第5話


「それで。どうして返事を保留にしたんですか?」

「だって、ねぇ……」



 そこは魔王城のゲストルーム。


 徳子は天蓋てんがい付きベッドに横たわりながら、左手薬指にはまった結婚指輪を眺めていました。吉光からもらったそのリングが徳子の暴走を食い止めた最後の砦でした。

 過密なスケジュールを乗り越え、大浴場にて疲れを流した徳子の身体は室内に柑橘類の匂いを辺りへ漂わせていました。低反発のベッドに身を委ねながら、徳子は部屋の明りに掌をすかしてみるのでした。そこには情熱の証たる熱い血潮が浮かんでいました。



「やっぱり私には安物の方が似合っている」

「それをくれた旦那は裏切ったのでしょう? 向こうの世界なんか見切りをつけて、こちらに移住してしまえば」

「もう、その話は止めて。断ったわけじゃないから、保留にしただけだから」



 ベッドの傍にはメイド姿のシャドウ・マスターが控えていました。

 SMとの会話を強引に打ち切ると、徳子はシルクの柔らかな枕へ顔を沈めて、緩んだ表情を誰にも見られないようにするのでした。破顔とは正にこのこと、気を抜くとすぐにだらしない笑みが内から滲み出てしまうのでした。

 

 ただし、徳子の自慢である鉄の心臓ですらも今晩ばかりは早鐘のように高鳴っていました。


 対するSMは、そんな徳子に同情のこもった眼差しをむけていました。



「まぁ、晩餐会も無事に済んで、お疲れでしょうから……そっとしておきたいのですけれど。いつまでも煮え切らない態度をとっていると大変ですよ。なんせ魔王様には四十八人も妃が居るんですから……」

「ん? どういうこと?」



 徳子の疑問に答えるかのごとく、突如としてゲストルームの扉が勢いよく蹴り開けられました。真っ赤なハイヒールで扉を蹴り開けたのは、一目見たら忘れられないド派手な容姿の女性でした。

 そう、徳子の忙しすぎる一日はまだ終わっていませんでした。


 ピンク髪の縦ロールはあたかもドリルのよう、長いまつ毛に毒々しい紫のアイシャドウ。その殺気に満ちた冷笑は、ひと昔まえの少女漫画に出てきそうな王妃そのもの。美人で露出度も高くグラマラスだけど、性格が根っこから歪んでいるのは外見だけでも判断がつく相手です。


 クジャクの尾羽で作られた扇を持ち、口元を隠しながら王妃は言いました。



「ごきげんよう! はじめまして! 徳子さんはいらっしゃるかしら?」

「はっ、はい」



 徳子が慌ててベッドから立ち上がると、王妃はジロジロと彼女を観察してフンと鼻を鳴らしたではありませんか。



「おやおや、庶民らしい研磨けんま不足な見すぼらしさだこと」

「ど、どちら様でしょうか」

「魔王デミルゴ第三夫人、友愛のイボンヌとは私のことですの。貴方がひれ伏し、あがたてまつる相手の名よ? よく覚えておきなさい」



 ―― うわ……のっけからヤバい人が来ちゃったよ。


 徳子がドン引きしている間にもイボンヌは攻め手を休めません。



「なんです? トクコさん、聞くところによれば陛下から求婚されたそうですけど。あまり調子にのらないことね。ちゃんと己をわきまえなさい、イボンヌは陛下の寵愛ちょうあいを独り占めする為なら手段は選ばなくってよ」

「いや、まだ妃になると決めたわけでは……」

「そうね、それが賢い者の取るべき選択。貴方は自分をご存知のようね、でしゃばらなければ、きっと長生きできるわ。そもそも、その貧相なボディラインは何ですの? 四十九人中、四十九位ね。率直に述べて、洗濯板と呼んでも差し支えないのではなくて? 美しくなろうとする努力は必ずや容姿にあらわれます。アナタ、まったく王妃に相応しくなくってよ」

「まさか全員のスリーサイズ把握しているんですか? 魔王城の大奥も大変ですね」

「オオオク? それぐらいは当然。全員がライバルなのですから。詰め物で胸の大きさを誤魔化そうなんて輩には、それを指摘してあげるのが乙女のたしなみ。もちろん皆の前で」

「うへぇ~、マジすか」

「誰が陛下の愛を勝ち取るのか、血で血を洗う激戦がこの魔王城では夜な夜な繰り広げられているのよ! 故郷に帰ったモモカも、失踪した第一夫人も、みんなみんな女の戦に敗れた田舎娘でしかないわ。故郷でせいぜい幸せにおなりなさい、牛の世話でもしながらね」



 人を貧乳呼ばわりするぐらいならともかく、仮にも陛下が心より愛した女性に対して何という態度でしょう。

 同じ男を好きになった者同士、少しは共感とかないのでしょうか?


 心が定まるまでは事なかれ主義を貫くつもりでした。ですが、陛下の顔を想い浮かべた途端、徳子のそんな想いは吹き飛びました。

 勢い任せで後先考えず、徳子はイボンヌに噛みついていました。

 見る者が見れば、徳子の背後に「咆哮する土佐犬」のようなオーラが浮かび上がって見えたことでしょう。



「それっておかしくありません? 女は乳の大きさしか取り柄がないんですか? 王の妃だと言うなら、少しは旦那の役に立つことをしたらどうなんですか?」

「な、なんですって!?」

「柿の木を残したモモカさんと、それを使って干し柿を作った私は、胸だけが自慢の貴方と違います。陛下の決心を後押しする形でウンと貢献しましたよ? どうです、すごく気が利いているでしょう? それに対して、貴方は何の役に立っているんですかって話です」

「そ、それは……」

「答えられないんですか? 嫌がらせに忙しくて、それ所じゃなかったんですか? そんなザマでは最後に魔王城から追い出されるのは、きっと貴女の方ですよ」

「ぐぬぬ! よくもぬかしやがったな、この生まれ卑しき雑草め! 覚えておきなさい。今の台詞、必ずや後悔させてやるんだから」

「雑草なんて草はありません。私の名は胡蝶徳子です。次は忘れないで下さいね」


 ドカドカと足音を立てながら、怒り心頭のイボンヌはゲストルームを出ていきました。徳子が額の冷や汗をぬぐうと、隣で見ていたSMが勝利を湛える口笛を鳴らしました。



「いやぁ、お見事です、トクコ殿。胸がスッとしましたよ」

「ついカッとなっちゃって。早まったかなぁ……」



 徳子が呟きながらシャドウ・マスターの方を振り返ると、メイド姿のSMにある異変が起きていました。明らかにいつもより乳房が大きくなっていました。その比率はおよそ二倍。

 先ほどのイボンヌに負け劣らぬスリーサイズでした。

 自慢げに胸を揺らしてみせるSMに、徳子は仕方なくツッコミを入れました。



「なにやってんの、SMちゃん」

「人間って大変ですねぇ。私達なら胸のサイズなんて幾らでも変えられるのに。こんな事に命をかけている人もいるんですから。何だかおかしくって」

「おかしいのは貴方の身体。前から不思議だったけど、どうなってんの、それ」

「要はスライムみたいな体質なんです。だから形状なんて幾らでも変えられる。シャドウ・マスター族は元々森の聖域に住む原形質生命体でした。知性もなく本能で蠢くだけの可哀想な存在に、ある時、思いがけず重要な役割が与えられた。それが私という存在なのです」

「知性もなく、本能でうごめくだけ? じゃあ、私がいま話している貴方はなに?」

「それだけは秘密です、絶対に」



 口元に指を当てシィーと合図を送ってから、SMはウインクして見せました。



「まぁ、それはそれとして。トクコ殿もこれで魔王夫人の大変さがご理解頂けたのではないかと思います。なんせ四十八人も先輩がいますから、色々と揉めてばかりなんです」

「夢をかなえるには障害が付き物よね、異世界も甘くないわ、そりゃ。そういえば……さっきの人、モモカ以外にも失踪者が居るって話をしていたけど? それも第一夫人。お城に居ないの? 偉い人でしょうに」

「ルシフェーナ様ですね。半年ほど前から行方をくらませています。イボンヌ様が城内で勝ち誇るようになったのはそれからでした」

「イボンヌに何かされた? まさか消されたとか?」

「いえ、それはあの御方に限って……陛下に匹敵する魔力の持ち主ですから。それに、あれほどルシファーナ様を愛していた陛下が、特に悲しむ様子を見せていません」

「ということは?」

「もしかすると、陛下だけは第一夫人の行き先を存じているのではないか……皆がそう噂していますね」

「何かの陰謀? やっぱりとんでもないわ、一夫多妻制。ましてや王族なんて、組み合わせとしてキツ過ぎるかもしれない」

「苦労を乗り越えてこそ、真の愛は育まれるものですよ? トクコ殿。貴方も四十九人の頂点を目指すんですよ」

「やっぱり考えさせて下さい」



 もしかすると、SMの言う事も正論かもしれません。

 ですが、魔王の妻になると言うことは、あのイボンヌと同じ土俵に上がること。

 真に、誰かと競わずして叶う夢など何処にも存在しないのでしょう。

 それがたとえ異世界であったとしても。


 もしも平和な日々が続けば、あるいはここから徳子とイボンヌによる壮絶な正妻争いが幕を切って落とされたのかもしれません。されど、人と魔物の戦はこの直後に急展開を見せ、肝心の魔王デミルゴが正妻アピールにかまけている場合ではなくなってしまうのです。


 激動の歴史は人の決心を待ちはしません。

 ただ、女神イシュタムの気紛れだけが、箱庭異世界の行く末を知るだけなのです。



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