3

「自分で……」と断わるつもりで右手を上げるも、目の前のスプーンに動じる様子はない。

 少女は笑顔ではあった。

 が、有無を言わせぬ無言の圧を発していた。

 小さな頃は風邪をひいた時など、メイドやフォウラ姉さんに食べさせてもらったものだ。

 ふとそんなことを思い出す。

 見知らぬ少女の行為に甘えることは恥ずかしいと感じたが、せっかくの好意だ。

 かたくなに拒んで機嫌を損ねる必要もないと思いなおし、少女の優しさに甘える。

 顔を少し寄せるようにすると、スッと差し出される。

 口をつけてすすり、飲み込んで大きく息を吐く。

 そのスープはいまの僕にとって、ほどよい加減の塩味と温かさだった。

 男が言っていたように、少しとろみがついただけのごくごく薄いスープだ。

 僕は地下牢でド・フェランにやり込められて以来、食事をとっていないことを思い出した。

 それまで忘れていた空腹が、一気に襲ってきた。

「なんだなんだ。スープくらいで男が泣くな、情けない」

「え?」

——僕が、泣いている?——

 少女はスプーンを置き、服の袖で僕の頬を、目尻をぬぐう。

 そこからは、ただ泣いた。

 流れるものを止めることができなかった。

「へんな香草を突っ込み過ぎて、エグいのを飲ませたんじゃないのか?」

「ちがいますッ、ここは美味しすぎて感動するところですから」

 最後まで飲み干したスープと、流した涙……

 果たしてどちらが多かったのだろうか?


 涙を流しつつもどうにか食事が終わって一息つく。

 少女ティファネの優しさにホッとしたのも束の間のことだった。

 そしてまた突き付けられる、同じ問い。

 オルテガはまた僕に尋ねた。

 今度は「で、おまえは誰なんだ?」と短く、鋭い。

「ねえオルテガ、おまえじゃなくて名前で呼んであげたら」

「ん、ああ、それもそうか。ゴホン、おまえ、名をなんと言う?」

——そうだ、名前……——

 当然の疑問だ。

 生まれたての赤子ならともかく、いい年をして名前のない奴などいない。

 しかしだ、もう僕はフィン・デ・ダナーンとは名乗れるはずもない。

 偽のフィンが王として即位しているのだ、その名を名乗るなど頭がおかしいと思われるだけだろう。

 一瞬、忠臣ダバンの名が口から出かかった。

 が、その名を借りてはまずいと口をつぐむ。

 あとあと復讐の為に宰相に近付いたとき、ダバンの名では不審がられる可能性があると思い至ってやめた。

 目の前のふたりは自分の答えをじっと待っている。

 早く答えねばと思えば思うほど、焦ってじりじりしてくる。

 喉が渇き、キーンと耳鳴りがして、頭の中は真っ白。

 どうにも適当な名前が浮かんでくれない。

 頭によぎるのはフィンやフォウラ、ダバンにド・フェラン……

 そんなことばかりで、それがぐるぐると回っている感じだった。

「その、それなんですが……、なんと言えばいいのか…… どうにもわからないんです」

「わからない? 自分の名前がか?」

「ええ。それだけじゃなくどうしてここにいるのか、なんで川岸に打ち上げられていたのかも……」

「……記憶がないと?」

「そう、かもしれません」

「フーム、では故郷も家族の名も、自分の名前さえわからんということか……」

 フィンという存在はもういない。

 フィンは裁きの滝で死んだ。

 この世界から消えたのだ。

 もう一度それを名乗る日は、復讐が果たされたときだけだ。

——そうだ、自分はもうフィン・ダナーンではない。別の人間だ——

「残念ですが…… 自分がわかりません」

 そのあとも「何でもいいから覚えてることを話せ」などと言われたが、一切を「わからない」で押し通した。

 それよりほかになかった。

——助けてくれた恩人に対して一番初めにすることが、まさか嘘をつくことだとは……——

 情けなかった。

 自分の名を名乗ることができないということが、これほど心を乱すことだとは思いもしなかった。

 顔をあげると、オルテガは顎をさすって思案顔。

 ティファネはといえば、さっき僕の頬をぬぐった袖を、今度は自分の目尻に押し当てていた。

 彼女の物言いからはぶっきらぼうな感じがしたが、意外と激情家なのかもしれない。

 少女に本当のことを言えぬ罪悪感が、僕を襲う。

 ギュッと胸が締め付けられ、また僕はうつむいた。

 こうして下を向いてしまう姿が、かえって嘘を本当のように演出しているのかもしれないというのも、なんというか、皮肉なものだ。

——耐えるんだ。これぐらいの嘘もつけぬようならば、とてもド・フェランの首など取れぬ。

 そうだ、これは昔話とかではよくある話だ。何度か物語に聞かされたことがある。なにかの拍子に記憶がなくなる、こういうことは稀にある……——

 そう開き直って考えてみると、記憶を失ったとすることは悪手ではないように思えた。

 仮に嘘の名前を考え、出身や過去をでっち上げたとしても、それで押し通すことは難しい。

 どこかの貴族の名を騙っても、報酬をアテにでもされて、『じゃあ、お送りします』とでもなれば終わりだ。

 かといって平民の名を名乗っても、出身も親の生業もうまく答えられる自信もない。

 そもそもなぜ川に流されたことにすればいいのか。

 自分で飛び込んだ? 落とされた? それはなぜ?

 もちろん罪人と明かしたなら(無実の罪とはいえ)、『危険な奴だ』とその場で殺されても文句は言えないだろう。

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