私がいくら拒否をしても、お兄ちゃんは諦めませんでした。


「ここに来て周りに信用できる奴なんかいないだろうが、俺の親父もお前の事を心配している。俺だってチビのお前がこれ以上…………マズイ、逃げるぞ」


 話している途中だったのに、お兄ちゃんは私の手を引いて、突然走り出しました。


 どうしてなのか訳もわからず、険しい顔で走るお兄ちゃんに、必死について行くと、背後から獣のような息遣いが聞こえているのに気付きました。


 気になっても、後ろを振り返る余裕がありません。


 走っている途中で、お兄ちゃんはあの音が鳴らない笛をもう一度吹いていました。


「この辺は殲滅した直後なのに、何でこんな所にまであいつらがいるんだ」


 お兄ちゃんに手を引かれながら走る中、視界の端に、木々の間で佇むあの怖い魔女の姿が映り、恐怖が一気に増しました。


 魔女の姿を見て気が散ったことと、空腹で体力が落ちていたことが影響したのか、木の根っこに足を取られてころんでしまい、そこでお兄ちゃんも足を止めました。


 剣を抜いたお兄ちゃんは、地面に膝をついている私を背にして立ちます。


「走れるか?」


 一度足を止めてしまうと、ガクガクと震える足を動かす事ができませんでした。


 それに、息が上がってまともに返事もできず、お兄ちゃんを見上げるだけでした。


 私には視線を向けないままお兄ちゃんが睨みつけているのは、私達が走ってきた方向で、その先からのそりと現れたのは、大人の背ほどもある四つ足歩行の魔物が三匹。


 低い唸り声と共に鋭い牙がいくつも見えて、黄色い爛々とした目が私達を捉えていました。


 初めて見るその禍々しい存在に、ただただ体を小さくする事しかできなくて、さらに、魔物の遥か後方に笑いながらこっちを見ている魔女がいて、私のせいでお兄ちゃんが危ない目に遭っているのだと察しました。


 私目掛けて飛び掛かってきた最初の魔物は、喉を貫かれ、剣を払うように地面に引き倒されると、地面で少しだけ痙攣を繰り返し、動かなくなりました。


 一匹を簡単に倒したお兄ちゃんは、でも、険しい表情のまま目の前の事に集中していました。


 その理由は、残り二匹の魔物に囲まれたお兄ちゃんは、後ろにいる私を守っているせいで、ひどく戦いにくそうに剣を振るわなければならなかったからです。


 この状況は私のせいなのに、私を庇っているから、残りの二匹から嬲られるように傷をつけられていく。


 目の前で血飛沫が舞うのを、ガタガタと震えてみつめるしかなくて、魔物の大きな爪がお兄ちゃんの胸を深く抉って、たくさんの血が飛び散った。


 それを受けて地面に倒れた兄ちゃんの手を握ると、


「逃げろ……」


 絞り出すようにそれを告げ、目を閉じてしまいました。


「お兄ちゃん!!お兄ちゃん!!」


 何度呼んでもお兄ちゃんは目を開けてくれなくて、二匹の魔物はお互いを牽制しながら私達にジリジリと近づいてきていました。


 咄嗟にお兄ちゃんに覆いかぶさって、“来ないで!!”と叫んでいました。


 意味がないとわかっていても、叫んでいました。


 でも、状況に変化があったのは、私が叫んだ直後の事でした。


『グルルっ、ギギギギっ』


 私の声に呼応するように、魔物の足元から突然黒い影が這い上がってきて、キリキリと巻きつき、締め上げ始めたのです。


 二匹の魔物は動きを完全に止めて、苦しげに呻いています。


 私の魔法……なのだと思っても、ただ動きを止めただけで、これ以上は魔物をどうにかする事ができないようでした。


 どうしよう。どうしよう。


「お兄ちゃん」


 声をかけても、地面に倒れているお兄ちゃんからは、血がたくさん流れて動かない。


 早く、手当てしないと、誰か、誰か、あの怖い大人でもいいから……


 魔女でもいいから……


 弟子になると言えば助けてもらえるのか……


 その姿を探すように顔を上げると、私の願いに応えるかのような足音が聞こえてきました。


 その姿を確認する前に、突然、熱風と炎が目の前で巻き上がり、魔物二匹を燃やし尽くしていました。


 それはまるで、お母さまの魔法のようで……


 少しだけ見惚れていると、壁のように燃え盛る炎の向こう側から複数の足音が聞こえてきたので、お兄ちゃんから離れて茂みに隠れました。


「おい、大丈夫か?」


 お兄ちゃんに真っ先に駆け寄って来たのは、赤い髪の男の人です。


 この人が炎の魔法を使ったのだと思います。


 炎を腕に纏わせながら近づいて来ましたが、お兄ちゃんの姿を確認すると、その炎を消して後方に向かって叫びました。


「エレン!!怪我人だ!!意識がない!!」


「はいはーい……ああ、これなら大丈夫でしょ。治療だけして私も帰るから、ギデオンは先に戻ってもいいわよー。あ、男爵家がもう一人子供を探しているんだっけ?」


 木の影になってもう一人の姿は見えませんが、お兄ちゃんを助けてくれているようです。


「ミナージュ家が大量に人員を投入した。後は俺達じゃなくてもいいだろ。その子供は助かるのか?」


「傷は塞いだわ。出血量が多いけど、寝てれば回復するでしょ」


 次々に声をかける複数の大人に抱えられて、お兄ちゃんが連れて行かれます。


 赤い髪の人達の話で、お兄ちゃんは大丈夫だとわかったけど、手を握りしめて祈りながら見送る事しかできませんでした。


 危機は去ったのか、もう大丈夫なのか、私はどうすればいいのか。


 怖い魔女がここに来る前に逃げ出してしまいたいと思っていると、大人達が立ち去った後、少し離れた場所に赤い髪の男の人が残っているのが見えました。


 その人は、おもむろに地面に手をかざすと、足元に光が浮かび上がってきて、その中に吸い込まれるように消えていきました。


 不思議な光景でした。


 あれは、どこか遠くへと運んでくれる光なのか、どこでもいいから私もそこに行きたいと思っていました。


 お兄ちゃんの無事を願いながらも、赤い髪の人にお母さまの姿を重ねて、恋しくて、会いたくて、天国だと嬉しいなと思いながら、まだ光の残る地面に足を踏み出していました。






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