鞘の乙女と勇者の剣
アスナロウ
プロローグ
誰もいない聖堂を横目に、若い女性が足早に裏庭へと向かっていた。光と闇の二柱の神が睦む日は礼拝がなく、聖堂に勤める彼女も休みとなる。そのような日に呼び出されたのだ、あまりいい予感のするものではなかった。裏庭の東屋には、同じように呼び出されたらしい数名がたたずんでいる。彼女が最後だったのだろう、年嵩の男が無言で頷いた。
東屋の仕掛けが軋み、隠されていた階段が現れる。この聖堂に移って数年の彼女には、驚きの仕掛けだ。その仕掛けを動かした年嵩の男は、ついてくるようにだけ言うと階段を下って行った。
「魔術師長って、ここに来た時に一度会っただけなのよね」
「基本そうさ。普段どこにいるかだって、誰も知らなかった。こんな場所があった事もね」
女性のつぶやきに答えたのは後ろを歩く男性だ。その男性は彼女よりもずっと先輩にあたるため、この地下に向かう階段の事を知る者が少ない事も分かった。彼もまた、彼女と同じように呼び出されたのだ。皆一様に、魔術師の正装で身を固めている。
階段を降りた先は、そのまま一本の通路になっていた。突き当りに扉があるのが、灯りに照らされてほのかに見える。年嵩の男は手持ちの灯りを掲げたまま通路の脇に寄り、扉は開いていると言った。ここから先は呼び出された魔術師だけが行くことを許されている、そういう事なのだろう。
彼女らは扉の前に立ち、一呼吸入れた。通路は石造りで、地下にある割には湿気もなく綺麗に清掃されている。木製の扉は立派だが厳めしい装飾がついているわけでもない。緊張が必要な場面とも思えないが、彼女は外套の中で両手を握りしめる。
「さぁ、そんなところに固まっていないで、中に」
扉を開けると、拍子抜けするほど普通の部屋があり、まるで友人を招いたかのような口調の優しげな老婆がいた。テーブルと人数分の椅子、そして湯気を上げる飲み物まで用意されている。彼女らは肩の力を抜くと、勧められるままに席に着いた。
しかし、その老婆こそが魔術師長なのだ。茶飲み話に付き合わされるわけではないのだろう。飲み物に口をつけながら、彼女らは次の言葉を待った。
魔術師長は少し居住まいを正すと、あくまで落ち着いた口調を崩さずに言う。
「新たに神器が遣わされます」
「その正確な……」
かぶさるような質問を手で制し、魔術師長は続ける。
未だ来たらぬ時を見る魔術は簡単なものではない事。この聖堂の魔術師長は一生に一度その魔術を使うために、調和に満ちた人生を送るのだという事。そして、その魔術は本来であれば死の直前に使うべきものなのだという事を。
「時間が、なかったという事ですか?」
「ええ。王都の安全がいつまで保証されるかも分からないと、聖堂長もおっしゃっています」
本来よりもずっと早くに使われた魔術では、正確な情報が得られなかった。だが、神がその意志として神器を遣わす事だけは間違いがないと、魔術師長は言った。集められた者達は無言になる。
始原は混沌たる『ウィド』に満ち、祖は『ウィド』より二柱の神を生み出した。二柱の神の睦み合う調和の中から世界が生まれたが、未熟な世界には『ウィド』が至る所から滲み出し、それが世界に混沌をもたらした。
そこで、神は秩序をもって世界を育んだ。神に育まれ確たるものとなった世界からは、いつしか始原より滲み出す『ウィド』も姿を消していった。秩序とは神が混沌を祓い世界を育むためのものであり、人の手にはそれが神器という道具として現前する。
神器が遣わされるとは、神が混沌を祓う意志を示したという事である。それはすなわち、世界に再び混沌が生ずるという事でもあった。
魔術師長は少しだけ口調を緩める。魔術が自分に見せたのは、まだ遠い未来であると。
「私たち魔術師はウィドを扱う者。新たな神器、それを必要とする混沌の出現に、関りを持つ事は間違いないでしょう」
神器の出現に備え、それが正しく扱われるよう導くため、各地に赴いて欲しい。魔術師長はそう言って、呼び集めた魔術師を見回した。どの顔にも驚きの表情が浮かんでいたが、誰の目にも決意の光が宿っていた。
神器がいつ、どこで、いかなる形で現れるのか、大まかな事しか分からない。その分かる限りの情報を記した巻物が用意されていた。魔術師長は、呼び出した魔術師一人一人の名前を呼び、その巻物を手渡していく。
「マーレン・リリテミ・ナナ、これは人生を賭したものとなるやもしれません」
「承知の上です」
聖堂に仕える魔術師としてこの大役は誉れである。恭しく巻物を受け取ると、女性ははっきりとした口調で答えた。
大陸中央部に覇を唱えたアラタシア王国、その五百年にわたる栄華も最期は儚いものであった。王都タシアは焼け落ち、王族は四分五裂しながらその正統性を掲げて争った。王国内の諸侯は独立と反乱を繰り返し、周辺各国をも巻き込んだ合従連衡が繰り広げられた。
それら人間同士の争いは、いつ果てるともなく続くかと思われていた。しかしいつしかそこに、この世界のものにあらざるものの影が見え隠れしだす。
王国時代には数年に一度程度の報告にとどまっていた魔物の出現、その数が増加を始めたのだ。
魔物とは、始原からこの世界へと滲み出した『ウィド』が形を成した物である。それは、調和から生まれ、秩序に育まれたこの世界を、再び始原へと還す混沌であった。
頻発する魔物の出現に、人間はその争いの手を止めざるを得なくなる。結局、王国崩壊後の騒乱に決着がつけられる事はなく、無数の諍いの種を残したまま、大陸には形ばかりの平穏が訪れる事になった。
いや、それを平穏と呼ぶのは間違いであろう。王侯諸侯の諍いは容易に争いへと変わり、魔物は今も大陸の人々を脅かし続けているのだから。
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