第4話



 干し柿が振舞われた交渉の晩餐会より一時間後のこと。

 徳子と魔王デミルゴはお城のバルコニーで酒杯を交わしていました。

 無事に大役をこなし、魔王軍の幹部たちを誠意ある言葉で説得し終えた徳子。

 そんな彼女の働きを労う為に、デミルゴがとっておきのビンテージワインをご馳走してくれたのでした。


 正直に告白すれば晩餐会でも付き合いで大分お酒を飲まされたので、もうワインの味など区別がつきそうになかったのですけれど。


 思い返せば、徳子にとって大変な一日でした。

 陛下に求婚され、その答えを考える間もなく晩餐会になだれ込んだのですから。なし崩しに先延ばしとなった回答が、ここで改めて要求されてもまったく不思議ではありませんでした。もっともデミルゴはそんな素振りすら見せず、徳子に感謝するばかりだったのですが。


 バルコニーに設置されたテーブルを囲むのは二人きり、SMすらも忖度そんたくするかのように姿を消していました。



「本当にご苦労だったな、トクコ殿。人間を滅ぼすよりも、その文化を学び取り入れた方が未来は明るい。強硬派の彼等にもそれが伝わったはずだ」

「いえぇぇい、お疲れしゃまでしゅた~。バッコスのワインも美味しいでしゅ~」

「おいおい、大丈夫かい? シャドウ・マスターを呼んで今日はもうベッドまで案内させようか?」

「まだまだ平気でしゅ~。今日はとことん飲みましょ~」

「うーむ、大分ストレスを貯め込んでいたようだな。慣れない環境で辛酸しんさんを舐め続けたせいか。無理ばかりさせてしまったな」



 不覚にもベロンベロンに酔っていた徳子ですが、顔を赤らめながらも真剣な表情に戻ると、姿勢を正して椅子へ座り直しました。



「いえ、とんでもありません。ここでの暮らしは私にとって理想的でしゅ」

「ほう?」

「私、この世界に来てからずっと考えていました。どうして旦那との暮らしが破綻したんだろう。アイツは何が嫌で私から逃げ出したのだろうって」

「見当もつかぬ謎だな。私にはトクコ殿以上の女性がそうそういるとも思えんが」

「……それは陛下が本当の私を知らないからでしゅ」



 徳子がうつむくと、膝に涙の粒が落ちました。



「本当の私は、日本という島国で貧乏ったらしく毎日を生きる余裕のない女。家計に余裕がないから、心にも豊かさがない。心が卑しいから口を開けば罵詈雑言ばかり、それでは旦那に逃げられても無理はありません。何度考え直しても、そうとしか思えなかった」

「自分を責めるべきではないな。生活が苦しければ、笑顔が曇るのは当たり前のこと。それを守るのも本来であれば王や、男衆の役目なのだが」

「吉光は、旦那は、よくやってくれたと思います。でも、夫婦二人で働いているのにちっとも暮らしは楽にならなくて……ごめんなさい、異世界の魔王サマにこんな話をしてしまうなんて」

「いや、良い。溜め込んで辛いことなら全て吐き出すと良い。この異世界ファンタズムにおいてはトクコ殿を苦しめる貧しさなど何もない。ここでは好きなだけ夢を叶えても良いのだ」

「……私なんかにその資格が?」

「夢想でもかなえ続ければ、やがてはそれが現実となる。苦しいだけの現実など全て忘れてしまえば良いではないか。私の力ならそれが出来る。夢と現実を必ずやカードのようにひっくり返してみせよう。ファンタズムと魔王の名にかけて」



 やはり男は年収なのでしょうか。

 魔王の年収とはどれ程のものでしょう。国家予算くらいでしょうか?

 そんな男の傍らに自分が立つなんて。


 スケールの大きさに徳子は足元が覚束なくなりそうです。

 嘘偽りなく、デミルゴは王を名乗るのに相応しい器の持ち主に違いありません。


 西欧社会には『高貴なる者の義務ノブレス・オブリージュ』と呼ばれる道徳観が根付いています。財産、権力、地位を手にする者にはそれに相応しい責任が伴うとされる思想です。王たる者は、社会の模範となるべく言動に気を使わねばならないのです。きっとデミルゴを突き動かす無限の優しさも、そうした信念に基づいた物なのでしょう。



「お互い飲み過ぎたかな。どれ少し風に当たるとしよう」



 魔王に手を引かれ、二人はバルコニーの角から夜空を眺めました。

 何時の間にか、そのたくましい腕が徳子の肩を抱いていました。


 空には幻想的な双子の満月が浮かび、バルコニーには白い月光が降り注ぐのでした。徳子は独り言のようにぼんやりと呟きました。



「陛下は……綺麗ごとでは乗り越えられない現実ってあると思いますか? そんな物にしがみつく女は愚か者でしょうか?」

「救うべきものを救う、それが私の正義だよ。ソナタにはそれだけの価値がある。言葉で判らなければ感じてもらうまでだ」



 徳子のアゴが不意に持ち上げられ、唇に唇が重ねられました。

 そこから先はもう成すがまま ――。


 ―― あぁ……。

 ―― 間違いなくここが人生の最上。そして一番綺麗な時間。でも……。

 ―― 明らかに身分不相応な。こんな夢がいつまでも続くわけがない。

 ―― こんなの、きっと、ただのファンタジーだ。


 情熱に身を任せながらも、心のどこかで冷静な徳子がそう諭すのでした。


 ファンタジー小説の開祖であるJ・R・Rトールキンは、友達からこんな質問されたことがあるそうです。「ファンタジー小説なんてどうせ嘘っぱちだろう? なぜアンタはそんな物を書くんだい?」と。

 トールキン先生は大真面目にこう答えたのだとか。


「なぜって? 現実にはない美しい物を作らずにいられないからさ。大人にだって逃避は時に必要だし、それなしで生きるには余りにも世の中が過酷すぎる。幸いにも、神様は私にそれをやるだけの筆致をお与え下さった。それはつまり『私に変わって、やれ。理想郷を築け』と神様が私めに命じているという事さ!」


 あるいは、ファンタジーと色恋は同じものなのかもしれません。

 目も眩むほど美しい高嶺たかねの花が、もし手の届く所にあったら?

 手を伸ばさずにいられるのでしょうか? 

 老若男女問わず、いったい誰が?


 脳髄から指先まで痺れるような陶酔の先に待っていたのは、笑ってしまうような無様さで着衣の乱れを直している徳子自身でした。



「まだ返事をもらっていなかったな? 我が妻となってくれるな?」

「王に抱かれても、犬っころは犬でしかないのですよ、陛下」

「環境は人を変える。作法などすぐ身につくさ」

「そうではなく……いえ、少し考えさせて下さい」



 徳子はもつれる足でその場を逃れると、バルコニーを出ていきました。

 双子満月が照らす二重のルナティック。

 それですら徳子の正気を眠らせてはくれませんでした。


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