3-2

 悠佑は隣のイスに荷物と上着を置き、イスに腰かける。

 「仕事はどうだ?」

 「まぁ、それなりに」

 「体調とか崩してないか?」

 「大丈夫」

 「そうか。駿はどうしてる?」

「実は…、今日はそのことで帰ってきたんだ」

 「えっ、駿に何かあったの?」

 いつの間にか母が悠佑のすぐ後ろに立っていた。コーヒーと朝食の乗った皿を悠佑の前に置く。

 「母さんも一度座ってもらえる?」

 「ええ」

 悠佑のただならぬ様子に、母が険しい顔で父の隣に座る。

 「二人とも落ち着いて聞いてほしいんだけど、アイツ、今の会社でパワハラを受けてる」

 「え?」

 突然のことに二人は言葉を失う。二人の顔を見ながら、悠佑がゆっくりと話を続ける。

 「アイツの会社、元からかなりのブラック企業でさ、それに今の上司からパワハラまでされて、アイツ人が変わったみたいに豹変してた。この間何年かぶりに会って、自分の弟か疑わしいぐらいの変わりようだった…。酒とタバコに溺れかけてる所もあって、毎晩のように悪夢にうなされてたらしい」

 悠佑が弟から受け取ったくだんの証拠を食卓の上に出す。

「これが精神科医の診断書と、パワハラの現場を録音したもの。アイツと話し合って、今の会社は辞めるつもりで、証拠集めをしてる。本当はもっと前に二人に相談すべきだったし、アイツがここに来て話すのが筋なのはよく分かってる。けど、今の状況では難しいから、とりあえず俺が代わりに来た。いくらもう社会人だと言っても、これは親に一言も相談せずに決めるべきことじゃないと思ったからさ」

 父が机の上に置かれた茶封筒に手を伸ばす。

「ホントにアイツを今のまま放っておくのは危険だと思う。ここ二週間で頻繫に連絡取るようにしたり、家にいくようにして、かなり改善した方だと思うけど、それでも二十年以上一緒にいて、俺はあれだけタフな人間が弱ってる所は見たことがなかったから、まだ心配ではある。正直俺は、アイツがそういうたぐいのことで追い詰められることなんかないと思ってた。でも、きっと、それぐらい限界だったんだと思う……。事が後先に回っちゃったし、社会人がそう簡単に仕事を辞めるべきじゃないのは、よく分かってる…。けど…、出来ることなら、一度東京に来てアイツに会って、実際にアイツの話を聞いてみて欲しいんだ」

 悠佑が二人の目をしっかりと見つめる。

 「お願いします……」

 額づくように、深々と頭を下げた。

 忙しい朝の時間でありながら、その場にいた三人は時が静止したかのように固まっていた。コーヒーが湯気を上げながらどんどん冷めていく。最初に重い口を開いたのは父だった。

 「……分かった。とりあえず仕事に行かないわけにはいかないから、帰ったら続きを聞かせてくれ。そうだな…、三時には帰れると思う。それから詳しい話をしよう」

 「分かった。仕事の都合もあるから、出来れば今日の夜に東京戻りたい」

 「必ず定時より早く帰ってくる。それよりお前、相当疲れてるだろ? 俺が帰って来るまで少し寝てなさい」

 「ありがとう」

 父は上着を手に足早に居間を出ていく。

 玄関まで父を見送ってきた母が居間に戻ってきて、悠佑の向かい側の、さっきまで父親が座ったいたイスに座った。

 「母さん、ごめんね、いきなり驚かせちゃって…」

「いいのよ。あの子が知らない内にそんなことになってたなんて思いもしなかったわ。確かに就職してから家に帰って来なくなったとは思っていたけど…。電話で『仕事が忙しくて帰ってる暇がない』って言ってた言葉をそのまま鵜呑みにしちゃってた。昔から人一倍元気で、あまりくよくよしない子だったから、何があっても大丈夫だと思ってたんだけど…。少し過信しちゃってたかしらね…」

 いつも朗らかでさっぱりとした性格の母だが、その顔からは明らかに憔悴の色が見て取れた。

 「まぁお父さんも同じこと言うと思うけど、仕事のことはもう社会人なのだから、あなた達の自由にしなさい。ちゃんと考えているのであれば、私達はとやかく言わないわ。それよりも、健康でいることの方がよっぽど大事よ」

 気丈に振る舞う母の姿は、悠佑には痛々しくも感じられた。その様子に、悠佑は罪悪感を感じずにはいられなかった。母はゆっくりと冷めたコーヒーを一口ずつ飲む。

 「悠、あなたものすごく疲れている顔をしてるから、少し休みなさい。二階のあなた達の部屋はそのままにしてあるから。後で布団出しておくわ」

 「母さんこそ、少し休んだら?」

 「私は大丈夫だから。たぶん気を張ってただろうから、自分が思っている以上に疲れてるはずよ」

 確かに、悠佑は今まで感じていなかった全身の疲労感に襲われていた。母の言う通り、自分の想像以上に緊張していたのだろう、両親に話を聞いてもらえたことで、悠佑の気持ちはかなり軽くなっていた。拙い言葉ながらに、心の内を全て出し切ったような感覚があった。

 軽い朝食を食べ終え、悠佑は二階の自分の部屋のベッドで母の用意してくれた布団に身を埋めた。この部屋といい布団といい、自分を守ってくれるような、懐かしい安心感を覚える匂いだ。その匂いに包まれて、悠佑はワイシャツとズボン姿から着替えることもなく、いつしか泥のような深い眠りに落ちていた。


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