2.Indwelling

 自分の住んでいる集合住宅の一室に着いた隈川は、鍵が閉まっていることを何度も確認した上で、溜息をついた。暖房のついていない部屋は外同様に寒く、吐息は白い煙となって、暗い室内に拡散した。


 彼は部屋の電気をつけて、暖房のスウィッチを入れて、マフラーを外しコートを脱いだ。すると、先程まで感じていた緊迫感の為の疲労を強く感じた。又、この疲労は外の凍えるような寒さの為でもあった。彼は熱いシャワーを浴びる事にした。


 実際のところ、シャワーを浴びている時さえ彼の心はそぞろだった。警察は、どこかで俺が年代物のパソコンを買って【創作罪】の犯行に及ぼうとしている所を、おさえようとしているのではないか。そして、今にも俺の部屋に押し入り、俺を逮捕するのではないか。このような不安が彼の脳内に駆け巡り、彼の心持ちは決して穏やかではなかった。


 幸いこういった思考は杞憂に過ぎず、ドアをノックされることも、蹴破られることもなかった。隈川は濡れた体を拭きながら、溜息を再びついた。が、それは安堵によるものだった。温まった隈川の身体には充足感が宿り、鋭利な創作意欲がやおら湧いてきた。隈川の脳内には取り留めのないアイディアが浮かんでは消えてゆき、その思索の奔走は出口を求めたがって、うずうずとしていた。


 隈川は冷蔵庫を開け、一五◯ミリグラムカフェイン溶液を取り出した。蓋を開けると嘘っぽい香料が鼻をついたが、には十分だった。本物のコーヒーは高い税率がかけられているので、彼の経済状況ではなかなか手が届かないのだ。いや、コーヒーばかりじゃない。


 この国では、あらゆるカフェイン含有飲料に税金が課せられていた。その理由は、国民の健康を守るためであったり、財源の確保のためであったりした。


 確かに今の日本は、旧世代のインフラの更新が間に合ってないし、こういった金策は致し方ないと、隈川は考えないことも無かったが、常日頃本物のコーヒーを飲む優雅な生活を思い描かかずにはいられなかった。


 休日の昼下りに、バルコニーで木漏れ日を受けながら、香る湯気を放つ、白磁のマグカップに入った黒々とした液体を飲むことは、隈川にとって思い描かない日など無い夢だった。

 隈川は飲み切ったカフェイン溶液のボトルを投げ捨て、先程買ったノートパソコンの梱包をむしり開けた。それを丁重に持ち上げ、丹精に細部を見渡してみると、裏には掠れた文字で、製造番号などの情報が記載されていた。しかし、どこで造られたかなどの詳しいことは分からなかった。


 プラグをコンセントに差し込み、電源を付けた。パソコンは長い間起動されていなかった為か、立ち上がるまでにかなりの時間を要した。彼にはその時間がいたくじれったかった。それは彼にパソコンの知識が足りなかった為でもあるし、書きたいという気持ちが早まった為でもあった。


 彼は先程店主から貰った紙とボールペンの存在を思い出し、起動を待つ傍ら、先ずは書きたいものを紙に書き出して纏めてみようと思い立った。しかし、紙は五枚しかなかったので、その一枚を丁重に取り出し、それのごく片隅に、読めるか読めないかの瀬戸際の小ささで文字を書くことにした。


 しかし、いざアイディアを記述しようと試みると、それが具体化しないことに気づいた。骨太な冒険記、美女との熱い恋愛等々、彼の脳内につい先刻まで醸成されていたかと思われたそれらは、単なる欲求の一片に過ぎず、物語として不完全であったのだ。


 己は書く手段を得ただけで、物語を作れるかどうかに関しては、また別の問題であることに気づいてしまうと、先程までの思索の奔流は止まり、創作意欲も跡形なく潰えてしまった。隈川は空虚だった。パソコンは未だ起動中で、ファンが回り出している。その音がやけにうるさく感じられて、仕方がなかったようで、彼は眉間に皺を寄せた。


 隈川はノートパソコンを畳み、それをタオルで包んだ。その行為は、相変わらず煩く回転し続けているファンの音を遮断するためでもあり、不意に警察に家宅捜索をされてしまったときに、発見を遅らせようと考えた為でもあった。その方法が良いか悪いかはさておき、隈川は現時点ではタオルで包む以外に解決策を思いつくことが出来なかった。


 タオルでパソコンをくるんでしまうと不思議と安堵してしまい、全てがどうでも良くなってきた隈川は【共感映画】でも見て寝ようと思い、ヘッドセットを用意し、で起動される方のタブレットを手に取った。


 五秒も立たないうちに、政府公式の機械デバイスは起動し、画面の横からは親切にも今話題の【共感映画】のトラッキング広告が画面の端に表示される。タイトルは『西町で起きた生徒間の恋愛と発展』だった。これは実際に起きた出来事を元に役者が再現したものだ。話の筋は専門家立ち合いの元、最大限事実に基づいて、限りなく潔白に製造されていた。誠実な作りのノンフィクションであることを保証されている、国家直属撮影機関がクレジットに表記されていた。


 彼はそれをいつも通り一・五倍速で再生しながら視聴した。ヘッドギアは常に脳に働きかける。帯状回、偏桃体、パペッツ回路に特異的な電波を付与され、神経伝達物質が駆け巡る。現実と違う事と言えば、共感できる感情が一・五倍の早回しで隈川の心もとい、脳に流れ込んでいくことだった。


 そのため隈川は強烈なカタルシスを感じていた。彼は、自身が【集団行動訓練学校】(註・ムニンが開発されてからというもの、学校というのは、学問の場から、社会性の獲得のみを目的とした場へと変遷した)に通っていた頃の味気ない人間関係と、劇中で生徒が繰り広げる壮絶な恋愛と成長とを比較し、眼に涙を溜めていた。俺もこんな青春を送りたかった、と隈川は声になったか分からぬほどの小さな音で、声帯を震わすのであった。




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