お腹がでてきたら読む話し

あめ

"ぎっとり"

あれ、お腹でてきたんじゃない?

どきっとした。


 帰りの通勤電車に揺られながら、隣の席のグループが話していることだった。なんでも、隣に座っている女性が妊娠しているらしい。横目にそうかなあ、と言いながらお腹をさする、幸せそうな顔が見えた。

 最寄駅で電車を降り、エレベーターに乗りながらお腹をさすった。落胆混じりの顔だっただろう。近頃めっきり痩せなくなったのだ。

 駅前に止めてある自転車に乗って自宅へと向かう。僕はあの時どきっとしてしまった自分にショックを受けていた。この落胆した気持ちをどうしようか…。

 ふと前を見ると赤提灯の柔らかい光が見えた。明かりに吸い寄せられるように自転車を漕ぐと、”おでん”と書いてある。こんなところにおでん屋があったかな、と不思議に思ったが、格子戸を通り抜ける暖かい光と俯いた気持ちが僕の背中を後押しした。よし、と意を決して僕は店の中へ入った。


 扉を開けたとたん、芳しい出汁の匂いが僕を包み込んだ。さっきまでの落胆した気持ちが嘘のように感じられた。何を食べようかな…。

 大根、卵、つみれ、牛すじ、昆布、たこ、はんぺん、がんも…定番の具材が店内の壁に並ぶ中、一際異様な文字が目に留まった。

"ぎっとり"

注文した。僕は迷わず注文した。

 すぐにそれは僕の前に現れた。半透明に光るそれは店内の黄色い柔らかい光に照らされて神々しいとも言える煌めきを放っていた。噛み締めると口の中で油が弾け飛んだ。その名前のように濃厚な油の旨味、しかし不思議と体に染み渡るような、安心感さえ感じられる味だった。

ぷちっじゅるじゅるじゅわぁ…ぷちっじゅるじゅるじゅわぁ…

一心不乱に頬張ると顔中が油まみれになったが、そんなことはどうでもよかった。

ぷちっじゅるじゅるじゅわぁ…ぷちっじゅるじゅるじゅわぁ…

ぷちっじゅるじゅるじゅわぁ…ぷちっじゅるじゅるじゅわぁ…

ぷちっじゅるじゅるじゅわぁ…ぷちっじゅるじゅるじゅわぁ…




-お、おはよう、店はどう?

-それが昨日の客に店のものほとんど食べられちゃってね…

-災難だったねぇ、材料の仕入れが大変だって聞いたけど。

-ああ、でも材料はすぐに仕入れられたのさ、お腹がでてたからね、たくさん取れたんだ。

-よかったじゃない、プラスになった?

-まあ少しね。これから仕込みが大変だよ。

-ふーん、でかい客ってのも良いとこばっかじゃないねぇ。

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