Bar9本目:初めての夜(2)

 この世界に来て初めての食事――あずきボー以外の――に舌鼓を打った俺達は宿の女性が言っていた通り、宿に戻る前に、公衆浴場に寄って行く事にした。

 入口で2人分の料金を払い、持っていない石鹸やタオルも購入し、ロビーから男女別に分かれた浴場に入って行く。勿論石鹸やタオルと云うのも……以下略。何か読めない筈の文字で書いて有ったし、聞いても分からない筈の言語で返された。

「ぢゃ、また後でね、善哉ぜんざいっ!」

「ああ、どっちか先に出たら、ここで待ってるって事で」

「りっ!」

 俺がロビーの椅子を指しながら言うと、笑って敬礼をしたまま、七妃は女湯の方に消えて行った。

「さてと……」

 男性用脱衣所に入った俺は、脱いだ服を周りの人に倣って空いた籠に入れ、タオルと石鹸を持って浴場に向かった。

 身体を流してから湯船に浸かると、一日歩いた疲れが、染み出て行く様な気がした。

 ここで俺は初めて、自分の身体が疲れを訴えていた事に気付いた。

 そう言えば今日は、今迄生きて来た中で、一番歩き続けたな。

 それでも歩き続けられたのは、この世界だったからか、それとも……。

 こっぱずかしい考えが浮かんで来たので、手でお湯を掬って、顔に掛けた。


「ぜーんざいっ! お待たせっ!」

 風呂を満喫した後、ロビーに出て椅子に座ってグッタリとしていた俺に、七妃の元気な声が掛けられた。

「あっ、ああ、いや、待ってないよ」

 答えながら顔を上げると、そこには湯上がりで上気して頬を赤くしている七妃が居た。……いや、七妃が居る事は分かってはいたけどさ。

「どしたん、善哉ぜんざい?」

「べ、別に? じゃあ行こうか」

 立ち上がって歩き出すと、七妃は「変な善哉ぜんざい!」と笑いながらついて来た。

 建物から出ると、吹く風が火照った体を冷ましてくれた。

「ね、ね、善哉ぜんざいっ」

「ああ、分かってる」

 ピョコピョコ跳ねる七妃にそう返した俺は、あずきボーを2本出して、その内の1本を七妃に渡した。

「わ、流石っ! ありがとねっ!」

 ニンマリと笑って、両手に持ったそれを首を横に振り振り眺める七妃。

 実際あずきボーを出すと少し疲れる――ゲームで言うとMPみたいなものか――けど、この笑顔が見られるなら安い物だ。どうせ、直ぐに宿に帰って寝るんだし。

 ……寝る?

 自分で思い浮かべた言葉に反応して、心臓が急に早くビートを刻み始める。

 いやいやいや、部屋は別だし、……そう云う事は、全てが終わってからだ。

「ねえねえ、思ったんだけどさ」

「ん?」

 あずきボーを両手で持ったままの七妃に声を掛けられて、現実に引き戻される。

「この世界の人達ね、私の格好を見ても、変な顔1つしないんだよね。どう見ても、全く違う物なのに」

 言われてみて、思い出してみる。そう言えば、宿でも、食堂でも、今の公衆浴場でも。

「気になって無かったけど、確かにそうだな」

「ねっ。『気になって無かった』って事は、周りの人も気にして無いって事だよねっ」

「ああ。これも言葉みたいな世界観の翻訳が掛かってるのかな」

 浴場の前で話す俺達を、道行く人にも一瞬見る人は居るけど、特に怪訝な表情をしたりする様な事も無い。

 あずきボーの端を齧ってみる。まだ硬くはあるけど、少しだけ、齧り取る事が出来た。

「……ねえ、善哉ぜんざい。明日さ、服屋さん寄れないかな。今日のお宿にはカウンターの後ろにパジャマみたいなのが置いてあったから、借りられたら良いんだけど……」

「ああ、そうしようか。俺も着替えが欲しい」

 俺の返事に、いつの間にかモジモジしていた七妃は笑顔を弾ませた。

「やた、決まりね! あ、でも明日は情報収集もしなきゃだから、もう1日この街に居る事になるのかな?」

「あー、まあ、場合によってはな」

「……そっかぁ」

 そして、今度は寂し気に。……どうしたんだろう。

「――まあ、急いだ方が良いとは思ったんだけど、焦るのはいけないよな。この世界での足元を固めないと。いっそ明日の情報収集、一日掛けてみるか?」

「良いのっ?! それなら、お宿のお姉さんに明日も泊まる事を伝えないとね!」

 嬉しそうに言った七妃は、満面の笑みと共にあずきボーにかぶり付く。本当に、コロコロと表情の変わるお人だ。……本当に、良かった。

 俺も、あずきボーにもう一度齧り付いた。さっきよりも硬さが無くなっていて、程良い感触と共に齧り取る事が出来た。


 それから明日の事を話ながらあずきボーを食べ終えた俺達は、体が冷えない内に宿に戻った。

 カウンターで連泊の予約をして男女用それぞれのパジャマを借りた俺達は、2階に上がって、それぞれの部屋に――。


 ――と、不意に、七妃の部屋の前を通り過ぎて自分の部屋に行こうとした俺の服の裾が、後ろから引っ張られた。

 思わず転びそうになったけど、すんでのところで足を突いて踏ん張った。

「ちょっ、高茶屋っ!」

「ごっ、ごめんっ、そんなに体勢崩すとは思わなくってっ!」

 その顔を見ると、泣きそうな顔をしていた。

「べ、別に怒ってる訳じゃ無いから……」

「うん……」

「それで、どうしたの?」

「あのね……。明日からは元気にやって行きたいから、今日このままそれぞれの部屋に分かれる前に伝えたかったんだけどね。あのね。コンビニの前で、助けようとしてくれてありがとう。……ううん、結果は関係無いの。その気持ちが嬉しかったんだし。それに、巻き込んでおいて何なのだけれど、あの時死んでたのが私だけだったら、この世界に来ていたのも私1人だけだった。そう思うと、申し訳無いっていう気持ちよりも、嬉しいっていう気持ちが膨れ上がって来るの」

「いや、申し訳無いと思う必要は無いから。俺だって多分、何も出来ていなかったら、今頃、抜け殻の様になっていたと思う」

「……うん、ありがとう。……私、それが、善哉よしや君で良かった!」




 チュンチュンチュンチュンチュン……。

 外から、小鳥達の鳴き声が聞こえて来る。――もう、朝か。

 寝惚け眼を擦りながら木製の窓を開け、置いてあった心張り棒を落とさない様に慎重に噛ませると、部屋の中に朝の爽やかな空気が入って来た。

 ……昨夜はなかなか眠れなかった事は、言う迄も無い。

 トン、トン、トン。

善哉ぜんざい、起きてる?!」

 ドアをノックする音の後に、明る目の七妃の声が聞こえて来た。

 昨夜言っていた通り、ギャルモードで行くらしい。

「ああ、どうぞ」

 返事をすると、木製の扉が重めにギィィと音を立てて開いた。

「おはよ!」

 七妃は、宿で借りたパジャマを着ていた。道具が無いから当然だけど、メイクも昨日銭湯で落としたまましていない。……とは言え、七妃のメイクは元々ナチュラルメイクだったので、全く気にはならない。

「ちょっ、ノーメイクなんだからそんなに見ないで!」

 ……と思っていたのは、こっちだけだったか。

 七妃は、急に叫んで両手で顔を隠した。

 とは言え。

「でも元の世界と同じ化粧品なんて無いんだから、そんな事言ってたら、ずっと顔見れないだろ」

「……それは困る」

「戦ってる時も、アイコンタクトとか取れなくなるよな」

「……それも困る」

「この世界の化粧品とか、どうなってるんだろうな。服と一緒に見に行くか?」

「うん!」

 提案すると、七妃は声を弾ませた。

「でさでさっ。早く目が覚めちゃったから宿の人とちょっと話して来たんだけど、もう食堂が開いてるんだって。朝早くから仕事する人も多いみたいでさっ!」

「そうなんだ。じゃあ、朝ご飯、食べに行くか?」

「うんっ、行きたいっ! それにね、この時間だと、なんと……」

「なんと……?」

 思わせ振りに溜める七妃の雰囲気に釣られ、思わずゴクリと息を呑む。

「モーニングが有るんだって!」

「モーニングがっ?!」


 その報告に、一気に目が覚めた。

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