第3話

 貸与していた社員証、製品資料。退職にあたってのサイン・捺印した書類。

 それらをSV野崎さんに手渡す。


「短い間でしたが、お世話になりました」

「残念だねー。すごく優秀だったから、次のところがもう決まってるとなると、仕方ないことだけど」


 おそらく心のなかでは特になにも思っていないでしょうね。

 それでも当たり障りなく契約を終えることができる、そのことには感謝している。

 

 逃げ出した? 契約をうち切られた?

 精神的に病んでるとか?

 

 契約延長を断ることを決めてから、ここ1か月の間にたくさんの声が聞こえてきた。それをすべて笑顔で受け流して。

 

 そのうち戸田さんたち、同じ派遣契約のオペレーターとの会話も減って。孤立した日々を過ごし、月半ばでの退職日を迎えた。

 

 月の残りはわずかばかりの有給休暇を消化することとなっている。

 

「なんか、私には挨拶とかないわけ? こういうかたちで逃げ出す子は正直困るのよね。お勉強させてあげただけで、ろくに会社に貢献もしないなんて」


 わざわざ、ブースを出てエレベーターを待つ私に、そんな声をかけたのは逢沢先輩だった。


 勉強? 私があなたに教わったのは、仕事の押し付け方とズルのやり方だけでしょう?

 そもそも私の雇い主は派遣元の会社ですけど?

 

 とか、いろいろ思うことはあった。それでも私はそのようなことは言わずにただ一言こう返した。


 たくさんあるクッション言葉のなかで、つかうべきではない言葉。

 それは、お客様を逆上させるから? だっただろうか。

 なんとなくこの目の前の先輩から教わったような気がするけど。


……もう私、貴女の部下ではありませんので。失礼します」


 鳩が豆鉄砲をくったような顔、というのだろうか。

 言い返されることも想定してなかったのか、きょとんとした顔。

 そして、そのあとで見るからに紅潮していった頬は、赤らみ膨れ上がったことで毛穴が目立ってて……。

 

 要するに不細工なんだと、私は思った。


――つまらないのよ、貴女。


 もの言いたげな表情のまま立ち尽くす逢沢先輩を尻目に、エレベーターに乗り込んだ。彼女とに顔を合わせたのは、それが最後だったけど。


       ***


 都内にあるオフィスの中で、私はパソコンの事務処理に追われていた。

 忙しい日々ではあるが、やりがいはある。

 Tra-fixsを退職した日から、一年後、私はVaios社の中途採用を受けそれに内定した。

 

 一年間の秘密保持契約書の期限が終えてすぐのことだった。

 転職を勧めたのはいまの夫で、都内への転職を機に私の苗字は坂口にかわった。


 すべては、復讐のため。というとドラマティックだけど。

 正直当時の逢沢先輩からの嫌がらせはいまとなってはどうでもいいくらいで。

 そんな小さなこと。と言えるくらいだった。


 だから、これは復讐ではなく私の業務の一つで単なるタスク。


「坂口さん。以前Tra-fixsさんのとこで電話受けてたわよね。いまアウトソースでうちから依頼してるベンダーから1社、コストカットのために外すことになったから、選定の手伝いをお願いできないかしら」

「かしこまりました。ちなみに、深津課長はどうお考えなのですか」

「うちとしては……Tra-fixsさんのスコアも安定しているし、残したいとは思ってるんだけどね。ちょっと良すぎるというか、パフォーマンスの裏付けができないところがあって、そこのところでひかっかってるの」


 すぐにピンときた。

 対応時間をAHTという。このなかで特にコール時間にあたるトークタイムの数値の良さは、それ自体がコールセンターにとって重要な指標で。当時よりTra-fixsはその数値の良さに定評があった。

 

 しかし、その内情は一部のベテランオペレーターの手抜きにより作られた偽りの数値。そう私は知っている。でもすぐには言わない。


 確固たるエビデンスとともに叩きつけるほうが、つまらなくないから。


「わかりました、ではその点Tra-fixsをふくむ3社のKPI数値の裏付けがとれるよう、各社の担当者に問い合わせておきますね」

「ありがとね。助かるわ」


 そこから私は各社の過去5年間のコールデータを取りまとめ、特にトップパフォーマンスをあげているオペレーションに的を絞り、音声データのモニタリングが必要であることを深津課長に提言した。


『お世話になります。Vaios PC ベンダーマネジメント部の坂口です』

 

 そう書きだしたメールには、過去対応音声のなかで、トークタイムのパフォーマンスが高いものの録音データの提出を依頼するものを作成した。もちろん、Tra-fixs社に限らず、他2ベンダーに対しても同様のものを用意した。

 これは復讐ではなく、業務だから。


 送信前に気づいたのは、Tra-fixs社の担当SVの名前が逢沢理絵となっていたこと。いけないことかもしれないけど、少し笑みが浮かぶ。


 思い出さずにはいられないよね。

 あのときの、エレベーターの前での彼女の表情、その可笑しさを。


◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇


コンテストの規定文字数間違えてました……。

もっと書きたい続きがあるので連載延長します…! ごめんなさい。

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