2-1

水曜日の夕刻。

スーツ姿の駿佑は、新橋駅前の喫煙所でタバコを口にくわえてぼんやりとしていた。いつも多くの人がいる場所だが、今は珍しく人影もまばらだ。駿佑は大きな灰皿一つを独占して、狭い都会の空を見上げていた。ふーっと吐き出した煙が、紺のペンキを塗りたくったような低い空に消えていく。ふと溜まった灰を落とそうと脇の灰皿に目を向けると、自分の履いている黒い革靴が目に留まった。爪先の方にはシワが付き、所々擦り切れて表面のエナメルが剝げている。と、よく磨きこまれた飴色の革靴が自分のすぐ目の前で止まった。

 「お前がタバコ吸ってんの初めて見たわ」

 革靴の主は凌介だった。濃紺の三つ揃えのスーツをパリッと着こなしている。駿佑は慌ててタバコを口から離す。

 「いきなり呼び出して悪かったな」

 「大丈夫。ごめん、タバコ嫌いだよね」

 「まぁな。でももう慣れた」

 そう言いつつも凌介は不快そうな顔をしている。

 「こっち立って」

 それを見た駿佑が兄を風上に立たせる。

 「その様子だとオレがタバコ吸ってたの気付いてたんだね。にーちゃんの前では吸わないようにしてたんだけど、」

 「まぁ兄貴だからね。お前の部屋少しタバコ臭かったし」

 凌介が得意顔で弟を見る。

 「マジ? ちゃんと芳香剤置いてたんだけどなぁ」

 「何吸ってんの?」

 「ハイライトのメンソール」

 「お前意外と古臭い趣味だな」

「吸ってみる?」

 「やめろ。臭い。気持ち悪い。俺に近付けるな」

 駿佑が差し出した吸いかけのタバコを、汚れた物を見るかのような目で見る。

 「そこまで言わなくても……」

 「体によくないからあんまり吸うなよ」

 「はぁーい」

「それより仕事大丈夫だったか?」

 「うん、さっき終わったとこ」

 「少しだけ付き合ってくれないか? 飲みに行こ」

 「いいよ」

 そのまま凌介に連れられて、駿佑は裏通りのバーに入った。趣のある上品な店だが、十人も入れば一杯になるような狭さだ。二人は細長いカウンターの一番奥に隣り合って座る。客は二人の他にはいない。凌介はカシスベースのカクテルを、駿佑はハイボールを頼んだ。

 「明日平日だから早めに切り上げるぞ」

 突然の呼び出したことにバツの悪さを感じているのか、凌介はやけに弁解口調だ。

 「いいよ、全然。どーせ家で飲むつもりだったし」

 「最近飲み過ぎてないか?」

 「大丈夫だって。約束通り一日一缶までしか飲んでないって」

 例の一件があって以来、凌介は弟に、酒は一日一缶までというのを守らせているのだ。

 「病院だって行ってるんだし、最近体調も落ち着いてるから大丈夫だって。にーちゃんは心配し過ぎ」

 「ならいいけど…」

「それよりさ、オレの今後について訊きたかったんでしょ?」

駿佑がハイボールのグラスに付いた水滴を親指で拭う。

 「やっぱり分かってたか」

 「まぁ弟だからね」

 駿佑が得意顔で出されたナッツをつまむ。凌介がカクテルを一口だけ転がすようにゆっくり飲む。

 「まぁ…、あまりとやかく言う気はねぇけど、今の段階でどれぐらい考えてるかは聞かせてほしい」

 「いーよ、いつかはにーちゃんに話すべきことだと思ってたし」

 駿佑もハイボールを飲む。

 「まず、今の会社を辞めたら、もう少し楽な職種に転職するつもりでいる。けど、具体的にはまだ決めてない。だから、一ヶ月か二ヶ月は考える時間がほしいと思ってる…。今の会社は準備が整ったらすぐに辞めるつもりでいる」

 「わかった」

「デスク仕事はやめておこうかな、って考えてる。ホントに今は何をやりたいとか考えるまでの余裕ないから、まだそれぐらいのことしか考えられてない。けど、ちゃんと正社員で雇ってくれる場所を探すつもりでいる」

 「そっか…」

 凌介はしきりにカクテルグラスをくるくると回している。

 「とりあえず、今の会社辞める方法は考えてあるから、お前は心配しなくていい…」

 「わかった。にーちゃんに全て任せる」

 「ただ…、辞める前に一度ちゃんと父さんと母さんに話しておこう。いくら俺らが社会人だからって、これは親に無断で決めることじゃない」

 「そうだね。けどオレ今時間取れないから実家帰るの厳しいよ?」

 「んー、かと言って電話で済ますようなことじゃないしなぁー。まー何とかなるだろ。何か方法考えておくわ」

 凌介はグラスを口元に近付けたまま、遠くの方を見てぼんやりと考えこんでいる。

 「まぁ何か決まったらお前に連絡するよ」

 少しだけ残っていたカクテルを飲み干し、空になったグラスを置く。

 「お前次何か飲む?」

 空になったグラスを見て、凌介がメニューを弟の方に滑らせる。

 「いいの?」

 「…今日は特別な」

 「ありがと。じゃぁオレは何かビールに…、このクラフトビールにしようかな」

 「お前よくビールなんか飲めるな」

 「そう言うってことは、にーちゃんまだ飲めないんだ」

 「いや、乾杯の時のために一杯だけは飲めるようにした」

 「すげぇな」

 「マスター、カルーア・ミルクとペールエール一つお願いします」

 もう少し酔いが回った声で、凌介がカウンターの手前にいたマスターを呼んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る