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 たとえ怪しい嘘だと疑われようとも、これでいくしかない。

 そう思えば不思議なことに、図らずも一番正しい答えを引き当てたような気さえしてくる。

「戦いで頭を打つと、そうなる奴もいたな。たいていは一時的なものだったが……

 そういうときは同じように叩くと思い出す、とも聞くがどうだ? 試してみるか?」

「えッ、それは嘘でしょう?」と、拳を固めて力こぶを見せてくるオルテガに、反射的に答えてしまった。

「さて、どうかな」

「大丈夫よ、安心していいからね。オルテガはこう見えても怪我人にそんな酷いことする人じゃないから。

 だよね、オルテガ」

「ん、ああ、まあな」

 オルテガはどうやらティファネには強く出られないらしい。

 娘がかわいい親バカ、ということだろうか。

 だとすると、ゆくゆくはティファネを味方につけたい。

 釘を刺されたオルテガは振り上げた拳を収め、腕組みをした。

 どうやら僕は叩かれずに済むことになったらしく、ホッとする。

 オルテガはそのまま目をつむり、黙り込んでしまう。

 いったい何を考えているのか、その様子からはうかがえなかった。

 ただ、早くひとりになりたい、そう思った。

「さてと」

 掛け声と共に少女は席を立ち、食器を乗せたトレーを持ち上げる。

 食べ終えて軽くなったトレーを片手で持ち、今度は自分の手で扉を開け閉めして、部屋をあとにした。

 少女が去り、部屋に残されたのは男ふたり。

 少女に比べ、男は僕に好意的だとは思えなかった。

 だから少女がいなくなったところで何か言ってくるはず……、そう構えて待つが、予想に反して男は黙ったままだった。

 何か別のことを考えているのかもしれない。

 男が黙るに任せて、僕も自分の考えに入り込んでいった。

 できればベッドから出て服を脱ぎ、自分の身体がどうなっているのか、状況を確認したかった。

 そして歩けるようならば、魔獣の森といったか、この森の状況をつかみたいところだ。

 そうだ、知りたいことは山ほどある。

 ここはグランディール国内なのか、それとも外、別の国か……

 それだけでも僕の取るべき行動は変わってくるだろう。

 ここに残るのがいいのか、そもそも残りたいと望んだとして、ここへ置いてもらえる可能性があるのかどうか。

 もし出て行くなら、どこへ行けばいい?

 たどり着いた場所で、ひとりきりで僕は何をすれば生きていけるのか。

 答えを出さねばならぬ問題はたくさんありそうだった。

 こうしてみると今の自分は、『ただ生きている』だけに過ぎないのだと気づかされる。

 名も無く、稼ぎも無く、食いつなぐあても定まらないうえに、どこの庇の下に暮らすかもわからぬ。

 なにより一番大事な復讐への道筋さえも、まったくあてがなくて、一から探さしていかねばならない。

 自分の中でたしかなことといえば、『宰相討つべし』というその想い、たったひとつだけなのだ。

 あいもかわらず男は黙ったまま。

 スープを腹に入れて気持ちが落ち着いたこともあり、休みたくなってきた。

 どうせ男は城の廊下に飾られていた石の彫像のように黙ったままなのだ。

 僕は眠ってもいいだろうと、身体を横たえると目を閉じて力を抜いた。

 しかし、すんなりと眠ることは許されなかった……


 なんの前触れもなく、男は信じられぬ言葉を口にした。

「なあ、オーギュストってのは——」

 反射的に半身を起こす。

「ウッ!」

 すると全身を痛みが襲った。

 濁流に飛び込み、あの高さの滝を落ちたのだ。

 『おまえは怪我人だ、忘れるな』と言わんばかりに、全身を走る痛みが無理矢理に僕に教えてくる。

 完全に油断していた。

 忘れたくても忘れられない、その名前を。

 まさか今日会ったばかりの男の口からそれが出るなど、誰が予想しようか。

 無条件で身体が動いてしまうのも無理はない。

 噴き出した冷や汗で背筋が寒くなった。

——しまった…… 記憶がないはずなのに、この反応。まずいぞ。この男は敵か味方かわからないのに。

 いや、冷静に考えれば僕に味方なんているはずがない。

 それよりもなぜその名がここで出るかッ、役人に突き出されてしまえば、今度こそ確実に殺されるぞ——

「どうした? 汗がすごいぞ」

 オルテガは腰に下げた手ぬぐいを取ると腕を伸ばし、僕の方へと身を乗り出す。

 僕は思わずその右手を払い上げてしまう。

「すみません、大丈夫です。食べたからかな、そう、暑いのかも…しれません」

「……そうか。ならちょうどいい。空気を入れ替えるか」

 男は立ち上がると、壁際に向かうと窓を押し上げた。

「フン、いい風だな」

 オルテガは気持ちよさそうに風に顔をさらす。

 涼しげにしている彼と同じように、森のおだやかな空気が僕の心を落ち着かせてくれたなら、どんなにいいことだろうか。

 とてもではないが、男の言う『いい風』を感じる余裕など僕にはない。

 とりあえず会話の流れが切れ、男と距離が取れた、それだけだ。

 けれど、このわずかな間が取れたことで、気づいたことがある。

 男は『オーギュスト』という言葉に何かがあると思っている。

 だから僕に尋ねたのだ。

 それはなぜか? 

 そうだ、きっと僕が口にしたからだ。

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