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 そのとき何かに足が滑り、不様にも倒れてしまう。

 どうして転んだかと目をやれば、僕の腕も、絨毯も、おびただしい姉さんの血で真っ赤に濡れていた。

 ただでさえ赤いじゅうたんがさらに赤く、ぬらっと光りを帯びている。

 逃げることも満足にできない自分が情けなかった。

 なにもできないままに、ダバンと姉さんを続けて失ってしまった。

 いつの間にか、涙がこぼれていた。

 床に転がったまま、ド・フェランから顔を背けるように横を向き、両腕で顔をおおい隠す。

 せめて涙を見せまいと。

 それが十二歳の僕にできる、皇太子としてのせめてもの誇りだった。

 そんな僕に、上から声がかけられる。

「生きていることが罪。これもまた運命。罪人には……、そう、裁判がいりますなぁ。

 安心してくだされ、結果はひと月もすればわかりましょう。時間はあります。そのあいだにフォウラ様に祈りを捧げられれば、さぞかし死後の世界でお喜びになりましょうて」

「……ろ……せ」

「ん? 聞こえませんが?」

「こ……ろせッ、いますぐ! ここで! この場で殺せ!」

「残念ですが、そうはいきませんなぁ。あなたの弟を仕込んでありますが、本当に使える駒かどうか? これから見極めなければなりませんのでね。

 もっとも、この宰相の言う通りにするだけの簡単なお役目です。フォウラ様のように、勇敢で賢く、立派である必要など、いっさいありません。たとえあなたのように情けなかろうとも、このド・フェランの言葉を聞きさえすればよいだけですからな。まぁ、心配はいらないでしょうが、確信が持てるその日までは……

 非常用として、保険として、フィン王子。あなたには生きていてもらいましょうか」

 そして宰相ド・フェランは僕の髪を掴んで引き上げた。

 必死に顔をそらそうとするが、もう片方の手であごを掴み、強引に正面を向かされる。

 脂ぎった額が、僕の額に押し付けられた。

「私は情け深いだけが取り柄のお父上とは違います。血筋だけの無能に尽くすなど耐えられんッ。

 いまやわたしには、すべてがあるのです。十二年前に双子が生まれたという幸運。王子の片割れを預かり、育てるというアイデア。長年の計画、手回しにかかる準備と忍耐。一夜にしてすべてを成し遂げる実行力。

 わたしが情けをかけられるなどという屈辱は……、屈辱はッ! オーギュスト・ド・フェランとは一切の無縁! なのにあの男は!」

 いきなり顔を付き合わせる距離で叫ばれ、耳が痛む。

 顔には、ド・フェランの唾が飛んではりついた。

 堪えきれぬ不快感に吐き気をもよおし、えずく。

「いや、失礼した。この記念すべき佳き日に、いささか興奮がたかまりすぎましたわ。強者には、余裕がなければなりませんな」

 咳払いして一呼吸置くと、ふたたび顔を近づけてきた。

 ペロッ!


 ——ハッ? なにが……——


 いきなりだった。

 なんの予兆も無しに、ド・フェランが僕の頬を舐めた。

 それを理解したとき、一瞬で総身が粟立つ。

「いいではないか! じつにいい! これが弱者の味よ! お前のしたたる涙の味、まるで甘い蜜のようではないか!

 みじめで情けない、いまにも破滅せんとする者の、なんとも甘美な味がたまらんわ!」

 カチカチと歯が音をたてた。

 僕の身体が震え出し、止まらなくなってしまったのだ。

 まるで自分の身体ではないように思えるほど、勝手に動き抑えられない。

「かつては『グランディールの花』と遠くの国々まで聞こえた亡き王妃の娘、フォウラ姫。その身体をとくと味わえなかった。それだけはいささか心残りですがね」

——この男、狂っているッ——

「おまえらなにをしておるか! 近衛隊長は王子の即位に強硬に異を唱えた。『おのれの意見を通さんと剣を抜きはなち、実力行使を図る』という愚行におよんだのだ。よって逆賊ダバンの一族を召し捕らえよ! 抵抗する者は片っ端から斬り捨ててよい。どうせ処刑するのだ、手間が省ける。よいかッ、老人から女子供までッ、たとえ赤子のひとりさえ逃してはならんぞ!」

 こうやるんだと見せつけんばかりに、目の前で非情な下知を飛ばす。

 なんの罪もないダバンの家族まで、巻き込まれて殺されようとしている。

 ダバンはただ近衛としての任を果たそうとした、ただそれだけなのに……

 これではもはや、父の無事など願うべくもないだろう。

「ち、父は、王はどうなった」

「さすがに王に替えはおりませんでな。すでに別宅へと、護衛付きで出発なされましたよ。当面は無事ですよ、当面はね」

「なぜだ? なぜこのようなことを」

「なぜですと? これは異な事を……

 力のある者が、無き者の上をとる。これが自然なことでしょう。虫ケラから家畜の群れまで等しく同じ。このド・フェランめがフィン王子を制圧したようにねぇ」

 宰相は笑いながら続けた。

「真に力があるなら、情けなど無用の長物なのですよ。

 その優しさ、情の厚さ……

 それゆえに破滅を導くという、ダナーン三世らしい最期だと思われませんかな、王子。

 権力の頂点に立つ王であるならば、非情でなければならない。将来に禍根を残す双子など、即刻に片割れを間引くべきであったのです。なんと情にあつく、優しく、そして愚かであることか!」

「父が重用した恩も忘れて、勝手な言い分を!」

「嫌なら使わねばよい。それだけのこと。そんなものは人を見る目のない者の言い訳にすぎませんな。

 あぁ、何度この日を夢想したことか。明日から、いや、いまから! おまえの弟が、フィンという王子の名を奪い、名乗ることになる。おっと、フィン・デ・ダナーン王と呼ばねば不敬にあたるかな?

 もっともその実情はわたしめの傀儡に過ぎませんがね」

「ふざけるな!」

 僕は宰相めがけ、つばを吐きかけた。

「わたしは今日、機嫌がいい」

 そう言って吐きかけられたつばを拭うと、つばを拭った手の甲を口元に運び、おぞましくもそれを舐めた。

「許そう。偉大で、寛大で、冷徹なオーギュスト・ド・フェランはおまえの不敬を許そう。

 まさに権力の頂点に立つ強者の、その余裕を持ってな」

 いまいましい高笑いが城内に響く。

「衛兵、このガキを地下の特別室にブチ込んでおけ」

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