第89話 もう仮面をつける必要はないんだよ




 前日とは打って変わって、静かな波だったこともあり、渚珠の手にかかれば桟橋に船を横付けすることは朝飯前の作業だ。


 いつも定期船の発着を担当している奏空だから、素早く接岸のロープを結び付けて停泊させる。


 積み込んできた荷物を渚珠に渡して、最後に奏空が船を降りてくる。


 桟橋に揃っていた三人は、その作業が終わるまで、誰も口を開かなかった。


 誰もが分かっていた。その荷物は奏空が実家から持ち出したすべてであり、この先、彼女に帰る場所はないという決意の形なのだということ。


 でも彼女が初めてではない。渚珠も美桜も同じようにしてきたから。


「お疲れさま」


「うん……。こういう時、なんて言っていいのかな……」


 少し戸惑った顔をしている奏空に、弥咲が笑って答える。


「渚珠ちゃんのときも、美桜ちゃんのときも、奏空ちゃんが何て言っていたか覚えてる? 『おかえりなさい』だよ」


「そっか、じゃぁ、『ただいま』だね」


「よくできました! 凪紗、カートに積んで運んじゃおう。渚珠ちゃん、船をマリーナに回しちゃってくれる?」


 弥咲がその場をサラッと片付けて、全員が再び応接スペースに集合していた。




「今回は、皆さんを変なことに巻き込んでしまって、本当に申し訳ありませんでした」


 奏空が深々と頭を下げると、凪紗が首を横に振る。


「もう終わったこと。口調も戻して? 気味が悪いわぁ。それよりも頑張っていたんだねぇ」


 テーブルの上には、宙に浮いた状態でいろいろな写真や記事が表示されている。


 実に「長谷川奏空」と検索するだけでこれだけの情報が出てくるのかと驚くほど。


 ただし、彼女の実態を書いてあるものはほとんどなく、学校の成績や当時の制服写真だけでなく、天使様と言われていたエピソードも出てくる。そんな天使様がALICEポートに就職したことや、現在の制服姿もあり、自分たちの知らないところで行われている人気投票でも彼女は断トツ1位を誇る。


「勝手に天使だって言われても困っちゃうよね」


 美桜もここに職を決めるまでは、『奇跡の天使』というネーミングが付けられていたから、その面倒さは分かっている様子。


「でも、みんなが求めている私の姿は『天使様』のそれであって、本当の私は、泣き虫で、怒りっぽくて、我がままで……。自分が好きになれるところなんかなくて…。でも、学校ではそれを演じることで身を守っていたというか。もちろん陰口を言われていたのも知っているけれど、自分を押し殺していたな……」


「あるある、そういうの!」


 それはここにいる全員が共通して経験していることだから。


「でもさ、ここにいて、オフの時の奏空ちゃんは違うでしょ? 少なくともあたしには違って見える。『天使様』的じゃなくで、素に可愛いって思う。それに気づいたのも最初に三人でここを始めて、渚珠ちゃんが来たあたりからだなぁ」


「そ、そうかなぁ……」


 こういうものは本人が一番気づかないものだ。


「うん、私もそう思う。渚珠ちゃんが来てから、みんな素が出せるようになったというか……、多少ドジしてもみんな同じだって言うか……」


「凪紗ちゃん、それってわたしがドジっ子ってことだよね……。でも、奏空ちゃんが最初に教えてくれたんだ。ALICEの名前に負けちゃいそうなときがあるって。だから、みんな一緒なんだって教えてくれたからものすごく気が楽になったし、そんなメンバーだから一緒にいたいって思ってるわけだしね」


「私も同じです。ALICEって名前で尻込みしていたのに、渚珠ちゃんはいきなり自分で操縦桿握っちゃうし。あんな凄い腕を持った人たちがみんなで笑っている。正直なところ、私もここに来て10分後には答えを決めてました。誰も遠慮なく素でいられるからの心地よさなんだって」


 最後にメンバーに加わった美桜の感想は一番客観的なものだろう。


「奏空ちゃんも、もう仮面を付ける必要はないんだよ」


「はい。これらもよろしくお願いします。迷惑かけちゃった分だけ、ご飯作りますね。今夜は楽しみにしていてください」




 その日の夕食の席はこれまでの鬱憤を晴らすように奏空の腕がフルに発揮された。


 その席で、渚珠はALICEポートのリニューアルの一環として、制服の一新を提案して全員から賛同を得た。


「随分と思い切ったね。制服変えるって結構手続き大変なのに」


「だって、全員揃ったわけだしぃ。もう仮の姿じゃないでしょ? カタログはダウンロードしてあるから、このあとみんなでデザイン決めようよ」


「決まらなさそう!」


「今と同じで標準服は決めて、普段は各自のカスタムができるように掛け合っておいたんだぁ」


 食事の後の時間、この週の前半とは全く違った年頃の女の子たちの笑い声はいつまでも続いていた。


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