第8話 ⑤

 宿の主人の青ざめた顔に謝罪の言葉を述べると、二人はすぐに部屋に戻る。素早く旅装を整え、荷物を担いで部屋を出た。話を聞こうと近づいてくる兵士を振り切ってそのまま宿を出ようとしたアゼルは、セリスが足を止めたので慌てて振り向いた。

 彼女は拘束された男の横に膝をついている。男の服をめくりあげると、打撲の跡がくっきりと残っていた。呼吸の度に呻くのは、あばら骨が折れているからだろう。

「その体のあるべき調和と秩序……」

 セリスはそう呟いて男の傷に手を触れた。その手は微かに光り、それに応じるように男の傷も光った。セリスが詰めていた息を吐きだすと、その光も消える。

 男の呼吸は明らかに楽になっていた。傍にいた兵士が聖堂の関係者なのかとセリスに聞く。

「そうです。ですから詳しい事は聖堂に問い合わせて下さい」

 そう言うとセリスは、アゼルに目配せをして足早に宿を後にする。彼の問い掛けるような表情に、彼女は少し無理な笑顔を見せる。

「テミウさんに習った事を試してみたかったの」

 二人ともそれ以上は言葉を交わさず、通りを歩いていく。日の出の喇叭が鳴る頃、ターヤの勤め先の仕立屋に到着した。旅に必要な様々な布を頼んでいたため、それを取りに来たのだ。裏手に回って扉を叩くと、雑務の老人が顔を出す。

 ずいぶん早いねと、迷惑そうな顔をしながら老人はターヤを呼んでくれた。頼まれた品が入った箱を抱えて出てきたターヤは、旅装の二人を見て心配そうな声で言う。

「もう少し居るんじゃなかったの?」

「予定が変わっちゃってさ」

「顔色も良くないし、何かあったの?」

「……うん、でも心配はしないで」

 アゼルのその声に、ターヤはそれ以上は何も言わず、二人をただ抱き締める。アンリン行きの隊商を見つけたら便りを出すと約束させて、二人を送り出した。セリスは一度振り返って手を振ったが、アゼルは振り返らなかった。






 密偵の頭目は本当に頭を抱えていた。標的の捜索のために送り出した二人が戻って来ないと思っていたら、独断で標的の確保を試みて失敗。しかも一人は兵士に拘束されたというのだ。

 時間は十分にあった。標的が宿泊している宿を見つけたのなら、それを速やかに報告し、十分な人数でその確保を行えばよかっただけ話だ。だが彼らは自分達の手柄にこだわり、報告も行わず応援も求めなかった。この手の者はただの無能よりたちが悪いと、頭目は吐き捨てるように言う。

 ひとまずは拘束された男の解放に手を尽くさなくてはならない。以前の辺境公なら金でどうにでもなったが、今はそうではない。手を回さねばならないところがたくさんあるのだ。

「所詮は貴族の坊やか」

 無駄な仕事を増やした者達にそう毒づく。ゼバックをはじめとして、彼らは貴族の子弟なのだ。そんな身分の者が、密偵の真似事をしている理由は定かではない。雑穀の硬いパンをかじりながら野営を続ける生活を、覚悟なしに続けているわけでもないだろう。だが、こうした大事な場面でボロが出る。

 頭目は頭を切り替えて、出来る事から手を付ける。とりあえず、兵士から逃げて来た一人については、直ちに街を出て南の街道筋で監視を続けている二人と合流させ、状況を伝えさせる。

 標的二人はすぐにでも街を出るだろう。街壁の門を監視している者達へ連絡を回す。二人が接触を図る可能性のある人物を監視している者にも同様の連絡が必要だ。

「お頭、ジャッファル商会の見張りから使いが来ました」

「早い、いや当然か」

 聖堂にいる標的と接触をする可能性も高い。その上で街を出発するのだろう。ただちに聖堂を監視している者に応援を出す。魔術師が相手である事を言い含め、無茶な行動は慎むよう厳命する。

 依頼人が残していった人間の不始末が招いた事態である。こちらが不要な危険を冒す必要はない。大まかな行先の情報だけでも掴めば、それで十分だ。

 配下の者が散り、頭目は店に出る。従業員に看板を出させると早速常連がやってきた。彼らは今朝起きたばかりの事件、とある宿屋での大乱闘について語りだす。よその領主が送り込んだ密偵が、聖堂の魔術師を襲撃したというのがもっぱらの噂だった。

「この街の噂は鳥が伝えているようだの」

 テミウは呆れた声でそう言う。聖堂にも噂は届いていて、もしやと思っていたら案の定だった。聖堂を出たところでアゼルとセリスに出くわし、大まかな話を聞いたのだ。行き違いにならなかっただけ幸運だと、テミウは持っていた袋をセリスに渡す。

 中には魔砂が入っていた。その身に魔導図を刻んでいないセリスが魔術を使うには必要なものだ。ケレタロン領まで街道沿いを歩く限りは危険も少ないだろうが、用心するに越した事はない。

 こんな慌ただしい出発でなければもっと色々と準備しておくものもあったと、テミウがぼやく。そんなテミウの気遣いに感謝し、セリスは言った。

「魔術を教えてもらえたのが、一番ありがたいです」

「あれでは、教えた内に入らんよ」

 もう少し若ければ同行も出来たろうにと、テミウは足をさすりながら言った。不自由な足をおして、アンリンまで来てくれたのだ。二人はテミウに礼を述べた。

「いやいや、君達が本当に知りたい事は何も教えられんかった。だがな……」

 それを教えられる者はおらんのだ、彼はそう言って二人を見つめた。セリスとアゼルは、唇を引き結ぶ。

 神器に関する事は王都に帰ってからも調べを続けると言って、テミウは不思議な仕草を見せた。身隠しの魔術を二人に施してくれたのだ。しばらくの間は、その姿が人の目に入らなくなる。二人を襲撃した者達からの追跡は、十分に撒けるはずだ。

 改めて礼を言う二人をテミウは手を振って見送った。周りの人からは、誰もいない場所に向けて手を振っている奇妙な老人に映っただろう。その体が突然ぐらりと揺れた。

 倒れそうになった彼を抱きとめた男は、それが服を着た材木である事に気付き舌打ちをする。痺れ薬を塗った針が、意味もなく材木に刺さっていた。

 男はその材木を打ち捨てて、頭目のいる茶店に向かう。標的の二人がケレタロン領を目指している事だけは、唇を読んで分かっていた。

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