しばらく走って、誰も追いかけてこない事がわかると、そこで気が緩んで、座り込んでグスグスと泣いていました。


 一度にいろんな事が起きて、私には嫌な事ばかりで、怖い事ばかりで、もう限界でした。


 ママと過ごした家に帰りたい。


 シリルにぃ様に会いたい。


 こんな所に居たくない。


「帰りたい……」


 拭っても拭っても涙は次々に溢れてきて、このままカラカラに干からびてしまうのではと思っていました。


 お腹が空いて、喉も渇いて、どれだけそこに座り込んでいたのか、もう動きたくなかったのに、足音がして、体を緊張させてそっちを見ました。


「お前、ステラか?こんな所まで一人で来たのか」


 木々の間からスッと出てきて、声をかけてきたのは、少し年上のお兄ちゃんでした。


 シリルにぃ様と同じくらいの年齢のお兄ちゃんで、怖い大人じゃなくて、少しだけ安心しました。


 お兄ちゃんを見ると、初めて見る銀色の髪が、陽に当たってキラキラしていました。


 タリスライトには、こんな髪色の人はいません。


 それから、お母さまやシリルにぃ様のような青い目ではなくて、薄い紫色で、それも初めて見る色で、珍しくて、綺麗で、少しだけ今の状況を忘れて魅入っていました。


「帰るぞ。エステルが心配していた」


 そう言いながら、ポケットから小さな細長い笛を取り出すと、それを吹いています。


 不思議と音はしません。


 私の方は、エステルお姉さまの名前を聞き、反射的に、嫌だと首を振っていました。


「自分の家が恋しいのだろうけど、今は男爵家に戻るぞ。ここは危険なんだ」


 嫌だ。怖い。戻ったら殺される。


 それしか、私の頭にはありませんでした。


 エステルお姉さまの秘密を知ってしまった以上、私がどんな目に遭うかわからないし、お姉さまがどうなってしまうのかもわかりません。


「お前、いつから風呂に入れてもらえてないんだ?」


 お兄ちゃんは、怒ったように言いました。


「それに、メシも。ちゃんと食わせてもらっていたのか?」


 メシ、つまり、ご飯と聞いて、お腹が空いている事を思い出して、それを意識するとくぅぅっと鳴っていました。


 お兄ちゃんは、ますます怖い顔になりました。


 ベルトに下げていた小さな鞄に手を入れると、


「ほら、とりあえずこれを食べてろ」


 缶に入っていた飴を手に乗せてくれました。


「ありがとう……」


 赤色の飴を口にいれると、甘い味が広がります。


 久しぶりのお菓子で、嬉しいのに泣きたくなりました。


「お前、お菓子をあげるからって言われても、知らない奴にはついて行くなよ?わかったか?全部食べていいから、これはお前が持っていろ」


 それから、四角い缶を私の鞄に入れてくれました。


「ほら、行くぞ」


 お兄ちゃんが手を差し出してくれても、首を振ることしかできません。


「いや、俺は別に人攫いじゃないぞ?エステルから頼まれたんだ。お前を連れ戻して欲しいと」


「エステルお姉さま……元気になったの……?」


「ああ。だから、帰ろう」


 お姉さまが元気になったのは嬉しいし、お兄ちゃんが怖くないのはわかりましたが、私はあの家に戻るつもりはありませんでした。


「どうすればいいんだ。とりあえず、水も飲め」


 うつむいて黙り込んだ私に、革水筒も差し出してくれたので、両手でそれを受け取ろうとすると、


「お前、その手、どうしたんだ?」


 私の肌色でも目立つ、全体的に黒っぽく変色した腕は気持ちの悪いもので、袖の中に隠そうとした弾みで水筒を取り落としてしまいました。


「ごめんなさい……お水……」


 叱られるかもと、おそるおそるお兄ちゃんを見上げましたが、その顔は、私に怒っていると言うよりも……


「なんで、こんな事になっているんだ!!」


 他のものにぶつけるように叫んでいました。


 ビクリと体を震わせた私を見て、“悪い”と謝ってきます。


 お兄ちゃんは私の手を握って袖を捲り上げると、おもいっきり顔をしかめて言いました。


「ステラ。お前の状況はわかった。お前はエステルの家にじゃなくて、俺の家に連れて行く。男爵家とは隣り合っているミナージュ辺境伯領だ」


 ミナージュ辺境伯領とは、広大な森林を挟んで隣国と接しており、数年前までは頻繁に国境沿いの小競り合いが起きていた。


 現国王が友好関係を結ばれてからは、争い事は起きていない。


 時折現れる魔物による被害があって、勇猛果敢な猛者の集まりである辺境伯領の兵士達により、速やかに討伐されている。


 と、お兄ちゃんは説明してくれました。


 魔物とは、地を駆ける獣型から、空を舞うワイバーンなど、様々な種類がいる。町中に現れる事はないけど、でも、つまり、ここは怖い森なので、早く移動した方がいいと、私に言い含めました。


「すぐに、他の狩猟小屋を見に行った俺の家の連中が来るから、一緒に行くぞ。大丈夫だ。もう、お前が酷い目に遭うことはない。怖い思いもさせないから」


 私の手を握った少しだけ大きな手は、シリルにぃ様のようで、お別れしたのは少し前のことなのに懐かしく思えました。


 このお兄ちゃんは、信用できる。


 でも、やっぱりお兄ちゃんと一緒に行くことはできません。


 お兄ちゃんの家がお姉さまの家のすぐ近くなら、あの怖い人達がいつ来てもおかしくないからです。


 あの人達は、あの人は、お母さまとは違う悪い魔女です。


 魔法を悪い事に使う、怖い魔女です。


 今度はこのお兄ちゃんが怖い目に遭う気がして、嫌な予感がしていました。







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