわからないのだ。無謀すぎる。それにさっきの激痛だ。こんなに痛む身体を抱えて逃げ出すこと自体に無理がある……——
「気分はどうだ、良くなったか?」
「あ、ええ。お陰様で」
男が開け放った窓の向こうには、白い蝶が飛んでいた。
僕とはまるで正反対に、ひらひらと自由に舞う。
「あの、オルテガ…さん、でよかったですか?」
「さんはいらん。オルテガでいい」
「ではオルテガ。
あなたはずっとこの森に? 物好きしか住まないような場所なんでしょう、このあたりは」
「フン、これはずいぶんと言ってくれるな。まあ、ろくに住むものがいないのは事実だし、意味的にはそう遠くもないがな。
さてどうだったか、俺がこの森に来て……、三、四年経つかな。俺はさ、おまえと違ってこの足でここまで来た。魚じゃあるまいし、ガルフ川を流れてやって来たわけじゃあない」
オルテガは鍛えられた太い腿を叩きながらそう言った。
——……ダメだな。この男にはおそらく気づかれている。僕が訳ありだと確信した口ぶりだ。いったいどこまで想像がついているかは不明だが……——
「何をしに、この森へ?」
「なにも」
聞き違いかと思い、「え?」と聞き返す。
「なにもしていないが、悪いか?」
「あ、いえ、そんなことは」
予想外の答えに、うまく話がつながらない。
時間を稼ぎ、あわよくば話をそらして……、そう思ったのだが、オルテガは乗ってこない。
「オーギュストとは、なんだ?」
「オーギュ、スト? さあ、なんのことか……」と目をそらす。
たとえ訳ありと男にバレても、やはり話すことはできない。
秘密を明かして男と少女の命を危険にさらしてはならない。
助けてくれた恩人に嘘をつく罪悪感はしんどいが、確実に不幸を引き寄せてしまうような重大な秘密を明かすほうが、より罪深いはずだ。
はぐらかすだけで一向に応える気のない僕に呆れたか、「まあ、答えんでもいいさ」と、真意のわからぬ言葉を吐いた。
窓枠から腰を浮かせ、反対の壁に飾られていた剣をおもむろにつかみとる。
果たしてそれは僕への脅しのつもりなのであろうか、鞘から刀身を抜き放ち、改めている。
わざわざ剣を手に取ったという、男の威圧とも思える行動に意味があるのかどうかはわからない。
だが、ここからは覚悟して向き合うべきだと、そう感じた。
——いまさらおたおたしても仕方がない。だったらこちらも仕掛けてみよう——
「オーギュストとは、寝言で?」と尋ねると、刀身を改め続けながら首を縦に振った。
よく見ればオルテガとは、剣を持つ姿がじつにサマになる男だった。
手に持った得物を無造作に素振りし、構え、軽々と放るようにして右から左へと持ち替える。
そうやって扱う姿は、どう見ても普通の平民のものとは思えなかった。
訓練されたもののそれだ。
元が傭兵なのか、騎士か兵士か……、いずれにせよ腕に覚えがあることは間違いなさそうだった。
僕は王子であったから、剣の扱いについては多少の訓練はさせられている。
その経験からしても、これだけ軽々と得物を扱う男の姿は特別に見えた。
そんな男が魔獣の森と呼ばれ、住むものもあまりいない場所へと移り、隠れ住んで数年。
それはなぜだろうかと、疑問を覚えた。
「そうですか、寝言で……
思うんですが、あなたは川から来たのではないとさっき言いました。ですがその実情、僕とたいして変わらないのではありませんか?」
男は目を細めると答えを返す。
「ほう、つまりこう言いたいのか? 俺がお尋ね者だと」
「そこまでは言ってませんよ、僕の口からはね。あくまであなたがそう言っただけのことです」
「なるほどな、たしかにそうだ。寝言と似たようなもんか」
「わずか数人しか住まぬ場所にわざわざ移り住むというのは、普通じゃあまり考えられないことだと思いますね」
「互いに探られたくない腹があると、おまえはそう言いたいのか?
おまえ、ガキのくせにずるい奴だな」
「……」
「……まあいい。しばらく好きにしろ。拾ったティファネに免じてしばらく置いてやろう。あれに泣かれても困るからな」
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