2-2

 駿佑の元に兄から連絡が来たのは、その週の金曜日の早朝だった。書類の山に埋もれたデスクに突っ伏して寝ていた駿佑は、そのスマホの通知音で起こされたのだった。顔を上げると、卓上の時計は四時半を少し過ぎた辺りを指していた。そろそろ東の空も白んでこようかという頃合いである。

 兄からのメッセージは、「土日のどっちか時間作れる?」というものだった。すぐに返信を送って、駿佑は大きな欠伸あくびをした。変な姿勢で寝ていたのか、肩甲骨の辺りが痛い。背筋を伸ばすと、背骨がポキポキと音を立てた。背中の辺りを手でさすりながら、駿佑はゆっくりと立ち上がった。

 照明の落とされたオフィスの中でも、まだスタンドの明かりが点いているテーブルが駿佑以外にも三つ、四つある。それらを横目に見ながら、駿佑は足音を殺して非常階段の踊り場に出た。ビルとビルの隙間から、朝焼けに染まる空と運河が見えた。大都会東京といっても、この時間はまだひっそりと静まり返っている。室外機の生暖かい風と運河から上がってくる生臭い風が混ざり合って悪臭を発している。

 駿佑は階段に腰かけ、胸ポケットから取り出したタバコに火を付けた。吐き出した白い煙が、すっと消えていく。タバコの匂いが、辺りの悪臭と混ざり合って駿佑にまつわりつく。駿佑は放心した顔で刻一刻と明るくなっていく空を見つめていた。

 駿佑には今自分がどうすべきなのか、全く見当もつかなかった。

 兄は全て自分が決めればいいと言った。だが、果たして今の自分は何をすべきなのか───。

 わからない。

 本当に自分がしたいことは何なのか。かつての自分にはそれがあったはずなのに、今となっては何一つ思い浮かばない。今の自分の中にあるものといえば、ただただ現状から抜け出したいという気持ちだけである。

 だがそれも結局、ただ嫌なことに背を向けて逃げているだけに過ぎないのかもしれない。

 逃げたらその後の向上はなく、ただただ落ちぶれていくだけなのではないか。

 逃げ出したくてしょうがないはずの現状すら、ひっくり返すのが怖い。

 いつまで経っても、駿佑の中で結論が出なかった。

 指の間に挟んでいたタバコの先っぽから灰がはらりと落ちた。ちびたタバコを、脇にある灰皿に突っこむ。と、ポケットに入れていたスマホからLINEの通知音が鳴った。兄からのメッセージだった。トークを開くと、写真が一枚、夜明け前の富士の写真が送られてきていた。まだ日の出前の空にどっしりとそびえる富士の姿に、駿佑は少しばかり気が晴れるような気がした。グッドマークのスタンプを兄に送る。どこかで烏の鳴き声がした。



 その日の夜。

 もうすぐ日付が変わろうかという時刻なのに、金曜日の夜とあってか東京駅のコンコースは多くの人が行き交っている。

 駿佑は駆け足で新幹線の乗り換え改札へと向かっていた。約束の時間を少し過ぎている。待ち合わせ場所に着くと、悠佑がちょうど東海道方面の改札口から出てきた所だった。カジュアルめの白茶のスーツ姿で薄型にリュックサックを背負っている。

 「おかえり」

 「おう、お疲れ。いきなり呼んで悪かったな」

 「実家はどーだった?」

 今朝送られてきた写真から、駿佑は兄が実家に帰ったことは勘付いていた。

 「その話は帰りながら」

 そう言って悠佑が歩き出す。細身に仕立てられたスーツが華奢な悠佑によく似合う。

 「新幹線で行ったんだね」

 「いや、車」

 「え?」

 腑に落ちない顔で、駿佑は首を傾げる。

 「いや、最終の新幹線間に合わなかったから車で行ったんだけど、慣れない長距離運転して疲れたから、帰りだけ新幹線で帰ってきた」

 「いや、片道だけでもちゃんと運転してったのすげーよ。昔はにーちゃんクソほど運転ヘタだったのに」

 「仕事で車使うことも多いから、大分上手になったぞ。まぁ、まだお前には敵わないけどな」

 「てかさ、平日なのによく仕事休めたね。あと、車向こうに置いてきて大丈夫だったの?」

 「…有給が余ってたから一日使ったんだよ。車のことは父さんに頼んだ」

 「そっか」

 「んで、お前、明後日は時間あるんだよな」

 「うん、LINEで送った通りだよ」

 「明後日、父さんと母さんが車で東京に来る。その場で改めてお前のこと話すことにした」

 「うん、わかった……」

 「まぁ、あらかた俺が話してきたから、お前はこの前俺にした話を二人の前でしてくれれば大丈夫」

 「わかった……」

 「そう難しく考えるなって。俺が上手くやってやるから」

 二人は一番端の中央線のホームへと続く、長いエスカレーターを上っていく。

 「会社寄ろうと思ったけど明日でいいや。このままお前ん家行っていい?」

 「散らかっててもよければ」

 「そんなの今に始まったことじゃないだろ。俺がまた片付けてやるからいーよ」

 「ありがと」

 「それと、お前まだメシ食ってないんだろ? 帰ったら何か用意してやるよ」

 「ありがと」

 「別にこれぐらいいーんだよ。弟なんだし」

 兄の何気ない言葉が、妙に駿佑の心に沁みた。

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