3・神様なんていない②
目覚まし時計の短針が五と六の数字の間を、長針が三十分を示した。それと同時に
ついにここまで来た! この時、この瞬間が訪れるのをどれほど心待ちにしていた事か! それまでの優兎は本の活字体を見つめたり、時計を見たりと大忙しであった。胸の奥がぎゅっと締め付けられて心苦しい。病のせいではなく、楽しみからくるものだった。
普段温厚な優兎が落ち着いていられずにいたのは、やはりフ
しかし、長きに渡って放送されたそれは、今日付けで最終回を迎える。前回は主人公と相棒のドラゴンが、世界の支配を目論む大ボス、キングドラゴン――設定が優兎の小説と若干被っている――に致命傷を負わせたところで終わった。さあ、一体どんな結末を迎えるのか! 主人公と宿屋の娘は結ばれるのか! そして、アニメスタッフは最後くらい人物の方をちゃんと描いてくれているのか!?
長針が四十分を越える頃には、優兎はもう読書どころではなくなっていた。読書する事を忘れ、目覚まし時計――ついでに言うとこの時計は「ドラゴン・レジェンド」の視聴者プレゼントで、四百字程度の感想を書いたハガキを五枚出して当てたものである――を直視していた。そうしている優兎の眼力といったら、一種の恐怖を覚えるものである。
気持ちに反してゆっくりと動く針にイライラしたり、心の中で六十秒ずつ数えたりして過ごしていると、ようやく針は五十分を指した。優兎は時計をベッドへ放って部屋を飛び出した。始まるのは六時からだが、待っていられなかった。残り十分はCMを見ながら待つとしよう。
だがここで思わぬ事態が優兎を襲った。
優兎が階段を下りて居間へ入って来た時、テレビの前のソファーには
「あ、お兄ちゃん」 瑠奈は一つ一つが袋に入れられている小さなまんじゅうを食べながら言った。「見て! このおまんじゅう、お母さんが同僚(どーりょー)の人に貰ったんだって! お兄ちゃんも食べる?」
「ああ、うん」 優兎はそれどころではなかったが、大人しくお菓子を受け取ると、瑠奈の隣りに座った。「ありがとう」
少しの間、兄妹は仲良くお菓子を食べていた。けれど、二分三分と時が経つに連れ、優兎は不思議に思い始めた。なんでだろう。いつもなら用が済み次第、瑠奈は上の階へ上がってしまうのに、今日はソファーの元から動こうとしない。
「瑠奈、瑠奈も『ドラゴン・レジェンド』見るのかい?」
優兎は嫌な予感を覚えつつ、尋ねた。
「ううん、見ないよ」
瑠奈はぱくりとお菓子の半分を食べた。
「今日はね、『魔宝少女リリー』の一時間スペシャルなんだよ?」
優兎は顔を強張らせた。
「そんな……嘘だ」
「本当だよ。何で嘘つかなきゃいけないの?」
ぐうっ、と優兎はうめいた。事実な事くらい知っている。ただショックを受けた弾みで零れてしまったのだ。
「瑠奈、なんで僕がここに来たのか分かるよね? 金曜の六時から何が始まるのか知ってるよね? ごめん、チャンネル変えさせて」
「やだ」
「……仕方ないな、はあー。瑠奈が前に欲しい欲しい言ってた『ドラゴン・レジェンド』のリフィア(妖精のキャラクター)のフィギュアあげるからさ。本当はあげたくないんだけど……最終回の為だ。その代わり手足を引っ張って壊さないよう、大事に――」
「いい、いらない」
苦肉の策をひねり出したのに、この冷たい態度。ついに優兎は怒りを露わにした。
「なんだよ! こんなに頼んでるのに! こっちは最終回なんだってば!
「そんな事ないと思うけど。お兄ちゃん大げさー」
「いやいやいや本当に! 服の色を間違えるのは日常茶飯事で指の本数は間違えるし、どころかボイスが軒並み字幕だけの魔の回だってあるんだ! 背景もとことんどうでもいいらしくて、実際の空の様子や近所の森の中を撮影して手間を省くし、城内とか雲の上とか火山みたいな特殊な環境はフリー素材や真っ白な背景で済ます徹底ぶりだぞ! キャラクターが売りの一つである一般的なアニメと比較して、多くの視聴者のニーズに応えられていないこの作品は果して
「お兄ちゃんうるさーい」
瑠奈は唇を尖らせた後、何かを思い付いたようにパッと表情を変える。
「そうだ! 録画したら?」
「リアルタイムだからこそ価値があるんだよ。絶対これを見るぞ! ってはりきって、でも他の誰かが別のを見たいからって、結果録画するハメになるのは、なんかモヤモヤするというか……むなしい気持ちになるというか。――というか、父さんがもう予約しちゃっててダメなんだ。ほら、あのお笑いのやつ」
「えー、あれ七時からじゃなかった?」
「三時間スペシャル」
春に限らず、季節の初めは初回スペシャルや特別なものが多い。いや、季節の始めに最終回を迎えるアニメがやっぱりおかしいのだろう。こうして一家族の兄妹の仲を不穏にしてしまっている。
「いいじゃん一話くらい見られなくても! 瑠奈はリリーちゃんが見たいの!」
「その言葉そっくりそのまま返すよ。僕だって、今日という日をどれほど待ち望んでいた事か!」
「優兎、瑠奈に見せてやんなさい」 母がやってきて、呆れたように言った。「あんたお兄ちゃんでしょ」
「うわ、出た。お兄ちゃんでしょ発言。それで納得いくと思う? 損だよ、損」
こんな事なら弟になりたかった、と優兎は両親から言われるたびに思った。絶対怒られるので決して口には出さないが。
「でも妹も損だって聞いたよ。なっちゃんが言ってた。お洋服、お姉ちゃんのおさがりばっかりで嫌だって」
「うぐ、そ、それは姉妹の場合だから……」
優兎は
「ジャンケンしなさい。一回勝負よ。負けても後でレンタルしてあげるから」
母の言葉に、兄妹はそれぞれ別の感情を露わにする。妹という特権で有利な立場にいた瑠奈は不満そうに、チャンスに恵まれた優兎は嬉しそうな顔をした。
だがしかし、勝負に勝たなくては意味がないわけで。勝っても負けても見れる事に変わりはないが、何ヶ月も待たなくてはならない。繰り返し見れるというのはおいしいが、この一週間でさえも、優兎にとっては長く感じたのだ。日程が定かでない中待つ事になるだなんて、ああ! どれほど苦痛な事か!
優兎は頭を働かせた。――ジャンケンには少し自信がある。瑠奈は大概最初の一回でチョキを出してくるからだ。率としては三回に二度といったくらい。瑠奈にはこの事を漏らしていないからまだ通用するはずだ。さあ、狙い通りグーを出すか……それとも様子見でチョキを出すべきか。
余ったお菓子を争奪する時よりも、どっちが先にトイレに入るか切羽詰まっていた時よりも、今日の二人はこの勝負に燃えていた。二人はにらみ合いながら、すっと拳を前に出す。
「瑠奈、後出ししたらその時点で負けだからな」
「お兄ちゃんこそ、ふざけて『くらーけん(パー)』とか『ばじりすく(チョキ)』とか出さないでよね。出したら本気で怒るから」
「出すもんか。真剣なんだぞ」
「えへへ、そうだよね」
兄妹は揃ってにやりと笑った。母はなんだこの兄妹は、と
心の中で優兎は祈った。神様神様……どうか哀れな僕に、
「「最初はグー! ジャンケンポン!」」
――勝敗は一発で綺麗に決まった。
優兎はグー。
瑠奈はパーを出した。
優兎はひざからがっくりと崩れた。瑠奈は「やったー! 勝ったあー!」とその場でぴょんぴょん飛び跳ねた。
「な、なんで……」 顔を引きつらせた敗者は勝者を見上げる。
「さっき言ってたなっちゃんって子がね、教えてくれたの。瑠奈はジャンケンする時、よく最初にチョキ出してるねって」
「なっちゃんんんんんッ!!」
優兎は悔しそうに叫んで、
「神様なんていないんだよ。へへへ……」
優兎は口をモゴモゴと動かしながら、皿に乗ったハンバーグを
「母さん、優兎はどうしたんだ? どうもさっきから様子がおかしいぞ」
優兎の父は隣りに座る母に小声で尋ねた。
「瑠奈にジャンケンで負けて、アレが見れなかったのよ。時間帯が被っちゃったみたいで。それからというもの、ずっとあの調子。……まったく、世間体で言えば中学二年生だっていうのに、まだまだ子供よねえ」
母はボウルに入っているサラダに箸を延ばした。
「あはは! お兄ちゃん子供だって!」
「口の周りに米粒引っ付けてる人に言われたくないよ」
「へえ? 米粒がついてると子供なの?」 瑠奈はぺろりと口の周りを舐めた。「なら、やっぱりお兄ちゃんは子供だあ! お兄ちゃんもついてるもん」
ここ、と瑠奈は自分の口の
優兎は肩を落とした。
「優兎、情けないぞ。いつまでもそんな調子じゃあ、飯が不味くなるだろう」 父は言った。「そりゃあ、お前が好きになったものへの熱意は目を見張るものがあるし、いいところでもあるがな。後でアニメを借りてくるんだろう? それで我慢しなさい」
「我慢しろって言ったって、そうそう簡単な事じゃないんだよ。風呂上がり用のビールを冷やすのを忘れてたら、父さんだってモヤモヤするはずだ」
「むう、それは辛いな」
「お父さん……」
便乗しないの、と母は呆れた。はははと父は笑う。
「まあ元気がない理由は分かったが、それがなんだって神様はいないって話になるんだ?」
「
「はは、なるほどな。優兎、人であれ神様であれ、他人のせいにするのはよくないと思うぞ」
「分かってはいるけど……今日にしたって――
優兎はコップの水を飲んで、皿の隣りに置いた。
「父さんは……神様って、いると思う?」
父に向けられた優兎の目は、真剣そのものだった。優兎がこんなにも不明瞭な存在に真面目になるのは、空想物語好きだからであり、また、もしいるならば、助けて欲しいと思っているからである。ゼロではない可能性は、心の支えとなりうる。
父は息子の問いを適当に流さず、本気で考えてみようと、うーんと唸った。きっといい加減に言ったって、納得はしないだろう。聞こえ映えのいい美しい言葉を並べるのもよくない。相手は自分の中学生時代よりも相当縛られた人生を送って来ているからだ。友人に囲まれてふざけ合っていた自分が、それらしい言葉をひけらかすなんて出来るわけがない。理解されなくとも、あくまで自分の率直な考えを言うのが正しいと思った。
「そうだなあ、俺は――」
父はにっと笑った。
「いるかもしれないと考える方が、気はラクだな。突然舞い込んできたチャンスも、理不尽な失敗も、諸々全部押し付けられる」
「えへぇ? さっき他人のせいにするのはいけないって言ったばかりなのに?」
「神様が発言を改めても良いって俺に言ってきたんだ」
「ははっ! 都合がいいなあ」
難しそうな顔から一変、思いがけない言葉が飛び出したので、優兎は口元に手をやって零さないように笑った。
ーー3・神様なんていない 終ーー
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